第33話 理不尽なこの世界で。




 ファルトはもう元には戻らないだろう。

 悪魔の花の香りで精神が壊れてしまった。いや、元より心はおかしくなっていた。親を殺し、妹を失い、正常でいられるわけがない。

 それでも必死に自分を守るための綺麗事と仮初の正義感で不安定な心を保っていた。そんな彼の最後の砦ともいえる自我を完全に崩壊させたのはディゼルなのだが。


「全部、なくなったわね。貴方にはもう何もない守るべき妹も、貴方自身の心も、とっくになかった。それをまだ在るものだと信じてきた……だけど、それももう終わり」

「う、あ……ああ……」

「自分を偽って生きるのは苦しかったでしょう? 本当は貴方も薬が欲しかったのではなくて? いえ、貴方は自分の力で叶えることが出来る人だもの。私の力なんて必要なかったわね」

「フルー、ル……ああ、フルール……僕は……お前を、守りたい、んだ……」


 ファルトはディゼルに手を伸ばした。

 どうやら幻覚でも見ているのか、ディゼルのことを妹のフルールだと思っている。それならそうと、相手に話を合わせるだけ。

 ディゼルは椅子から立ち上がり、ファルトの隣に立って彼の頭を抱えるようにして撫でてやった。


「兄さん……もういいのよ、嘘なんかつかなくていいの。素直になって? 憎いならそう言っていいの。だって人間だもの、感情があるんだもの。それを隠さなきゃいけない理由はないわ。理不尽には、理不尽で返せばいいの」

「フルール……ぼくを、ゆるして、くれるのか……」

「ええ、兄さん。私だけが貴方を許してあげる。たった二人だけの家族ですもの……」

「ああ……フルール……」


 ファルトは泣きじゃくり、思いを吐露する。

 幼い頃からずっと親の暴力を受け続けて、周囲に助けを請うても無視されたこと。逆にその行為が親の逆鱗に触れて余計に暴力を悪化させたこと。

 妹は体が弱いのにもかかわらず家のことをやらされ、体を売り物にされた。


 この町の人、全てが憎いとファルトは嘆く。

 妹を無理やり抱いたものの体を引き裂いてやりたい。助けてという言葉を聞いてくれなかった者の耳を引き千切ってやりたい。

 彼の口からはどんどん恨みつらみが吐き出されていく。

 その心の闇に、悪魔が反応した。


「これはこれは……やっぱりとんでもないものを飼っていたな。何年も憎しみを煮詰めて煮詰めて、これ以上ないほど凝縮されているではないか」


 黒い靄から現れた悪魔に、ファルトは気付かない。もう彼には妹の幻覚しか見えていないのだろう。

 ファルトから溢れ出る負の感情に、悪魔も満足げな笑みを浮かべている。


「ああ、良いな。この深い深い絶望の味。たまらないぞ……」

「彼はどうします?」

「町に置いてくればいい。感情のままに動くコイツがどうなるのか、楽しみだ」

「ふふ。虐殺を起こすのか、それとも暴れた彼だけが処刑されるのか……本当にこの世は理不尽だらけですね。彼が望んだ話し合いも、たった一人の小さな声は多数の声で淘汰される……悲しき世界ですわ」

「悪魔としては喜ばしいことだがな。人間が腐れば腐るほど、餌に困らずに済む」


 悪魔はディゼルをファルトから引き剥がし、口付ける。

 ディゼルはうっとりと恍惚の表情で彼の口付けを受け入れた。


「どんな不幸でも腹は満たされるが……やはり極上の餌はお前だけだな」

「悪魔様……」


 それから数日後。

 町で一人の男が暴れた。多くの者が殺され、血の海を作り上げたという噂が遠くの国で広まった。

 その男がどうなったのか、その後を知る者はまだいない。


 そして森に住む魔女の噂も、風のように消え去ったそうだ。



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