第6話

〈姉〉

 バサッ。縁が覆い被さってきた。突如の振動を腹部に刻み込まれた私は思わず「ぬぇ?」と不甲斐無い声を漏らしてしまう。急に飛び込むのは危険だよと夏本番に向けてやる気十分なプールサイドの監視員を真似する余裕も無く、ただどうしたと困惑と混乱に飲まれるしかなかった。いつものようにベッドに入ってくると思って、予め余裕綽綽の心持ちで布団に収まっていたというのに、その思い込みの予想はいとも簡単に現実から軌道が逸れた。

 飛び乗ってきた縁を必然的に下から覗いてみると、縁は火照った美顔と、我が家の階段をダッシュで三往復した後ぐらいの呼吸の乱れを身に宿していた。まさか不意に体育会系アンド癒し系の妹を志す執念が湧き上がったのか、という空想はその名の通り空っぽなので記憶からも思考回路からも別れを告げることにした。

 別れを惜しめば、世間で妹系と称される存在の何が魅力的なのか分からない。単に甘え上手なだけなのではないのか。家族として暮らして初めて妹だろうに。その上妹だからと言って必ずしも甘えん坊の方が好ましいとは限らないだろう。更に言えば世の中色んな姉妹が居てそれぞれの空気感がある。お互いの個性が醸し出す無言の時間と会話している時間、全て総合して姉妹という関係が完成するのだ。姉妹の数だけその関係性がある。当たり前と言えば当たり前だ。

 本当はそんな他人の姉妹事情はどうでもいい。しかし意図したか否かは定かではなくとも、今の私達の状況に関連してしまうのだ。というのも恥ずかしながら私達はここまで激しいスキンシップをした経験が無いのだ。いや、恥ずかしいことなんて無いか。一体誰に羞恥を覚える必要があるのだ。私達はお互いを誇りに思っているのだ。冗談は止めなさい、私よ。手短な発言撤回を交えて説明したが、つまりはそういうことだ。

 お弁当の食べさせ合いはする。お風呂も一緒に入る。だがしかしそれ以上の身体の接触は滅多に無い。勿論それ以下の触れ合いだって縁と一緒ならこの上ない日常となる。しかしベッドの上に来てしまうとその理性は儘ならない。ベッドの上で、大好きな人が真上に乗っかっているのだぞ。

 この状況は言わば一種の格闘戦。お風呂上がりの甘くて温かい香りが漂う、姉妹の非日常の交わり。進化の機会が与えられるならば進むしかない。縁から誘ってきたならば、私もこの大波に乗るしかない。今までの関係を凌駕する時が来たのだ。縁と最高潮の幸せを共有するのだ。さぁ。

「お姉ちゃん大好き」

 初球から真ん中真っ直ぐのストレートが来た。


〈妹〉

 うわわ。どうしよう。

 お姉ちゃんへの気持ちが盛り上がり過ぎて、つい飛び付いちゃった。普段のわたしなら自制が効くのに今日は抑えなれなかった。原因を挙げれば教室でのお姉ちゃん、かな。わたしはお姉ちゃんを大切にしたい。お姉ちゃんを弱気にさせてはいけない。お姉ちゃんを誰よりも近くで見守って、お姉ちゃんを傷付ける奴が居たらわたしが代わりに退治する。保護欲と一纏まりには出来ないお姉ちゃんに関わる全ての希望がわたしを喚起している。

 お姉ちゃんに寄り添いたい衝動がわたしの行動原理を発展させた結果、お姉ちゃんに抱きついたのだろうな。例の玄関先での出来事への報復の意味も無くは無いけど。それは置いとくとしてわたしはまだまだ生き物としての人間の欲望には抗えない、ということか。お姉ちゃんが好きという感情を理性中心で維持しているつもりだった。けれど偶には感情を前面に出すのは仕方ないかもしれない。「お姉ちゃん大好き」これは紛れもない純粋な感情だもの。それに常に理性が弱者で無能な他の人間とわたしとは、根本的に感情の質が違う。

