第14話

〈姉〉

 例えば脳移植をすれば誰かからの恣意的な迷惑メールの履歴は一掃されるのではないだろうか、という科学機知を冴え渡らせると同時に、縁との輝かしい過去の消去を危ぶむ猜疑心や臓器を他者から拝借する際の私の抵抗感及び縁の嫉妬的感情への心配、また万が一縁から脳を受け取る場合の何とも言えない悲壮感が疲れた頭に沁み広がり、それに呼応するような欠伸がテーブルへと向かった。日頃の蓄積と構築が引き起こす思想の仮設住宅は脆くて傾きやすいと分かっていながら、非現実の空想が現実を前に耐え切れず露になってしまう。確かに今更声を大にして取り上げる程の事柄ではないが、小さい声で呟き続けられる程度の事実でもない。だから沈黙の広がる状態に宿を見出すしかないというのは一つの的を射た現実である。

 こんな風に実相と無相、認識と意識、多数と少数の狭間で振り子運動をしている九月中頃、私は学校へ登校することを止めて温かい我が家に引き篭もっていた。縁の居ないリビングや各部屋は少なからず充実感に欠けるが、縁の残り香が充満しているだけで僥倖だ。翻って世間に括られた人々が今頃汗水垂らして業務に励んでいることを思うと、誰に言われるでもなく自発的に在宅の警備に就いているに同値な私は対照的にその種の職業病に浸る。虚しいのか富んでいるのか不安定で、学校に行くという選択肢に限っては剥奪された状態だ。本当の所を言えば今日は学校の創立記念日というだけなのだけど。

 その上で今の私が安定を取れないのはやはり縁の不在に起因している。学校が雲散霧消しようが爆発四散しようが心頭滅却しようが、私の日常生活に及ぶのは及ぶとしても正の方向の幸せに限るだろうと容易く予測されるのに対し、縁が居ないと心の軸が実軸と虚軸に散らばってしまうような欠乏症に落ち込む。加えて最近の中でも更に側近の外囲の影響もまた、改めて題する必要無く大きい。寧ろ根本であると言ったことは過去に何回か述べた気がするが。

 当の縁は宿題を教室の机に忘れたことに気付いたようで、休日にも関わらず事実上の登校に駆り出てしまった。季節を引きずる太陽がどっち付かずの照明を注がせる午前の終わり際、手を振って出張を果たす縁を心寂しく見送っていたが、後になって同行すれば良かったかもしれないと若干思い置いた。そうして現在の孤独な思案に至る。しかし腐ろうと上昇志向な私は、新たな思い付きとして縁の居ない隙に縁の部屋を楽しむという名案を短時間で考え出した。天才的な発想に私自身開いた口が塞がらない。

 具体的な楽しみ方は現場で確かめようとリビングから二階へ上昇移動し、この上無く雅な作法で縁の部屋に入った。開けた空間に広がる景色は、まだ整えられていない布団や脱ぎたてほやほやのパジャマで彩られており、私の焦点は滑り出しから漁師に釣られる魚のようにそこへ泳ぐ。扉を閉める過程で何とか即席の理性を取り戻し、縁の部屋全体を把握する。

 そうして見てみると、今まで通り私の部屋より良い意味で騒然とした装いが確かめられる。縁に何か変わったところがないかという姉としての常日頃の心配も無事杞憂に落ち着く。

 その心の動きに合わせて、ゆったりと縁のベッドに乗り掛かる。ここ暫くは私の部屋で一緒に寝ることが大半を占めていたので、じっくり縁の部屋に居座るのは久し振りだ。だからなのかは定かではないが、つい縁の生々しい生活感、特に縁の寝相がプリントされたその布団や、縁の質感がインプットされたそのパジャマには何か掻き立てられるものがあるのは確かだ。何かって何かしらと恍ける暇も無い程に、静かな衝動が波を立てて来る。考えるより感じろ、と言うように。

 とうとう我慢出来なくなった私は、縁の布団に潜り込んだ。誰からも見られていないことを良いことに、貪るような勢いで絡み付いた。ベッドからはみ出たパジャマを回収して、巻き添えにして抱き寄せる。布団とパジャマを編み合わせ、そこに柔らかな縁を形作るようにして擬似的な触れ合いに身を預ける。身体をあちこちに捻らせることで、様々な体位から繊維の感触を楽しむ。触覚だけに悦楽を許すのは許すまいと、覚醒を果たしている視覚に加え高濃度の縁の匂いを余す所無く吸引してくれる嗅覚と、布団の端やパジャマの腹部付近を中心に甘噛みすることによって働く味覚まで活用した。それでも尚身体中が縁の癒しを求め続ける。

