3章 君を想う~救われるべきあなたを~
グラフィア。西部の流通の要所であり、人は絶えず流動する。そのためか、多くの人が集いながらも根を下ろす者が少ない都市であるという。
「止まり木みたいな都市なんだね。」
「上手いこと言うな、フローエル。グラフィアには父上と行ったことがあるけど・・・なんというか、妙に余所余所しい感じだった。」
人も、街も、どこか互いを受け入れていないような。そんな雰囲気だった、と。
「・・・魔王も、止まるところが欲しかったのかな。」
「・・・・・さあな。」
ライエとフローエル、2人だけの馬車の中。窓の外を眺めて2人は、言葉を重ねていく。平和な寸暇を惜しむように、待ち受けるものから逃げ出すように。
がたん、と馬車が止まる。外から、降りるように促された。
「・・・行こう、フローエル。」「・・・うん、ライエ。」
宿に荷物を置いて、ライエと共にグラフィアの街路を歩く。少し離れたところから聖騎士や騎士がぞろぞろついて来ているのは分かっていたけれど、手の届く距離にいるのはライエだけ。何だかそれが、可笑しかった。
「何笑ってるんだよ。」
「いや・・・。沢山ついて来てるのに、近くにいるのがライエだけなんだなって思ったら、何となく笑えてきた。」
「お前が『離れててください。』って言ったんだろ・・・。そんなこと言うんなら、あいつら呼んでくるぞ。」
「わ、ごめん止めて!」
「冗談に決まってるだろ。さて・・・そろそろ、グラフィアの外に出るか?」
「そうだね・・・・・。今日は魔王の気配を探るだけのつもりだったんだけど、迂闊だったよ。都市には結界が張られてるってこと、忘れてた。」
「何が駄目・・・・・ああ、気配が探りにくいのか。」
「そういうことだよ。」
実を言うと、魔王ほどの強力な存在ならば結界内でもその気配は感じ取れる。今も魔王のものらしい、嫌な気配がフローエルに纏わりついてくるようだ。
(結界の中でこれだけ気配を感じるのなら、最悪街中に魔王が現れてしまう・・・。それだけは避けないと・・・。)
「じゃ、行くか。」
「え? ああ、そうだね。」
「・・・フローエル。お前私に何か隠し事」「してないよ! 街中で魔王が出現したら危ないなって考えてただけだから!」
「白状したから許す。」
「酷いなぁ・・・・・。」
むっと唇を尖らせると、そんなフローエルを見ていたライエが堪えきれずに噴き出した。つられるようにフローエルも笑い出して、止まり木の都市に楽しげな笑い声が響く。
離れたところから見ていた騎士たちもつい微笑んでしまうような、細やかな幸せがそこにあった。
─────はずなのに。
「離れてください、勇者様!」「諦めてください! 今は一旦引きましょう!」「勇者様!?」
「勇者様!!」
フローエルは突き飛ばされたままの体勢で呆然と、ソレを見上げた。
黒い霧の竜巻が、天高く渦巻いている。耳には痛いほどの感情を伴う凄まじい『叫び』が叩きつけられていて、聞いているだけで
「・・・・・なんで?」
勇者任命の儀で賜ってから、フローエルと共に在った剣はこの手の中にある。でも─────幼い時から苦楽を共にした、親友にして相棒の少女はここにいない。
尻餅をついたまま、黒い霧の竜巻を見上げる。竜巻の勢いが弛むとともに、その中からは黒い霧で形作られた幾つもの腕が這い出してきていた。
フローエルに殺到する腕を、騎士たちが死にもの狂いで切り払っていく。その中に、剣だこに固いてのひらを持ちながらも少女らしさを失わない腕を見付けて、フローエルは気付かぬうちに立ち上がっていた。
途方に暮れた子供みたいに頼りなく伸びてくるその手に向かって手を伸ばす。
自身の手が微かに震えているのを見て、途方に暮れているのは自分の方かもしれない、と頭の片隅で冷静な
「・・・・・ライエ、なんで?」
手を握る。その手に引かれて騎士の間を通り抜けていく。
