奇跡は空から降ってこない

日出詩歌

奇跡は空から降ってこない


 全てが夢であって欲しかった。

 住宅街の中を1人の少女が息を切って駆けていく。昼だというのに人は彼女以外に誰も居らず、遠くの方から喚き声が聞こえる。皆彼女を置いて先に逃げてしまったのだ。

 後ろのから。

 自家用車程の図体、蟹や甲虫を思わせる暗黒色の表皮。頭のない首をもたげながら、7本ある脚の一本一本を地面や塀に突き刺し這い回る。

 明らかに、この世に居ていいものでは無かった。

 ナニカはギチギチ、カタカタと不気味な音を立てながら彼女を目指して向かう。足そのものである太い爪が掠っただけで建物の壁を抉り、歩くたびに道が穿たれる。動きはゆったりとしているのだが、体が大きい分距離を詰めるのが早い。彼女との差はみるみる縮まっていく。

 何秒か前まではいつも通りの、閑静な住宅街に間違いはなかった。

 しかし平穏無事な道の真ん中の宙に突如穴が開いた事ですべてがひっくり返る。穴を引き裂き現れた怪物は、その時偶々近くにいた彼女の姿を捉えると、周囲を破壊しながら追いかけ始めた。彼女は視界の先に豆のように小さく見える人々を恨んだ。

 自分のはあはあと荒い呼吸の音が口から溢れる。

 足はとっくに限界を超えていて、もう止まりたいと痛みで訴える。自分だって止まりたい。だけど止められない。ここで止まったらきっと殺される……

 怖くて振り返ると、そいつの鈍く光った鋭い爪が、今にも彼女に触れようとしていた。

 立ち向かう事が出来ない。逃げる事さえもう無理そうだ。それでももし、自分みたいな何もできない人にも奇跡があるというなら。

 彼女は祈りの様に、たった一つの願いを叫ぶ。

 誰か、助けて。

 その時。

「もう大丈夫」

 少女の姿をした奇跡は微笑みながら空から舞い降りた。




「ねぇ、今朝のニュース見た?」

 隣を歩いていたマキが話しかけてきた。

 土曜日の午後。午前中のみの授業を終えたカナセとマキは、家にまっすぐ帰る事も無く、学校の一駅隣にある繁華街に遊びに出ている。

 春の青空には雲一つ無く、温い風が心地よい。都会の喧騒は平日より一層けたたましく、ビル群にとり囲まれた人の群れはどこか浮ついている様だ。こんな日なのだから人1人が歩ける幅は当然狭くなっている訳で、マキは向こうから歩いてきたカップルにぶつかりそうになる。それを彼女は猫の如くするりと抜けた。

「ニュース?」聞き返すと、彼女はスマートフォンをいじってカナセの前に画面をずいと出す。

「ほら、これ」

『アムネジアン 未確認生命体撃退か 今年10件目』記事にはそう書いてあった。

「ああ、それか」

 カナセは半ば呆れる。世間の注目の的となっている怪物とそれを倒すヒーローの話だ。

 まるでアニメのような話だが、そういう事が実際に起きている。

 初めて怪物が確認されたのは4年前、緑と砂漠の国トルベゴ。3ヶ月前にはカナセ達の国にも現れた。出現する頻度は高くないものの、手当たり次第に人を襲う上対抗策も無いというのだから脅威である。

 まさに神出鬼没。そんな中現れたのが正体不明の人物、通称アムネジアンだった。

 怪物が現れるとどこからともなく現れる彼らは、怪物を倒すとどこかへ去っていく。

 その様を世界中の人々はヒーローの様だと崇めた。

 「マキはそれ好きだよねぇ」

 言われてマキは満足そうな笑みを浮かべる。

「だってカッコいいじゃんよ。それでね、襲われそうになった直前でアムネジアンが助けにきたんだって。ホントに奇跡としか言いようがないよねー」マキはアムネジアンのファンで、口を開けばその話ばかりする。