 あと一歩で境界を超え、経験を生み、段階を抜けたであろう夏休み前日の一夜が頭を過ぎる。あの時は縁の予期せぬ行動にただ只管流されていた節があったが、今の私が同じ状況になるとしたら私から縁を押し倒しに行くかもしれない。無機物を楽しむに足りず、縁から直接の享楽を欲する気がしてならない。今はそんな気分だ。学校の無い一日だからこそ穴の空いた理想に治癒を望むのだ。

 縁のベッドで縁を想像して、縁の私物で縁を感じる。世俗なんて置き去りにすればとても健全な行為で、世俗が立ちはだかって来るとすれば健全に向けた尊大な行為だ。勿論それは大好きな縁が私の近くに居てくれるという絶対の信頼の元に成り立っている。その基盤の上で私は縁を想うのだ。一部の他人の狭苦しい土台はどうしても避けるべきだし、出来る限りそうしているから。その分の頑張りと縁への願いを隠しながら、ベッドの上で幻想に慰めてもらう。

 包まる布団の中で枕の反対側に飾られた時計の短針が一周するのを忘れて夢中になっていると、次第に今までの虚像が実像になるように思えてきた。鉢植えに愛情を込めて話し掛ければやがて向こうから喋りかけてくれるようになるという一般的な迷信の如く、布団に熱を与え続けた成果が縁の化身として現れたのかと感動一入に興奮する。しかし余りにも熱が高まると頭の壊れた人間だと世間の顰蹙を買ってしまう恐れがあるので、頭を冷やすのを兼ねて布団からひょこりと顔を出すことにした。

 部屋の明るみに出ればそこには妖精となった縁が私を出迎えていてくれるのではないかと癒された妄想心を疼かせて、呼吸の復調と共に布地の蓑から頭を生やす。そうしてぷはあと肺から吐いた瞬間のことだった。

 あ。

 布団を肩まで下げたことで鮮明に映る私の視界には、開けた扉の前で、開いた口を塞げられない縁が居た。

「お姉ちゃん……?」妖精より可憐な縁が行き先の消えた空気を吸い込み、不可思議で飾られた声を投げ掛ける。どうやらいつの間にか帰って来ていたらしい。うむ、まずい。聴覚にも気を配っておくのだった。さてどう言い訳したものか。


〈妹〉

 折角の休日なのに、宿題を忘れたせいで学校に行く羽目になった。どちらかと言えば羽目を外したい年頃なのに、学生の本分に嵌められることになった。かめはめ波を今のわたしが校舎に撃たないか撃つか選べたら、講釈垂れる間もなく後者だよ。

 一方でリアリティある光線がじりじりと降り注ぐ空の下、日陰を歩く日陰者として社交的に射光を遮光しながら通学路を辿っているわたし。休日出勤への手当てはないのですか、先生。校内で部活動に精を出す生徒達は土日祝日年がら年中お好きにどうぞという感じだけど、わたしはお姉ちゃんを土日祝日年がら年中「好きに、どうぞ……?」したりされたりしたいから、外出している場合じゃないのに。クラスの中で下手に目立つのを危ぶむ理性と、お姉ちゃんの隣に居たいという本性が拮抗して難しいよ。選択的、恋愛的に本命はお姉ちゃんで、それは今も昔も同じだけど。全く優等生も楽じゃないやい。

 入学してから毎日通っている道だけど、一人で歩くのは久し振り、というか多分初めてだ。わたしのナビゲーションは地形ではなくてお姉ちゃんに設定してあるから、周りの風景がうろ覚えで迷わないかちょっとばかし不安。現在地ではコンビニとスーパーを足して三で割って六倍して最後に二等分したような店に繋がる曲がり道が右側に、前方正門まで一直線の道路が伸びている。買い出しの用事は無いし右手で街角迷路を攻略するつもりも無いので、全身全霊で前進する。学校に近付くにつれお姉ちゃんとの距離は遠くなり、お姉ちゃんの行動がわたしの手から離れることでわたしの知らないお姉ちゃんが生まれてしまったら、と焦燥に駆られる気持ちはあるけど行くしかない。

