第5話

 王宮は広い迷路のはずである。

 それなのに、会いたくない者にかぎってこうして容易に出くわしてしまうのは、なぜなのか。


「あらら、眉間の皺がずいぶん深い。死相が出ているじゃないか」 


 クリスティアーノが鼻で笑う。

 黒い絹のような長髪が、陽射しを浴びて無駄にきらきらしていた。妹ともどもこの兄もまた、容姿だけは抜群であった。

 年齢はイオニアスと変わらないはずなのだが、中性的な美しさのおかげか、ずっと若々しく見える。高貴さをしめす長衣もあいまって、クリスティアーノはその立ち居振る舞いのすべてに、秘密めいた魅力を演出するのがとにかくうまかった。


(会うかどうかは気分で決めるつもりだったが、しかたがない。ここで終わらせてしまおう)


「長生きは好みじゃないので死相は大歓迎だ。そんなことより、私に用があるそうだが?」


 イオニアスがため息交じりに言う。クリスティアーノは含みのある笑みを浮かべた。

 

「昨夜、僕のかわいい妹が世話になったようで、その礼をしなくてはと思ってね」

「ああ、なるほど。礼とはありがたい。ちょうど新しいペーパーナイフを欲していたところだから、それでいい」


 イオニアスのとぼけた返答に、クリスティアーノは朗らかに笑った。


「僕はいま、きみにいやみを言ったんだけれどな」

「そうなのか? それは残念。自腹で購入するとしよう。では」


 イオニアスは軽く会釈し、会話を切り上げる素振りを見せた。だが、クリスティアーノが言葉を続ける。


「ブランカは暗い食料庫から、自力で外へ出たそうだ。僕のところに来るなり泣きついて、体調を崩してしまった。すぐに屋敷に帰らせて、今朝から療養させている」


 大人気なくやりすぎただろうかと、さすがのイオニアスも同情しかけた。うっかり謝罪しそうになった矢先、宿敵が言った。


「妹は陛下の恋人だ。先の舞踏会で、公妾として華々しく披露されたあかつきには、そのお祝いとして素晴らしいペーパーナイフをきみに贈ってあげるよ」

 

 公妾として……って、やはりそうか。

 謝罪気分も一転。げんなりするイオニアスに対し、クリスティアーノは勝ち誇ったような笑みを見せる。


「きみが妹を嫌っていることは知ってる」


 いや、おまえもだ――と、のどまで出かかったが、面倒なのでごくんとのんだ。


「妹の邪魔をするにしても、あれじゃまるで子ども騙しじゃないか。もう少しうまくやらなくちゃ」

「そんな意図はない。使い慣れない魔術の失敗だ」


 そんな意図はおおありだったのだが、そういうことにしておく。と、クリスティアーノが言った。


「きみがどういう人間かは、きみの生まれ星を読めばわかる。きみは失敗をなにより嫌う。陛下に命じられたからとはいえ、不確かな魔術を使うような人間じゃない。つまり、妹を意図的にあそこへ送ったんだろう。違うかな?」

「興味深い見解だが、私は失敗を避けないし、それしかないような人生を生きている。だからこそ王宮ここにいるんだ。もう少し私の生まれ星について、深く研究することをおすすめしよう」


 そう言って彼の横を通り過ぎつつ、イオニアスは付けくわえる。


「念を押しておくが、欲しいのは封を切るペーパーナイフだ。刺客の手にした切れ味のいいナイフではないからな」


 苦笑したクリスティアーノは、わざとらしく目を丸くした。


「おやおや、ずいぶん物騒な忠告じゃないか」

「やりかねないと予想した」


 クリスティアーノがにやりとほくそ笑んだ。


「覚えておくよ」

「そうしてくれ」


 クリスティアーノのそばを離れたイオニアスは、ぐったりとした気分で回廊を歩いた。

 王妃以上の権力を手にする公妾が、あろうことかあのブランカになるだなんて。

 考えただけで胃もたれになりそうだが、陛下を責めることはできない。

 

 利己的な人間は、己を賢く見せるのがうまい。たとえ意見が薄っぺらくとも、自信ある立ち居振る舞いは魅力的に見えるので、宮廷では両手をあげて歓迎される。

 邪悪なブランカは、まさしくそのような令嬢なのだ。殿方であれば誰だって、愛らしいうえに知的風をうまく装えるブランカに、夢中になるのも無理はないのである。

 もちろん、イオニアスをのぞいて。


(しかし、クリスティアーノは妹の生まれ星を読んでいないのか?)


 自分の妹が実際はどのような人物で、公妾になったらどのような事態になるのか予知できそうなものだが、贔屓が先立って目が曇っているのかもしれない。

 それとも、案外立派に役目を果たすと読み、応援しているのか……?


(とにかく、王妃に会おう。ああ、今日はなんて気忙しい日なんだ!)


