中編

 外を見ると雪が舞っていた。でもあの日とは違って、それは室内の曇った窓ガラスから見る汚いものだった。


 あの日、私を病院まで連れてきた田中敦子と名乗る彼女は、一週間に2回ほど着替えを持ってやってくる。最初、どうしてここまでしてくれるのかと尋ねたら、無言で睨まれたのでそれからは何も聞かないことにした。

 母さんはここには一度も来なかった。たぶん、私がいなくなって喜んでいるだろう。


「ねぇ、あなたいつまでここにいるの」


 外の雪を眺めてる私の隣には、ひとりの少女が座っていた。1時間も座っているだけで何も言わないので、私はとうとう声をかけたのだ。


「あなた、重度の感情欠乏症なんでしょ?看護師さんが言ってた」


「それがなに」


 今から100年前。世界には感情が具現化する奇病が流行り、混乱に陥った。しかし、それを好機と捉えたある団体と医薬会社が手を組み、病を神聖化するとともに、具現化を抑える薬を開発した。

 世界には平穏が訪れたが、その代償に病にかかっていない者への差別が始まり、いつしかそれは『感情欠乏症』と言う名前を持った。


 私の問いに少女は笑ってこう言った。


「私もね、おんなじなの」



◇◇◇


 季節は周り冬が過ぎ、もうすぐ春がくる。私は病室を移り、あの少女の隣になった。

 名前はまだ聞いていない。


「ねぇ、何を読んでるの?」


 隣の少女がにこにこと私に話しかける。いつも話しかけてくるのは彼女からだった。


「なんでもいいでしょ」


「けち。タイトルくらい良いじゃない」


 私と彼女が話すことは少なかった。でも、いつだって私が心地よいと思う距離感で話す彼女のことを、私は少し好ましく思い始めていた。


「ねぇ」


「今度はなに?」


 彼女はまた声をかける。私はページを捲る手を少し休ませた。


「あなたの名前なんて言うの?」


「……」


 それはこっちが聞きたいくらいだった。久しぶりに心がざわつくのを感じる。でも、バケモノだと伝えて彼女の黒い瞳が伏せるのを見たいとは思わなかった。


「知らない。だから、好きに呼んで」


 私が彼女に譲歩できるのはここまでだった。部屋に沈黙が落ちる。ドクドクと心臓が波打つのを感じた。


「じゃあ……雪」


 ころんと床に落ちるように、彼女の小さい口から私の新しい名前が落ちる。私は口の中で何度も自分の名前を確かめた。雪、雪と。


「あなたの事はなんて呼んだらいい?」


 彼女に尋ねかえす。緊張して口が乾く。


「雪が決めていいよ。自分の名前好きじゃないの」


 最初に浮かんだのは、どうしようという思い。誰かに名前を聞かれる事はあっても付けるのは初めてだ。呼んだこともない。

 ふと、向かいのベッドを見ると花瓶に何本か花があるのが見えた。うん、いいかもしれない。


「華……はどう?」


「ありきたりね〜、でも好きよ」


 彼女はくすくすと笑うと、私が付けた名前を口ずさむ。その姿はとても愛らしかった。


「華は、普通に見えるけど本当に感情欠乏症なの……?」


 機嫌が良さそうに、鼻歌を歌う彼女を見つめる。その姿はとても差別されてきた人間には見えなかった。


「本当よ。ここの先生は、私には悲しむって感情が欠けてるんだって言ってた」


 その言葉に私はハッとする。思えば彼女はずっと笑っていた。私に無視されても、看護師に冷たく当たられても。なんで気付かなかったんだろう。


「それが理由で具現化も上手くできなくて。失敗作って父さまに叩かれてた。だから、本当」


「……疑ってごめん」


 彼女の笑顔に悲しくなる。でも、なんて声を掛けたらいいのか私にはわからい。だから、謝るしかなかった。


「いいよ。お互い様でしょ」


「うん」


 彼女はそう言うと笑っていた。悲しくなるくらいに、ずっと。

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