第17話 秘するものを得たこと

 トトフィガロはメイドである。

 平らな道で躓いて壁に激突した所を、イーエンスに笑われて、顔を真っ赤にしたことがあるメイドである。


 城の出入口は一箇所だけである。

 正面にある城門だけだ。

 巨大な竜の住まう、巨大な城であるから、その城門も当然、竜の身の丈に合う大きさをしている。常に閉じられた門扉は、それ故にとても重く硬く、トトフィガロの腕力ではぴくりとも動かない。

 そういう意味では、トトフィガロはこの城に閉じ込められていると言えるのかも知れない。だが、ここを牢獄と呼ぶか、要塞と呼ぶかは、当の本人だけが決められるものだろう。


 少なくとも、トトフィガロは誘われなければ、外へ出ようとは思わなかった。

 もしかしたら、外に出る、その発想自体を失っていたとも言えるかも知れない。それ程に、トトフィガロにとって竜宮は、世界の全てだったのだ。

 トトフィガロは外の世界で生まれた。だか、外の記憶はあまりない。生まれた時に大きな損傷を受け、意識朦朧とした中、彼方より夢を渡って訪れたディオラルクトスの背に乗せられ、この国にやって来た。だから、外の世界での記憶というのは、痛みと苦しみに満ちている。

 覚えていないと言うなら、サンロモントあたりであれば、幸いなことねとでも言うだろう。傷の痛みに苦しみ続けるのなら、傷があること自体を忘れてしまえば、その痛みも感じなくなるだろうと。


 竜達にとって、痛みとは肉体ではなく、主に精神的なものを指す。

 彼等の堅強な鱗は、滅多に傷付けられることはなく、また、強大であるがために、彼等にとってこの世界に生きる多くの生き物は小さく、それらによる干渉に対しての反応も鈍い。人が腕に止まる小さな羽虫に気付かない時があるように、敏感な者でなければ、その程度のものなのだ。

 そう考えれば、サンロモントの考え方というのは、人の感覚で言えば、共感性の高い、優しいものなのだろう。自らが分からぬ痛みを慮ることが出来るのだから。


 建国の竜、留黄るきが残した言葉が記されたという『興国伝記』曰く「我々は小指を動かすことにさえも神経を尖らせなければならない。それは容易く人を殺し得るからだ」とある。

 この言葉は、人の国に住む竜として、その身の大きさ故に払わなければならない注意でもあり、同時に一国の主として念頭に置くべき政治的な影響力について語ったものでもあるとも言われている。末端までの展開を考えずに軽薄に実行すれば、誰かの生活が壊れる可能性があることを知っていたのだ。


 彼女が作った国の名前は江露の国。神も獣も人として生きる国。そして、彼女の血は今も彼の国の王族へと繋がっている。


 とは言え、何代も経たその血は薄まり、現在の王族の多くは竜としての特徴をあまり持たず、寿命も人とそれ程変わらない。竜自体が稀有な存在であるから、これから先、濃くなることもないだろう。

 当の本人は、大昔に死去しており、それについては幾つか説があるが、あらわし観測所では大凡は煉瓦戦争の傷が原因だとされている。


 煉瓦戦争とは、遥か昔に起きた、神と人との争いの名だ。人が神の手から離れんと蜂起したことから始まった百年余りの戦いは、多くを破壊し、殺し尽くし、築かれた営みを瓦礫の山に変えた。それでも、戦意を失わなかった者は、崩れた煉瓦さえも武器にして戦った。戦争の名はそこから由来する。

 今では、その争いの記録は殆ど残っておらず、唯一、人世観測機関である顕観測所にのみ、その記録と研究が行われている。


 留黄は神でありながら、人の側につき、多くの神を葬った。江露の国としては、建国の主を神殺しとするのは不都合だったため、次第に記録も歴史の闇へと押し込められたと考えられている。だから、その都合に巻き込まれなかった機関にのみ記録が残る。


 もし、その戦争がなかったとしたら、留黄はより長く生きただろう。あの大きな竜であるから、千年が経つ今でも彼女は君臨し続けた筈だ。だが、そうであれば人皆宣言には辿り着けなかった。


 例え、己で己を終わらせることさえ出来ないほどに強い生命であっても、誰にでも平等に終わりは訪れる。そこに痛みが伴うかは、運次第であるから、自ら進んで、安らかに終わりを迎えることを望む者もいても、おかしなことはない。歌にもあるように、先の見えぬ世でいつ終わるかも分からずに生き続けるよりも、幸福の中で終わりを迎えたいと希う者もいるのだ。