ちいさな子供が、母親に手を引かれて帰って行くような。寂しいような、優しいような、不思議な静けさ。
フローエルはその中を、どこか虚ろな足取りで歩いていく。ふと、自分が迷子であったことを思い出したような。そんな表情で。
ライエ。おれの、道標。
「・・・・・なんで」
なんでおれの傍に、いてくれないの。
黒い霧の手に引かれるままに、フローエルは歩いていく。招くように黒い霧の竜巻は開いて、勇者であるはずの少年を呑みこんで。
ゆるりゆらりと渦巻くそれ。勇者を呑みこんだ魔王。残された騎士たちにはそれが、嗤っているように思えてならなかった。
✦✦✦✦
どこでもあってどこでもない、世界の狭間の暗闇。
ウォルナットの木目も美しい本棚の中に、埋もれるように扉はあった。
何も映さぬ蒼穹を激しく揺らがせて、救済の使徒たるセイヴはその前で立ち尽くしていた。
「・・・何をしているの、セイヴ。」
聞き慣れた静謐な声。慈愛と無慈悲の共存する、人にあらざる神のもの。
「助けに行きたいの?」
「当代の勇者が、自分とあまりに似ているから。このままでは、自分と同じになってしまうから。」
「未だ迷い続ける、貴方が?」
「未だ迷い続ける、あの子を?」
「貴方は勇者であれなかったのに?」
苛む様に、魂が痛む。受け止め続けた罪と苦しみ。手を伸ばし続けた命たち。
彼らは叫ぶ。どうしてと。
彼らは叫ぶ。助けてと。
かつて助けられなかったセイヴに。今も助けられないセイヴに。
「エンド。俺とあの子は同じではない。あの子は、俺の持てなかったものを持っている。」
「だから───俺のようになることはない。」
迷い続けるのは、罪を負うのは、自分だけでいい。
哀しく微笑む蒼穹の青。虚空を宿す翡翠の闇。ふたつが音もなくぶつかったときだった。
ふわ、と。冷たいほどに冴えた、それでも温かな月の光に似た光が生まれた。
セイヴが首から提げたロケットペンダントが開き、月光色の髪が零れ落ちる。
かつてここに在った少女に、手を引かれた気がした。
古いようで新しい、奇妙な鍵に開かれた扉。優しい幻に手を引かれ、セイヴの身体が無明の闇に
セイヴ様。貴方もどうか、幸せに。
人々の意識の虚。ある種の闇。そこに出る直前、あらゆるものの幸せを祈り続けた少女の言葉を、聞いた気がした。
✦✦✦✦
黒い霧の竜巻の中は、声に満ちていた。黒い霧の手が触れる度、言葉が意思が流れ込む。
『怖いよ。助けて。助けて。タスケテたすけて助ケて助けてたすけて助けてたすけテ』『ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいごメんナさいごめンなサイ』『妬ましい。疎ましい。羨ましい。ずるい、ズルい狡いずるい狡イずルいずるいずるいズルイずるいズるいずるいずるい』『仕方なかったんだ。しょうがないんだ。仕方ないしかたナイ仕方ないシカタない仕方ナい仕方ないシカタナイしかたない仕方ない仕方なイ仕方ないしかたない』『どうして。どうして。ドウシテどウしてどうしてどうシテどうしてどうしてドうしてどウシてどうしてドウしてどうして。どうして。』『死ねばいいのに。いなくなればいいのに。死ねばイイのに、死ねばいいのにシネバいいのに死ねばいいノに死ねばいイノに死ねばいいのにシネばいいノニ死ねばいいのにしねばいいのに死ねバいいのに死ねばいいのに』
(魔王は─────)
魔王は、生き物ではない。魔王は、勇者の対。魔王は、世界の敵。
教わった魔王と、自身が触れているもの。比べて、考えて─────分かった気がした。
(魔王は、積もりに積もった負の感情。溜まりに溜まった罪で闇。世界の歪みが形を成したものだから、魔王は世界を歪ませる。)
何故勇者でなければ魔王を倒せないのか、何故魔王は勇者のいるときにだけ現れるのか。
(簡単なことだ。魔王は・・・・・彼らは、誰よりも救われたがっているからだ。他でもない、勇者に。)
