雪柳が咲く頃に

谷風 雛香

前編

「バケモノ……!!!」


 床に皿の破片が散る。頭が熱い。頬に温い何かが伝って、ぽたっと二つ破片に落ちた。雪兎みたいだなと私は思った。


「聞いてるの!!!このバケモノ!!!!!あっち行きなさいよ!!!!」


 腕を掴まれて、ベランダに突き飛ばされる。素足に突き刺さるような冷たさを感じた。目の前には白い雪が舞っていた。


 綺麗だな、と私は思った。私も一緒に落ちたら綺麗なものになれるだろうか。

 手摺に手をかけ足を乗せる。そして、そのまま体重を前に傾けた。


 その日、私は雪になった。



◇◇◇


 誰かの声が聞こえて、目を覚ます。私は白い布団に包まれてベッドの上にいた。天井には蛍光灯がパチパチと光っているのが見えた。


「コンクリートの上じゃないんだ」


 最初に思ったのはそれだった。だって、私は雪になったのだから。

 ふと、頭を何かに締め付けられているのを感じて手を当てる。ザラザラとした柔らかいもので、私の頭は巻かれているようだった。

 服も自分のものではなく、白く簡易的な物になっている。どうやら私は、病院にいるらしい。


「おはよう。目が覚めたのなら、呼びかけに応えてくれてもいいんじゃない?」


 カーテンを開け、見知らぬ女性が顔を覗かせた。その顔は不機嫌そうで、私はまた殴られるのかと思い目を瞑る。


「いきなり目なんか瞑るなんて変な子ね。そこは普通、返事でしょう?」


 殴られないことが分かり、私は目を開ける。女性はため息をついた後「まぁ、いいわ」と言って、ベッド横のパイプ椅子に座った。


「私は、多分あなたと同じマンションに住んでる田中敦子っていうの。仕事帰りに地面に落ちてるあなたを見つけて救急車を呼んでここまで付き添ってあげてる聖人よ」


 彼女は決壊したダムのようにつらつらと喋ると、足を組んで私を見る。


「色々聞きたいことがあるけど、いまはいいわ。……あなた名前は?」


「知らない。多分あるけど母さんはバケモノって呼んでる」


 私は自分の名前が分からない。一番古い記憶を辿っても、そこにはバケモノの単語しかない。でも、彼女はそれが気に入らないようで苦虫を噛み潰したような顔をして「そう」とだけ言った。


「ここの入院費は私が払ってあげる。彼氏も家庭もないけどお金はあるから。はやく治ると良いわね」


「どうしてそこまでするんですか?……私に恩を売って何するつもりですか?!」


 分からない。私にはこの人が分からない。怖い。……もしかして、母さんも同じ気持ちだったんだろうか。


「うるっさいわねぇ、怪我人なんだから大人しくしなさいよ」


 彼女はそう言うと「仕方ないわね」と言って、ジャケットから何かを取り出した。そこから一枚カードのようなものを引き抜くと、私に差し出す。


「これ、私の会社の名刺。何かあったらここに連絡しなさい。信用できないなら警察に渡してもいいわ。じゃあね」


 目の前に突きつけられたそれを私が受け取るのを見ると、彼女はすぐに病室から出ていってしまった。


「……わけがわからない」


 考えれば考えるだけ分からなくて、私は頭が痛くなった。冷静になってみると体全体も引き攣るように痛い。

 壁掛けの時計を見ると10:00を回っているのが見え、私はとりあえず寝ることにした。

 

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