 そうそう、始業式の日はつい一学期と同じ格好で登校してしまったけど、次の日からはきちんと装着した。お姉ちゃんから貰った白色のシュシュ。触れるとお姉ちゃんの温もりが伝わってきて四六時中、四方八方をぎゅるりと摘んでいる。今回が初めてではないけど、いつに無く愛を感じる贈り物だ。他人からの物だったらこんなに執着しないし、隙を見て捨てているだろうに。プレゼントの価値を決めるのは量より質、質より相手、相手よりお姉ちゃんだね。わたしもその内何かお姉ちゃんにあげたいな。わたしの初体験ならあげられるかな。ファーストキスは交わしたから、他には何があるだろう。

 さっきのお姉ちゃん、初めての買い物に出掛けるように見送る様が愛しかった。ドレミを口ずさみながらお姉ちゃんの寝起き姿にむふふとなってしまう。それならお姉ちゃんが物陰隠れて尾行する可能性があるのではないかとナビを敏感にさせてみるけど、見当たらないのが嘆かわしい。お姉ちゃんお姉ちゃん唱えながら白線に沿って、白いシュシュを撫でて白い目を気にせず空白な時間を流してみる。

 暫くするとのっぺらした建物が見えてきた。今日が誕生日の校舎。祝祭というよりは粛清すべきだけど。二学期にして漸くまともに視界に映した気がする校舎の正門を通ったら、校舎の分岐点からは恒例の順路を進み、特例ののどやかな廊下を抜けて、やったこさ教室に着く。お姉ちゃんが傍に居ないと体感時間は茹でた蕎麦のように長い。この教室全体を汁に喩えるなら薬味の葱であると言って見劣りしないわたしは、お姉ちゃんに啜られたいと思いながら液面に溶けた。どっちかと言えば齧られたいか。と考えながら教室に入った。

 するとその中に何か不純物が混入していた。ええぃこの状況を作ったのは誰だと叫んだ所で不純物相手に至高を説くのは酷なので、何も言わずに窓側の席へ向かう。比喩は窓の外に放すとして、そいつは一向に席から離れてくれない。というかわたしの席に座っている。くそぅ邪魔だよ。

 誰と知らない相手を後ろから「誰だ?」と覆う訳にはいかず、特筆と筆舌の尽くし難い足音を立ててすったすた近寄る。お姉ちゃんには今度やってみよう。むふふとしつつ、鬼ごっこだったらタッチしてすぐ逃げる程度まで距離を詰めると漸くその顔が振り向いた。軌道に沿って動くのは名状し難いパーマ髪、環状に広がってゆく瞼、そして現状わたしより脂肪分の多い肋骨俎上。井口だ、こいつ。

「あれ、縁ちゃんだ」

「……こんにちは」この前の印象がまだ後を引いて接し方も一歩引く。井口は休み明けの日、お姉ちゃんを執拗に眺望してきた怪しい奴。一学期中はただの隣席の人だったのに、夏休みデビューか何かで大幅な進化を遂げた人物だ。過敏に扱えば危険人物とすら認定出来る。それとも元々の性格なのか。

「珍しいね縁ちゃんが休日に学校来るなんて。どうしたの?」言いながらわたしの席を自分の席のように座り続ける井口。どうしたのはわたしの台詞だし、井口自ら怪奇度を着々と稼いでいくようだけど和の心を重んじて会話を成り立たせよう。

「宿題忘れちゃって」

「あぁこれね」心の籠った返答に対し、井口は平然とわたしの机からノートとプリントを抜き取り掲げてきた……ってどういうこと?あれ、あれあれあれれ。おかしいな。そこはわたしの場所で、それはわたしの物なのだけど。度数の高鳴りが止まらない。

「何でそこに座っているの?」我が物顔でお尻と椅子を貼り合わせる井口に訊いてみる。

「ん……おっと失礼」無自覚だったらしく、対応の遅れを見せる井口はゆっくりと隣の席に移る。方向間違えて窓から飛び降りても良いと思うよ。そんな願いに聞く耳を持たず退屈かつ偉そうに足を組む井口。

「………………」

「………………」そして何故か無言になる。いや理由を言ってよ。疑問は是正ではなくて説明を求める意図だよ。するとわたしの淡白な思いの破片でも届いたのか、壊れたアナウンサーみたいに喋り出した。