黒い霧の竜巻と、黒い霧の腕の中。見覚えのある漆黒の光が、きらりと光った。
そこから伸びてきた、剣だこに固いてのひらを持つのに少女らしさを失わない腕を掴む。
『どうしてなんだ。』『あいつは勇者だ。でもあいつだって人間なのに。』『あいつの名前は勇者じゃない。フローエル・ハーヴェイなのに。』『どうしてなんだ。』『みんな期待してばかり。みんな願ってばかり。』『どうしてみんな、あいつを独りにするんだ。』『期待するくせに。希望を見るくせに。なんでだれも、あいつの傍にいてやらないんだ。』『どうしてなんだ。』『傷ついてるくせに。寂しがってるくせに。怖がってるくせに。』『どうして勇者なんか、やり続けてるんだ。』『どうしてなんだ。』『止めてしまえばいいのに。』『打ち明けてしまえばいいのに。』『「フローエル」で、いればいいのに。』
「───どうしてなんだ?」
いつの間にか黒い霧の腕は、瑞々しい少女のものに。
「───どうして、お前なんだ。」
「───どうして、怒らないんだ。」
「───どうして・・・・・平気でいれるんだ。」
フローエルは答えるように、慰め合うように。そっとライエを抱き締めた。内緒話をするみたいに身を屈めて、ライエにだけ聞こえるように。
「おれが勇者でいれるのは───────ライエがいてくれるからだ。」
「私が・・・?」
「誰も近くにいてくれなくても、誰も俺の名前を呼んでくれなくても、誰も分かってくれなくても───ライエが傍にいてくれる。ライエが名前を呼んでくれる。ライエは、分かってくれる。」
「だからおれは、勇者でいれるんだ。」
いつかの疑問の答えが、ようやく分かった。
(勇者を救うものは─────勇者を想ってくれる人。勇者を愛し、勇者が愛する人)
(さあ、務めを果たそう。おれは勇者で、救済するもので───ライエの自慢の幼馴染なんだから。)
フローエルはライエを抱き締めたまま、腰に佩いた剣を抜いた。
命を失ってなお、存在し続ける罪の集合体。誰よりも、何よりも、救われるべきものたちへ。
「勇者フローエルの名の下に」
「汝らの罪を精算し」
「汝らの魂を───」
「救済せん。」
ライエとフローエルを中心に、光が爆発した。
黒い霧の竜巻も、止まり木の都市も、そこに積もった罪を、闇を。何もかも全てを呑みこんで、何もかも全てを浄化して、何もかも全てを光の中へ溶かしていく。
光が晴れて、呆然としていたライエはフローエルと共にゆっくりと立ち上がる。
誰も語らず、誰も動かぬ沈黙の中、ライエはある一点を睨み付けていた。
「ライエ?」
フローエルが問い掛け、ようやく気付く。
自分と同じ、光の祝福色濃い金の髪。何も映さぬ、蒼穹の瞳。
フローエルには、見覚えがあった。
「貴方は・・・・・ウェルシオン?」
「・・・・・懐かしい名だが、違う。今の俺は、救済の使徒セイヴ。その名は、人の頃のものだ。」
「・・・・・魔王は、もう救いました。」
「そのようだな。・・・俺も、何故ここにいるのか分からない。」
がらんどうの瞳。途方に暮れたようなその言葉が、姿が、つい先程までの自分自身と重なって。一言、言葉が零れ落ちた。
「貴方には、いなかった?」
勇者を勇者たらしめる者。勇者を救済する者が。
「ああ。いなかったよ。」
がらんどうの瞳。がらんどうの言葉。がらんどうの、心。
「俺にあったものは、力だけだった。俺は人を想えなかった。俺は人を愛せなかった。人は俺を、愛してくれなかっ」「違うだろ!!」
天を引き裂く霹靂のような怒号。なにものにも染まらぬ漆黒が、今は怒りに染まっていた。
「あんたは何で、人でなくなった!? あんたは何で、ここにいる!?」
「想われたからだろ!!」
傷ついて、悩んで、行き着いた先で叩きつけられた言葉。引き摺られるように、導かれるように、記憶が洪水のように押し寄せてくる。
──ありがとう!
