夏の終わりの鮎

@sakamono

第1話

 ハルは短い髪で丸顔で、おでこをいつも出していて、とても眠たげな目をしていた。その様子を僕は「アマダイに似ている」と評したことがある。隣に座っていたハルは小さく噴き出すと、こちらを向いて「女のコにその発言はどうなのかな」と、真面目な顔で言った。眠たげな目が少しだけ見開かれる。真面目な顔をしていても、その目の奥は、いたずらっぽく笑っていた。

「女のコって齢でもないけどね。でも……」

 そう続けたハルは「モモさん」と、カウンター越しに店主に呼びかけた。

「同じの。お代わり」

 そして、ちらりとこちらを見る。その意味するところを理解して、

「こっちにつけといて」と、僕はモモさんに言った。

「承知しました」

 モモさんは、笑ってハルの差し出すグラスを受け取ると、首から下げている老メガネをかけた。きっと僕の伝票にハルのオーダーを書き込むのだろう。

「アマダイ、分かるんだ?」

 話を蒸し返すような気がしたけれど、興味を惹かれて僕は聞いた。

「実家が網代でね、干物屋なんだ」

 それは知らなかった。もっとも同じ店の馴染み客同士、というだけの間柄だ。知らないことは山ほどある。ハルの本当の名前も知らない。

「この前、ごちそうさまでした。おいしい干物」

 モモさんが、ハルにハイボールのグラスを手渡す。ハルはグラスに口をつけ、いいえいいえ、というように空いている方の手を振った。グラスに口をつけたまま、こちらを見る。「ミヤさんも欲しかった? 干物」

「エボダイがいい」

 僕が答えるとハルはわざとらしく、憤懣やる方ない、といった顔で首を振る。

「何を贅沢な」

 そう言って、グラスを傾けた。

 そんな他愛のない会話を、ハルとはよくしたものだった。


 モモさんの店は、住宅街によくある間口の狭いマンションの一階で、道路に面してガラス張りになっていた。道路から見えるほの暗い中の様子に、バーなのだろうか、と思ったけれど、看板もなく何の店か分からなかった。僕の住んでいたアパートの、歩けば数分のところにあったから、前を通る機会が度々あったのだ。

 だからその夜も、店の前を通りかかったのは、たまたまだった。たぶんコンビニにでも行くつもりだったのだと思う。のぞき込んだ店内の、客同士が談笑する様子に思わず立ち止まって、繁々と眺めてしまった。その時ふと、こちらを見た女性客の一人がハルだった。すぐに立ち去ればいいものを、目が合った途端、今思ってもよく分からないのだけど、歩きだすタイミングを逸した気になって、立ちすくんでしまったのだ。ハルの方も会話に戻るでもなく、こちらを見たままだった。たぶん、ほんの数秒が過ぎた後だと思う。ハルは僕に向かって笑顔で手招きしたのだった。

「おくだ」に初めて入った夜だった。


「おくだ」に足繁く通うようになったのは、うちから近いこともあったし、その頃、週末をもて余し気味だったからだと思う。会社の同僚と飲み歩くことが、何となくつまらなくなってきて、断ってばかりいたら「不定愁訴には少し早いんじゃないか」と揶揄された。そう思われていた方が都合がいいと思って、特に否定はしなかった。

 会社の同僚と飲み歩くのを止めたからといって、他に何があるわけでもなく、結局近所で飲んでいる。ただ「おくだ」で飲むのは楽しかった。

 店の名前からすると小料理屋のようだけれど、店内の薄暗さはバーのようで、でもカクテルはほんの少ししかない。「シェイカーの要るカクテルはありません」と、モモさんは笑った。生ビール、焼酎、日本酒、ウィスキー。モモさんの手料理がおいしいから、ダイニングバーと言えるかもしれない。「うちはスナックですよ」と、モモさんは言う。結局どういう店なのか、今でもよく分からない。

 店の前の歩道には、誘魚灯のように灯りが漏れている。のぞき込むとハルがいることもある。僕に気がつくと笑顔で手を振る。店に入ってハルの隣に腰かける。L字型のカウンターに五席だけのこぢんまりした店では、隣に座っても、さほど不自然さはない。

 ハルは日本酒を飲んでいることが多い。モモさんが地酒を一升瓶で、一本だけ仕入れるという。狭い店の小さな冷蔵庫では保管がきかないから、なくなる度に酒屋から仕入れてくるそうだ。


 その日、ハルは「澤乃井さわのい」を飲んでいた。

 秋分の日だったから日付を覚えている。祝日で、仕事が休みで、三十度を超える真夏日だった。それでも空気は初秋のそれで、店まで歩く途中、キンモクセイの匂いに気がついた。

「ハルさんのおみやげ、食べますか?」

 モモさんが、カウンターの向こうでビニール袋を持ち上げた。

「ちょっと見てよ」

 ハルが手を伸ばして、モモさんからビニール袋を受け取った。こちらに肩を寄せ、その口を大きく広げてみせる。中には魚がひしめき合っていた。十匹以上いるように見える。

「鮎だよ」

「川魚じゃないか」

「川魚、きらい?」

「干物屋だって言ってたから」

「これは実家じゃなく、男が釣ってきたんだよ」

 オトコ?