 それは生を賞賛し、推奨する社会にとっては、悪しき選択と謗られるものかもしれない。


 だが、少なくともここ竜宮においては、それは必ずしも否定されない。

 飢えもない、冷えもない、病もない、争いもない。人の身を苛む不条理を、彼等は苦にしない。

 だが、それでも苦しみはある。逃れられぬ苦しみがある。トトフィガロがまだ辿り着いていない苦しみがある。だから、女王陛下は、竜宮は王女殿下を求めた。


 世界に生み落とされる竜には、生殖機能はない。番ったところで何も生まれない。だが、彼女は生まれた。生まれた時から成長を必要としない設計である筈の竜でありながら、赤子の姿で生まれた。

 その生誕は異様で、同時に、全ての竜に祝福されるものだった。それは彼等にとって希望そのものであったからだ。


 そして、彼女は十七の時に、自分が何のために生まれたのかを知った。


 その直後の彼女の歩みは、苦痛に塗れたものだった。


 トトフィガロは、門扉の前で王女殿下を待っている。

 硬く閉ざされた門の内は暗く、誰も寄り付かない場所であるから、月も配置されていない。


 見慣れた暗闇の中で、わき立つ胸の内を表情に浮かべることを隠さずに、少し緊張した面持ちでいるトトフィガロは、旅の準備中にヘイルガイルに言われたことを思い出していた。


 その時のトトフィガロは自らのわくわくをどうにか言葉にしたくて、拙く、されど、絶え間なく話し続けていた。

 楽しげに古いトランクに少ない荷物を詰め込むトトフィガロを、目を細めて眺めていたヘイルガイルは、不意にその笑みを仕舞い、真面目な顔で言った。


「トトは王女殿下のことをどれだけ知っているんだい?」

「え、どれだけ?」


 トトフィガロは細い首を傾げた。

 王女殿下のことは知っている。だが、どれだけ、というのはどういう尺度を指しているのだろうか。


「王女殿下は綺麗で、優しくて、格好良くて、強くて、沢山のことを知っています」

「そうだね」

「でも、その……」


 トトフィガロの言葉は尻すぼみになり、薄氷のような瞳が頼りなさげに海底を泳いだ。


「何か気になることがあるのかい?」

「その、前にカザミナルに言われたのです」

「何をだい?」

「竜の細胞を見たことがあるのか、と」


 トトフィガロは奇妙な匂いの漂うあの部屋と、暗闇に揺らめく蛍光緑の瞳を思い出す。


「トトは何て答えたんだい?」


 まるで子供に今日あったことを訊ねるような、優しい声色でヘイルガイルは問い掛けた。声に重なる音はハープのように軽やかで繊細だった。


「カザミナルはその細胞というものが集まったものがトトだと教えてくれました。でも、でも、トトはやっぱり見たことがないと思ったので、そう答えました」

「そうしたら、カザミナルはなんて言ったんだい?」

「それが正常な考え方だと」

「ははは、彼らしい褒め方だね。他人と関わるのが面倒な癖に、他人に好意的なんだ彼は。見た目では分かりづらいが、優しいんだよ」

「それはトトも、もう知ってます」

「良かった。あの態度は誤解を与えがちだから、分かってくれる者が多いのは、僕にとっても喜ばしい。彼は話すと面白いからね。出来るなら、あの魅力を皆に知って欲しいよ。それで、その話と王女殿下の話はどう繋がっていくんだい?」


 促されて、トトフィガロは忘れていたのか、はっと僅かに目を見開いた。


「それで、それでですね。トトは王女殿下のことを知っているけど、細胞は知らないかもしれないなと」

「全体は何となく知っているけれども、細かい一つ一つまでは知らないと」

「そうです」

「カザミナルも随分と小難しい話をしたものだね。でも、そうだね。外面と内面、それは必ずしも一致しないという所にも繋がるかな」

「外と内?」


 ヘイルガイルは床でトランクを広げるトトフィガロに合わせてしゃがんでいたが、ぐいと立ち上がり、脚を伸ばした。


「僕達は相手の一部しか見えていない。見えているところが外面、見えていないのが内面。他人に明かしたくない心の内は内面にこそ仕舞われる」


 綺麗に整えられたトトフィガロのベッドの端に腰掛け、ヘイルガイルは少しだけ寂しげに微笑んだ。

 体の正面で組まれた指は珍しく忙しく、何かを躊躇うようにリズムを刻んだ。


「つまり、トトは王女殿下の外面しか知らないのですね」

「それも別に悪いことじゃないんだ。嘘を吐いている訳ではないからね。在りたい自分を見せていたいというのも間違ったことじゃないさ。唯……」


 ヘイルガイルは鬼灯のような目を伏せ、一呼吸置いた。


「あの方は心を寄せることを躊躇わないが、心の内を明け渡すことはない。もし、トトが本心を話したら、彼女はきっと受け止めてくれるだろう。でも、彼女の苦しみは誰も受け止めてあげられない。だから、誰も彼女の内面を見ることが出来ない」