 一刻も早く書斎に戻り、ものごとを整理する時間がほしい。イオニアスはローブの裾をひるがえしつつ、足早に王妃のサロンに向かった。



 * * *



「紅茶をいかが? イオニアス」


 イオニアスが断る前に、猫を抱いた王妃が侍女のダニエラに頼んでしまった。しかたなく庭園が見える窓際のテーブルにつくと、紅茶と焼き菓子が目の前に置かれる。

 天使やバラが描かれた繊細なカップを目にした瞬間、ふと姉夫婦の娘とおままごとをしたときのことが蘇り、イオニアスはちょっと照れた。


 おきゃくさま、カップをもったときは小指をたてるものですわ。そのほうがゆうがなんですの。


 あのときは四歳の姪に指摘されるまま、小指を立ててカップを持ってしまった。あれは誰にも知られたくない、人生最大の黒歴史である。

 うっかり小指を立てないように気をつけつつ、イオニアスはカップを持った。紅茶をひとくち飲むと、王妃はどことなく嬉しそうに目を細めた。


「ここにお客さまがいらっしゃったのは、久しぶりです」

「……そうでしたか」


 やはりかと思ったが、そう言っておく。


「お菓子や紅茶をたくさん用意してしまって、ずいぶんダメにしたものです。けれど、それもあと少しのことね」


(――あと少しのこと?)


 疑問を感じたイオニアスは、王妃の背後に立つダニエラを思わず見る。ダニエラは押し黙ったままうつむいていた。

 王妃は猫を撫でながら庭を見、儚げな笑みを浮かべた。


「……わたくしが陛下に愛されていないのは、誰の目にもあきらかです。昨夜、突然ここにお姿をお見せになり、やっとお話ししてくださる気になったのだと思いました。けれど、陛下は思い直したかのように、逃げるように出ていかれました。それで、わたくしの決心もつきました」


 息をつき、ひとりごとのように言葉をつむぐ。


「陛下のお心がほかの女性に向いていることは、存じています。そのお相手がどなたかはわかりませんが、わたくしが陛下のおそばにいる意味がないことだけは、たしかです」


 そんなことはないと、イオニアスは言えなかった。だが、そう言った王妃の横顔には、なぜか清々しさがあった。


「もともと陛下は、わたくしとの婚姻に反対でした。生涯の伴侶はご自身でお決めになりたいというご意向がおありだったからです。けれど、宰相であるわたくしの叔父が、国を守るために何度も交渉し、わたくしをこちらに嫁がせるにいたりました。あとはわたくしが努力するだけでしたし、わたくしなりにやってきたつもりです。でも、陛下のお心をとらえることは叶いませんでした。ですから――」


 言葉をきって、王妃はイオニアスを見た。


「――わたくしは、自国に戻ります」

「え」


 やっと出た己の声の短さに、イオニアス自身驚いた。


「……戻られるのですか?」


 なんとか、のどの奥から声を振り絞る。王妃は微笑み、こくりとうなずいた。


「陛下の想い人が先に子孫を残されるようなことがあれば、わたくしの存在は内乱を誘いかねません。どのみちこの婚姻関係も破棄となるでしょうから、その前に決心いたしました」


 隣国の宰相に対して、国王が婚姻で出した条件は、たったひとつであった。


 ――公妾があらわれたあかつきには、婚姻関係を破棄する。以後、国に戻ること。


 それを知ったイオニアスは、言葉を忘れて固まった。そんなイオニアスにかまわず、王妃は柔らかく微笑んだ。


「おしゃべりがすぎましたわ。ごめんなさいね、イオニアス」

「いえ……」

「わたくしの身の上話を聞かせるつもりで、あなたを呼んだのではないのです。まだ残っているお菓子や紅茶がたくさんありますから、あなたとあなたの従者に差し上げたいと思ってお呼びしたのです。それから……ダニエラ」

 

 うなずいたダニエラが、チェストの上の包みを手にする。レースのリボンのかかったその包みを、イオニアスの目の前に置いた。


「アンドレアを見つけてくださったお礼です。本当はもっと素敵なものを選んで差し上げたかったのですが、昨日の今日でそんなものになってしまいました」


 イオニアスは驚いた。イオニアスに贈り物をくれた人物など、この王宮で皆無だったからだ。


「さあ、ここで開けてください。がっかりしないとよいのですが」


 イオニアスは言われるがままにリボンをほどき、包みを開ける。

 中にあったのは、つやつやとした立派な革表紙の分厚い筆記帳であった。

 目にした瞬間、イオニアスは目を見開いて喜んだ。


「これは……羊皮紙ではなく紙ではありませんか。しかも、絹のようになめらかだ。このように白い紙はめったにお目にかかれません。ああ、なんて素晴らしい!」

「まあ、よかった! 日記をしたためようと思って持ってきたのですが、哀しいことを書きたくなくて真っ白なままとっておいたのです。どうぞ、好きに使ってください」

「しかし、こんな素晴らしいものをいただいてよろしいのですか」


 王妃は晴れやかに笑い、「もちろんです」とうなずいた。


「ここに持ってきたものは、ここに置いていきたいのです。あなたに使っていただけるなら、その筆記帳も本望でしょう」



* * *



 のちほどアントンを使いに来させるので、紅茶と焼き菓子は彼に渡してくださいと告げ、イオニアスは王妃のサロンをあとにした。

 魔術を使って送るほうが簡単なのだが、アントンとのささやかなおしゃべりが王妃の気晴らしになれば幸いである。

 王妃が国を去るのは、一月後。舞踏会が過ぎてから婚姻無効の手続きをおこない、そののちすぐに去るのだそうだ。


(自国に戻られるのであれば、王妃にとってはそのほうが幸せかもしれないな。なんとも残念なことだが)


 筆記帳を抱えたイオニアスが、悩ましい思いで離れに向かっていたときだった。


「――魔術師殿」


 背後からそっと声をかけられ、振り返る。


「少しお時間をよろしいでしょうか。お話ししたいことがあります」


 侍女のダニエラが、険しい面持ちで立っていた。

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