持ち主の元へ帰る手助けをした、宝石の精霊。
──ありがとう、ございます。
いつかパンを渡した、痩せぎすの親子。
──貴方もどうか、幸せに。
人でなくなっても、誰かの幸せを祈り続けた少女。
──罪は、償える。
優しく告げる、終焉の使徒。
──考えなさい。
厳しく告げる、裁定の使徒。
──忘れないで。
かなしい顔をした、エンド。
告げられた感謝が、捧げられた祈りが、与えられた忠告が、祈られた願いが甦る。
そしてようやく、理解した。セイヴが償うべき、本当の罪。
(俺の罪は─────)
たくさんの想いに、気付けなかったこと。たくさんの想いに、背き続けたこと。
それこそセイヴが犯し囚われて、気付けなかった罪だった。
左手に、仄かな温もりが触れる。
月光の銀髪と海原の青の瞳を持った少女がセイヴの手に触れていた。
「何だ・・・まだいたのか、プリエール。」
にこりと優しく微笑んで、かつて存在し、既に消えたはずの祈りの使徒、プリエールがセイヴの手を握る。
「俺を、心配してくれていたんだな。・・・ありがとう。」
セイヴはプリエールから視線を外し、今代の勇者へ目を向けた。
自分と同じ、光の祝福色濃い金の髪。その傍には、
「お前たちにも、迷惑をかけたな。・・・俺はもういくから、心配しなくていい。」
月光の銀色の髪をした少女に手を引かれ、セイヴが歩き出す。少女が手に持つ、古くも新しくも見える鍵が何もない空間に差しこまれ、無明の闇に通じる扉が開いていく。
フローエルとライエはそれを、呆然と見ていた。
「フローエル・・・いいのか?」
フローエルは答えない。大きく見開かれた緑の瞳から一筋、絶やすことなく涙を流していた。
「フローエル。」
声をかけるだけでは聞こえないと悟り、肩を叩く。我に返ったらしいフローエルが、ライエの方を見た。
「フローエル、いいのか。あの人・・・。」
「ぁ・・・あ。ありがとう、ライエ。ちょっと待ってて!」
ライエを残して、フローエルが駆け出す。無明の闇に消えようとする2人の背中は、近いようで遠い。
「待って・・・待ってください!」
必死でかけた声に、2人が立ち止まる。フローエルを見やるのは、兄妹のように似て確かに別人と異なる、海原の青と蒼穹の青。
ライエの言葉に甦ったセイヴの記憶は、フローエルにも見えていた。それはきっと、『勇者』が見せたもの。『勇者』が、フローエルが、
「ウェルシオン・・・・・いいえ。救済の使徒、セイヴ。」
フローエルには分かる。分かってしまう。たくさんの人の罪を、業を肩代わりして、傷つき果てたぼろぼろの魂が。彼の抱える、その痛みが。
「貴方は・・・貴方は、罪を犯したけれど」
ぼろぼろになるまで傷ついて、それでも人を救った。救い続けた。そんな貴方は。
「それでも勇者だと、僕は思います。」
セイヴは蒼穹の青の瞳を見開いて、胸に手を当てて。静かに、安堵したように微笑んだ。
「・・・・・そうか。」
セイヴは穏やかに微笑んだまま一歩後ろへ下がり、扉の形に口を開ける無明の闇へと向き直る。今度こそ闇の向こうへ消えてしまうんだと分かるから、フローエルはその背を見つめた。今代の勇者として。最後まで、見送るために。
セイヴが無明の、無限の闇へ足を踏み入れんとしたその時。ふと、月光の髪をした少女が振り返った。
『フローエル、ライエ。』
プリエールと呼ばれたそのひとは、深い海原の青の瞳を柔らかく微笑ませていた。口は動いていないのに、声だけが響いてくる。
『汝らに、幸いあらんことを。汝らの道行に、月と太陽の祝福があらんことを・・・・・いつまでも、祈っているわ。』
ふわりと翻る、月の光の色の髪。その隙間に、翠の石光る銀色の指輪が見えて。
「貴女は・・・・・!」
ライエの伸ばした手の先で、祈り続けた少女と古より存在し続けた勇者の青年が消えた。
いくら目を凝らそうとも、闇へと続く扉の痕跡は何一つ残ってはいない。
彼の、彼女の痕跡は、2人の記憶の中にだけ。
だとしても。
「かあさま・・・・・。」「あの、ひとが・・・・・。」
捧げられた祈りが幼き勇者と騎士の少女に染み渡り、一粒の涙となって零れ落ちる。それは2人の首から下がる石抱く銀の花に落ちて、きらめいた。
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