 トトフィガロはその言葉を聞いて、寂しさを覚えた。


「王女殿下は、苦しくはないのですか」

「苦しいだろうね。格好つけられるくらいには、慣れたのだろうけど」


 ヘイルガイルは散らかった床を見ている。

 部屋用の小さな月の明かりが、彼の特徴的な赤髪をぼんやりと暗闇から浮かばせる。陽の下では強い色であっても、闇の内であれば、途端に紛れて見えなくなる。


 少し逡巡した後、ヘイルガイルはトトフィガロを見た。まだ理解が及んでいない様子のトトフィガロに、ヘイルガイルは肩の力を抜いたように笑みを浮かべた。


「もし、彼女が泣いていたなら、傍にいてあげてくれ」

「泣く?」

「そう。僕だけが知っている。僕だけが聞こえる」


 形の良い赤い眉が少し寄せられる。


「この静かな国の中で、それを知っているのは僕だけ。声さえも彼女は殺すから。でも、僕にだけは聴こえるんだ。あの涙は紛れもなく彼女の秘密だ。君にも教えてあげるから、秘密の共犯者になってくれ」


 荷物を持ったまま手を止めていたトトフィガロは、静かに持っていた服を膝の上に置いた。

 王女殿下が泣く。想像がつかなかった。あの方はいつも楽しそうで、強くて、皆に尊敬されている。なのに、何を悲しんでいるのだろう。


「泣くことが秘密なのですか?」

「そうだよ。嘘か真か、って言い伝えがあるのさ。竜という生き物は、星そのものから生み出されるのだから、その規格は神に近しい。そのせいか、僕達は涙を流す機会に恵まれない」

「トトは泣く時があります」

「泣く器官はあるんだ。使わないだけで。でも、例外はある。ディオに聞いたよ。君は火山で痛みに耐え切れず泣いていたと。僕らがどんなに頑強な生き物でも、耐え切れない痛みというのはある。限界を超えた先にきっと涙があるのだろう。そして、それは一度超えてしまうと、日常の中にも涙が現れる」


 トトフィガロは過去を振り返ろうとしたが、触りだけでもそのような記憶はなかった。


「トト。君は限界を一度、超えた。だが、こうして生きている。それはね、きっと誇って良いことなのだよ。でも、彼女はそうはいかない。上に立つ者だから、強くあることを求められている者だから、涙を決して見せてはいけない。外国の世間の言う、神らしい神でいなくてはならない。傷を負ってはならない、力を損なうことも許されない。外の国で育ったからか、その意識は僕等が考えるよりも強いのだよ。だから、これは僕らだけの秘密なんだ」


 ヘイルガイルは念を押すように、人差し指を口元に寄せた。


「秘密だよ。分かったかい?」


 口調や笑みを浮かべた口元に反して、眼差しは真剣だった。

 トトフィガロは頷いた。言葉は詰まって出なかった。だから、首を動かした。


 トトフィガロにとって涙とは、痛い時に出るものだ。だが、こうして振り返ってみると、誰かの泣き顔というのは見たことがない。勿論、王女殿下のものもだ。皆、平然と日々を過ごしている。

 まるで、自分だけが失敗して泣いているみたいだ、それは情けないと、トトフィガロは落ち込んだ気持ちを抱えた。それと併せて、蜜の匂い漂う秘密を手に入れた。


 そうして、今、トトフィガロは門扉の前で待っている。

 美しいあの方が来るのを待ち遠しくしている。


 遠い暗がりの奥から、小さく踵の鳴る音が響いている。

 それを聞いて、トトフィガロの胸が解れる心地がした。知らず知らずの内に力んで、強張っていたのだ。

 然程、間も置かずに、純白の麗人は闇間に浮かぶように現れた。いつもとさして変わらない様相ではあるが、その美しさ故に、相変わらずトトフィガロは息を呑んだ。


 王女殿下はにこりとトトフィガロに微笑み掛けると、そのよく通る声で言った。


「さあ、旅に出るとしよう」





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竜宮徒然日記 宇津喜 十一 @asdf00

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