 って、頭の中で呟くつもりが声に出してしまった。まぁいいか。口癖みたいなものだ。あれ、でもお姉ちゃん照れている。何故だろう。割と頻繁に口に出していると思うけど。

 あぁそうか、この体勢だからか。確かにわたしがお姉ちゃんの上に乗っかるなんてことはあまり無いかもしれない。今まで一緒に暮らしてきて一回でもあったかな。寝惚けて絡み付くことはあってもこの体勢は脳内に記録していない。毎日二人で寝ているけど新しい発見が沢山あるね。

 だから今からもっと新しいことするのだ。少し体が熱くなってきたけど、胸の高鳴りが、心拍音がわたしの内側を満たしている。熱意が熱となるならば、熱を熱意に変えてみよう。

「縁、私も好きだよ」

 お姉ちゃんは目を合わせてそう言った。お姉ちゃんも言ってくれた……嬉しい。嬉しい。攻める前に受け止めることになったわたしに、甘美な心模様が降り注ぐ。嬉しい、以外に余計な表現が加わるのを嫌う程嬉しい。何度言われても何度言っても色褪せることが無い気色だ。わたしの不図とは違って、わたしに面と向かって伝えてくれたことがこんなにも嬉しい。顔に出ていると思う。筋肉の緩みが止まらないもの。寝間着にデザインされたあの笑顔のようになっているかもしれない。それでも何でも嬉しさが鳴り止むことが無い。

 ここで以前だったらお姉ちゃんの一言一句のみで満足し、後は妄想で余韻に浸っていたと思う。でも今は。今夜は、続きが欲しい。わたしとお姉ちゃんの心の結び付きに合わせて、身体の結束も図りたい。新しい一歩を踏み出そうよ。ねぇお姉ちゃん。そう決めたので。

「お姉ちゃん、キスしていい?」

 いつか夢見ていた台詞を現実にする。お姉ちゃんは、二、三秒頭が真っ白になったようで、わたし以外が見ても分かるくらい惚けていた。だけどその後ぎゅんと目を閉じたから、覚悟を決めたみたい。お姉ちゃんを見てわたしは改めて決心を強くする。それと同時に、緊張と興奮が心臓から脈を打ってきた。今まで簡単に「お姉ちゃん好き」と呟けていたことが不思議なくらい平静から程遠くなっている。急に勢い良く身体が悶えてきた。

 どうしよう、緊張、緊張。心臓、バクバク。どうしよう。落ち着いて、落ち着いて、わたし。大丈夫、キスくらい、いや、くらい、ではないけど、キスは、キスだ。大事なキス、ファーストキス、お姉ちゃんとキス、柔らかい唇。大事に、大切に、優しく、記念すべき、思い出に、お姉ちゃんに。お姉ちゃん、大好きな、大好きに、大好きで、大好きだ。大好きだから。わたしの、愛を、唇から、届け、たい。あっ、暑い、熱い、あつい、汗、焦って、汗が、噴く。汗、汗、あ。

 ……あ、お姉ちゃんも、汗、掻いている。目を頑張って閉じて、僅かに震えている。そうか、わたしもお姉ちゃんも一緒なのだ。一緒だし、一緒だから何も焦ることなんて無いのだ。そう思うと身体の力がすっと抜けた。

「ずっと好きだよ」

 まだ強張るお姉ちゃんの耳元で静かに囁いて。瞼を黒く染めたわたしは、お姉ちゃんのピンクの厚みにわたしの同じ所を重ねた。ただただ、幸せだった。顔を離してお互いに目線を交わす。初めての行為に興奮しているのか、茫然としているのか、まだ感情の輪郭が掴めない。お姉ちゃんは目尻をどろりと垂らし色ある表情を浮かべるばかり。わたしとお姉ちゃんは仲良くぼうっとしてしまう。このまま思考の迷路に迷わされ続けるのはアリかもしれない。

 だけど嘗てない体験の中でわたし達は何かを感じ取った。あやふやな意識に飲まれながら心に残る物がある。それがわたしやお姉ちゃんにどんな影響を与えるのかは分からない。分からないけど。この家に存在を生み落としてから変わらないと思っていたわたし達姉妹に、確かな変化が生まれようとしていた。

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