「あ、あたしが縁ちゃんの席に座っているのは決してやましい気持ちじゃなくてね、まぁ確かに縁ちゃんに断らず悟られないよう実行しているのは不誠実と言えなくもなくもないんだけど、縁ちゃんに嫌がらせするつもりなんてこれっぽっちも微塵も露程も無いんだよ。単なる純粋な好奇心って言うのかな。だってこの前あたし、縁ちゃんにお姉さんが居ることを偶然、いや必然にも知っちゃった訳でしょ?だったらもっと縁ちゃんと縁ちゃんのお姉さんのことを追求したいと思うのは同じクラスメイトとして、友達として人間として当然のことじゃない?少なくともあたしにとってはそれが常識の範疇だから行動の原理だからだからだから、縁ちゃん宜しくね?ごめんね?何か凄く沢山喋っちゃって。でも全然止まらないのお喋りが止まらなくて次から次へと言葉が出てくるのこれって縁ちゃんと一緒に居るからかな?そうそう話は変わるけどあたしが今日学校に来たのは縁ちゃんのこともあるけど一応情報部に入っているからっていうこともあるからよかったらその情報も覚えてくれたら嬉しいな縁ちゃん。因みにお姉さんとは今どうなっているの仲良いの悪いのそもそもどのくらいの親密度なのそこら辺詳しく教えてくれないねぇねぇねぇ」

 口調に合わせて加速度的に唇を突き出してくる井口。何に必死なのか分からないけど静まりなされ。おすわりお手と言ったら落ち着くかな。言動が直線状で野性的だから可能性はある。お姉ちゃん以外とはなるべく触れ合いたくないけど。しかしうーん、どうやらこの子嘘が吐けないらしい。だって話さなくてもやり過ごせることを次々と暴露しているもの。こいつの回り回って酔いそうな程回りくどい説明を素直に受け止めれば、自身の知的好奇心、それだけで奇行に駆り出ていたみたい。正直何一つ腑に落ちないけどこれ以上休日を削ってまで関わり合いになりたくはないから、最も気になる点だけ聞いておくことにした。

「わたしの机の中から宿題以外は取り出してないよね?」

「全然取ってないよ!」先程までの概算すれば独り言と言える単調なトークから、やけに元気の良い態度に変えて断言してきた。顔面は悦の境地から素面に戻っている。変わらず理解不可能な人間だけど、どのみちわたしが理解したいのはお姉ちゃんに限るからオーケー。そんでもって井口は嘘吐きでは無さそうだからよりオーケー。何せ机の中にはお姉ちゃんの観察日記が入っているから。大事に大事にしていかないとね。

 ノートとプリントを返してもらったら井口との挨拶も適当に、教室にあいつを残らせることに一脈の不安を覚えながら廊下を抜ける。去り際ちらりと様子を見たけど自身の席で固まって離れなかったから、何かしでかすことは無いと期待する。そうして魔の巣窟のようだった学校を宿題を手持ちにして勤勉さを得た勇者のように去り、移動魔法の使えない交通網の道沿いを歩く。

 帰宅までの道が残り少しになると、有り余る若さとお姉ちゃんへの愛を燃料に投下してスピードを快速に切り替える。大丈夫、お姉ちゃんへの気持ちは潰えることが無いから。電気でも良いよ。お姉ちゃんの刺激による電気信号がわたしの身体にビリビリと。

 そうして帰る頃にはお昼時を過ぎて、おやつを片手にお姉ちゃんとのんびり過ごしたい頃合になっていた。

「ただいま」扉を開けて玄関に入るのと並行して、歓喜の合図を奥の方へ飛ばす。靴を脱ぎつつその反響を待ち構える。けれど中々お望みのものが来ない。

「たっだいまー」もう一度愛拶をしてみても声が一人歩きするだけ。普段のお姉ちゃんなら「まー」あたりで「おかえり!」を返してくれるのに。作業中、勉強中、何かに夢中、考えられるお姉ちゃんの予想図は種々あるけどどれも脳に好ましいので、突撃隣のお姉ちゃん作戦に決めた。向かって確かめよう。何より早く会いたい。

 紙束を抱えて二階を導く階段を一段ずつ上がる。それでもお姉ちゃんの気配は感じない。お姉ちゃんセンサーが狙いを外しているなんてことはないはず。だけどお姉ちゃんの部屋からはお姉ちゃんのフローラル加減が匂わない。どういうこっちゃ。

 まずはお姉ちゃん捜索作戦の為の軽量化を兼ねて、荷物をわたしの部屋に遺棄してやろーとドアを開けたら、お姉ちゃんがわたしの布団で何か動いていた。

 ひえ?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る