「へー」カナセは僅かに目を逸らしながら、素っ気なく返事を返す。

「でも今回も居たっていう目撃情報はあるのにやっぱり顔は誰も覚えていなくて、写真にも写ってないんだって。人の思い出にしか残らないなんて都市伝説みたいだよね」

「そうだね」カナセは曖昧に答える。

 と、着信音が鳴り響いた。

「あ、ごめん。あたしだ」

 咄嗟にスマートフォンを取り出して確認する。

「悪いんだけどさ、ちょっと急用できちゃって」

「ええー?マジ?」

「ごめん!また今度ね!」

 詫びとばかりに手を合わせる。

「別に良いけど、今度パンケーキ奢れよなー」

「奢る奢る」

 むすっとしながらもマキは見送ってくれる。本当に良い友人を持ったな、と思いながら彼女に片手を振り急ぎ足で別れた。

 さて、呼ばれたからにはとにかく急がなければならない。路地裏に入ったカナセは、スマートフォンをしまい腕をまくる。

《高エネルギー反応確認。至急出動、殲滅せよ》

「ああ、もう……!」

 せっかくの休日をこうも台無しにされてしまうなんて。

 腕時計の形をした世界防衛局の隊員証にはいつもと変わらない文面が表示されている。

 つまりそれは何者かがカナセの世界に侵攻してきた事を意味する。その脅威から守るべく、カナセは第γ1D4Z-52世界防衛局の殲滅部隊として活動していた。

 この距離なら飛んだ方が速い。

 カナセは隊員証のコードを起動した。

 瞬時に彼女は装甲を纏い、戦闘モードへ移行する。監視カメラや街行く人の認識なんかは妨害電波が遮断してしてくれるらしい。地面を蹴ると一気に上空へと飛び上がる。さっきまでいた場所がもう豆粒のように見えていた。

 反応はここから2㎞先。それなら大体30秒で辿り着ける。カナセは目標地点までまっすぐに飛んでいく。

 空から地上に近づくにつれ、人々の悲鳴が段々と大きくなる。それと同時に、目標地点付近の様子も見えるようになって来た。

 轍のような瓦礫、逃げる人、それを追う怪物。目標地点まであと3、2…

 次の瞬間、カナセは空中で足が止まってしまった。

 少女が1人、死んでいる。

 血で染まった道端に倒れ伏して。逃げる背を爪に刺し貫かれて。

 怪物は人だったものから爪をずるりと引き抜くと、立ち止まって死体を弄び出す。

 無垢な子供のように、四肢も内臓も、細かく細かく千切って肉片に変える。

 目を見開いた名も知らぬ少女の顔には恐怖が張り付いたままになっている。安らぎなどあるはずのない死に顔だった。

「あ…あ…」カナセは顔面蒼白になり、顔に両手を当てる。

 間に合わなかった。間に合わなかった。

 胸から喉、そして目の淵に込み上げるものがある。それを振り切って、カナセはぐっと心に蓋をした。

 いや。今は、此奴を斃さないと。

 助ける立場の人はいつだって弱さを見せちゃいけない。胸の奥がじりじりと痛いまま、カナセは隊員証の時刻表示を確認する。

「5時41分……」

 カナセは隊員証を自分の身体の前に翳した。

 隊員証が反応し、僅かに熱を帯びる。

 次の瞬間、体ごと落下する感覚が彼女を襲った。

 頭がくらりとする。

 未来が上へと遠ざかっていく。

 そして彼女の体は過去へと落ちる。

 5分前。その時間に戻れば、あの人を救える。

 怪物の出現なんて誰も予知出来るはずが無かった。エネルギー検出も出現してから初めて分かるわけで、結局全部後手に回るしかない。

 この摩訶不思議な腕時計を彼女に渡してきた上層部らにとっても、そんな事は最初から分かっていた。

 だから間に合わない事前提で世界を守る事にした。

 自分達の技術では予測が出来なくても、過去には戻れる。

 ならば未来をリソースにしてしまえば良い。

 どんな手を使ってでもハッピーエンドを迎える。

 ヒーローとはそういう仕組みだった。

 もう何度、こんな思いをしてきただろう。

 血の匂いが充満した惨状。身体に穴が開いた人。

 散らかされた臓物。

 それが怖くて怖くて、嫌悪感も後悔も止まらなくなって。その度、カナセは震えながら涙を流した。そしてその最悪の地獄が目に焼き付いたまま、さっきまでぐちゃぐちゃにされていた人を助けにいく。