 オトコというのはつまり、彼氏とか恋人とか、「私の男」という意味だろうか? もちろん隠していたわけではないだろう。わざわざ僕に言うことでもない。

「ひさしぶりにうちに来て、これ置いて、またすぐ旅立ってしまったよ」

 旅といっても、仕事で出張が多いとか、そういう意味ではなく、それはたぶん比喩か何かなのだろう。ハルのそうしたもの言いには、時々理解の追いつかないことがある。

「放流された養殖ものと、天然ものが混じってる」

 ハルがぽつりと言った。

 その言葉に、僕はビニール袋をのぞき込んだ。違いはさっぱり分からなかった。

「天然ものは厳しい自然の中で育つから、いかつい顔をしてるんだよ。養殖ものはどこか腑抜けた顔」

 そう言われて、もう少し真剣に見比べてみたけれど、やっぱり違いは分からない。

「キュウリの匂いがするよ、ほら」ハルがビニール袋を差し出す。

 僕が何の気なしに、ハルの広げたビニール袋に鼻を近づけた時、うつむいたハルのおでこが目の前にあって、驚いた。いつも互いに正面を向いて酒を飲むから、カウンターの隣同士の席が、これほど近いと気がつかなかった。

 ハルからは、いい匂いがした。

「ねっ」

 匂いに気をとられて、同意を求めるハルの言葉に即座に答えられず、あわてた僕は思わず、「おでこ広いなあ」と言ってしまった。

「殴るよ、グーで」ハルが真面目な顔で言った。


 その夜は、モモさんに焼いてもらった鮎をつまみに、日本酒を飲んだ。ハルのリクエストで、はらわたは抜かずに塩焼きにした。ワタの苦みが日本酒によくあって、酒が進む。二人で飲んだものだから「澤乃井」は空いてしまい、最後は酎ハイで締めることになった。ハルは「炭火で焼きたい」と、しきりに繰り返し、その度モモさんに「無理です」と笑われていた。

 一緒に店を出る頃には日付が変わっていた。

 並んで歩くとハルはずい分と小柄だった。僕より頭ひとつ分は背が低い。いつも椅子に座っているから身長も分からないのだった。

「どっち?」

 同じ方向に向かって歩くハルに、僕は聞いた。

「あ、キンモクセイの匂い」ハルが言った。

 本当だ。店に来る途中に気がついた時より、夜も更けた今の方が、いっそう強く匂いを感じる。キンモクセイは匂いが先にやってくる。辺りを見回すと庭木に植えられたキンモクセイがあった。

 それからハルは続けた。

「ミヤさんの部屋、行っていいかな?」


 こんなことって本当にあるんだな。ハルを部屋に招き入れ、僕は思った。フィクションの中だけのことだと思っていた。実際、三十数年生きてきて初めてのことだった。たぶん、ハルの気まぐれなのだろうけれど、何をどうすればよいのか、よく分からないのが困る。

「きれいにしてるね」ハルは興味深そうに部屋を見回す。「だと思ったけど」

 アパートの狭い部屋は万年床になっていた。後は座机の上にノートパソコン。それだけだ。元々持ち物は少ない。

「だと思った?」

「店でいつも見てて。料理を取る時とか、箸の置き方とか」

 そんなところをハルが見ていたとは、意外だった。

「私を拒否しないって直観したよ」

 ハルはそう言うと、つるりとジーンズを脱ぎ、Tシャツ一枚になって素早く万年床へ潜り込んだ。「おやすみ」

 僕はどう振る舞うのが正解か。考えてもみたけれど、こうした経験のない自分には、答えを出すための引き出しがないことに気がついた。仕方がない。僕は布団をめくって、おずおずとハルの隣に入った。

 ハルはこちらに背を向けていた。背中越しにはっきりと、息遣いを感じる距離だ。細い首の上にのった、短い髪のうしろ頭が鼻先にある。

 頭は体重の十パーセントほどの重さだということを、ふと思い出した。昔どこかで聞いたことがあった。小柄なハルの体重が四十キロなら、頭は四キロの重さということになる。その重みを、こんな細い首が支えているのか……。

 その時、唐突に気がついた。

 ここに横たわっているのは、四十キロの肉の塊なのだ。

 気がつくと同時に、僕はその圧倒的な存在感に組み伏せられたのだった。

「おもしろいこと言うね」

 翌朝、僕がその時の感銘を伝えると、ハルはくすりと笑った。

「私、そんなに重かった?」


 それからも僕は「おくだ」に通っている。

 けれど、秋がいよいよ深まる頃になっても、ハルと店で会うことはなかった。

 あれだけ、よく来ていたのに。

「ハル、来てますか?」僕はモモさんに聞いてみる。

 馴染み客同士で、その程度の質問は許容される範囲だろう。

「そうえいば、最近来ないですね」モモさんは、さらりと答えた。

 そっか、来てないか。

 僕はその時何となく、ハルはもうこの近所に住んでいないのではないか、と思った。

「今日はお酒、何がありますか?」

「『神亀しんかめ』です。埼玉の」

 それください、と注文するとモモさんは、しゃがみ込んでカウンターの下の冷蔵庫から一升瓶を取り出して、ふと思い出したように言った。

「鮎、焼きましょうか」

「鮎?」

「ハルさんからもらった鮎。冷凍してあるんです。ワタは抜いちゃったんですけど」

 そっか、ワタはないのか……。

 でも、今夜はその鮎の塩焼きで「神亀」を飲もう。

 ハルのことだ、そのうちまた、ひょっこりと、この店に顔を出しそうな気もする。

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