 こんなもの、奇跡でも何でもない。

 ただのいんちきだ。

 ズルをして見事助ける事が出来た気になっている。私の知るヒーローとは、そんな狡い生き物なんだ。

 だから奇跡なんて信じない。

 そんな思いを抱えて彼女は過去に落ちていく。

 あの少女を助けられず、あまつさえ踏み台にしてしまった。その罪悪感を置き去りにして。

 その内、意識さえも置いていかれた。




「カナセ?」

 はっ、とすると友達が怪訝そうな顔をしてこちらを覗いている。「またぼうっとしてたんじゃない?」

 雑踏が喧しい。

 見ると、カナセは繁華街の人混みの中で立ち止まっていた。

「ごめん、ちょっと考え事してた」

「カナセはそういうところ、良くあるよねぇ」

 呆れて笑う。と、マキの笑顔が即座に引っ込んだ。

「カナセ、泣いてる?」

「え?」言われて気づく。涙が頬を伝っている。

「あはは、どうして、かなぁ」徐々に涙声に変わっていく。止めようと思えども止まらない。理由はわかっていた。

 ちょっと無理かも。

 自分の内側からそんな声が聞こえた。

 誰にも言わずに心に溜め込んだものが、溢れてきてしまったのだ。

 言葉にならない声が漏れ出る。思わずしゃがみかけ、口を抑えて咳込む。

「ちょ、ちょっとカナセ!」

 慌ててマキは道路の端にカナセを寄せる。

「何か困った事あるの?」彼女は心配そうにカナセを覗う。

 それをカナセはふらふらと踵を返しつつ、

「ごめん、ちょっと急用が出来た……すぐ戻るから」

「待って!」パシっと腕を掴まれる。

「カナセ……あんた、なんか無理してない?急用が嫌なの?」

 ずばりと言われて、カナセは何も答えられなくなる。ややあって、

「嫌じゃないけど、大丈夫……だから」とだけ絞り出す。マキはその言葉に強く返す。

「大丈夫じゃない。泣いてんのは耐えられない証拠。ボロボロになってまで、自分を潰す必要なんて無いんだよ」

 彼女は続ける。

「無理しないで。自分優先にしなよ。じゃないとカナセ、人間的に死んじゃうよ」

 分かってる。此処で止まるのが正しいよ。あたしも止まりたいって言ってる。

 だけどそれでも、止められないものがある。

「ホント、ごめんね」

 今までもこれからも、あたしは正義の名の下にたくさんの犠牲を踏みつぶしていく。

 正義の糧にされる人達。

 なかったことにされる過去。

 そして、あたし。

 それでもあたしは、例え間違ってても行かなきゃいけないんだ。

 カナセはマキの手を振り解いて走り出す。

 その決意はさながら涙のようであった。




 カナセは空を駆けながら咽び泣き、しゃくり上げる。

 彼女の速度が速いせいで、その声を地上の人は聴く事は無い。

 怖いのは嫌だ。気持ち悪いのは嫌だ。誰かを踏み躙るのは嫌だ。

 少しずつ荷を軽くして行くように、涙を落としていく。

 それでも彼女は辞めない。

 全ての事象は結果の積み重ね。奇跡なんてあるはずが無い。奇跡は空から降ってこない。

 けれど何処かであたしを呼ぶ人がいるから。助けてって言う人がいるから。

 自分には何も出来ないと知りながらも、それでも一縷の奇跡を信じているから。

 あたしはその人の奇跡でありたい。

 かつてあたしを救ってくれた人がいた。

 どんな人だったのか、性別も年齢も何1つ覚えていないけど、ただ1つその人が笑顔を見せていたのを憶えている。

 どうしようもなくもう生きられないと思った時、あの人はあたしに笑みを浮かべてくれた。

 あたしはその笑顔が奇跡だと思ったんだ。

 やがて視界に逃げ惑う人が目に入る。いつかの未来で殺されてしまった人が叫んでいる。

 そして怪物が少女に襲い掛かる直前。

 カナセは上空から急降下し、怪物に蹴りを入れた。

 どこからともなく攻撃を受けた怪物は吹っ飛ばされ、体制を崩す。

 突然の出来事に逃げていた少女は呆然と立ち尽くす。

 その顔には、安堵と少しの恐怖が混ざり合って困惑した表情を浮かべている。

 きっと、昔あの人に救って貰った時のあたしもこんな顔だったんだろう。

 誰かが助けに来てくれたけど、でもまだ怖くて。何をしたら良いかわからなくなって。

 だからそんな顔には1つ、奇跡を起こそう。

 また泣きそうになるのを仮面の下に隠して。下手くそな強がりをして。

「もう大丈夫」

 正義の味方は微笑んだ。

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