第6話 母さんのことだから。

 コンロの電源を落として更に三十分後――


「これをこうして、つけるときとは反対にひねってっと」


 カチリと音を立てて、圧力鍋の蓋が開く。


「――あらぁ」

「うん、いい匂い」


 もわっと湯気が上がる。その匂いは、食欲をそそる良い香り。丁寧にあく取りをしたからか、思った以上に煮汁も濁ってはいない。勇次郎はおたまで煮汁を少しすくい、小皿に取って味見をする。


「うん、味は直さなくてもいいかも。どう? 麻乃お姉さん」


 ついっと麻乃にも差し出す。


「良いのですか?」

「これは味見だから」

「では、失礼いたして――あら、ほんとうに優しいお味……」

「でしょ? そしたら次は」


 小皿を受け取る勇次郎。小鉢のような小さめの皿を二枚用意。そこに大根を一枚取って、半分に割ると二つに分ける。同じように、にんじんも。煮込んだソーキも二つに割る。最後に、煮汁も軽く。


「はい、どうぞ」

「いえ、でも。これは」

「これはね、『毒味』みたいなもの。つまみ食いは作った人の特権だからさ」

「……お毒味で、ございますね?」


 ちょっとだけ悪い笑みを浮かべる麻乃。


「そうそう、毒味だから。万が一があっちゃ、駄目でしょう?」

「えぇ、そうでございますね」

「それじゃ」

「「いただきます」」


 小さく箸で切って、口に運ぶ。


「うん。まだ煮えたばかりだから。それでも一時間なら大根も十分に沁みてる」

「えぇ。実は私、軟骨は始めてでして、これはこれは。……とろけた部分がねっとりしていて、肉はほろほろでございます」

「これね、軟骨部分はコラーゲンがね」

「存じております。お肌によろしいのですよね? お大根も、箸がすっと入るくらいに柔らかくて実に美味しゅうございます」

「あとは、ソーキの煮物が冷めたら鍋を移して冷蔵庫へ入れて、と。夕方になるころには、大根とにんじんにも味がもっと沁みてるはず」


 これで一応、杏奈への誕生日プレゼントは用意できた。


「あ、大事なことを聞くの忘れてたけど、お姉ちゃんって、これ好きかな?」

「えぇ。豚肉も牛肉も、大好物でございますよ」

「ならよかった。そしたらね、これをこうして料理のひとつにして――」


 勇次郎は、サプライズイベントのようになるべく、麻乃と打ち合わせをしていく。


「そうえいばさ」

「はい、なんでござましょう?」

「母さんと静馬さん。今夜の予定はどうなってるのかな?」

「少々お待ちくださいませ」


 麻乃はどこから取り出したか、某リンゴのマークが入ったタブレットを取り出した。


(こんな十二インチはあるやつだよね。あんなに大きいのどこに隠してるんだろう?)


 勇次郎は内心、そう思っただろう。


縁子ゆかりこ様も、静馬様も、今夜は夜勤でございますね」

「あ、やっぱりそうなんだ。去年もそうだったから、だろうなーって」

「それでもですね、お二人が入籍されて以来、同じ勤務時間帯でお仕事をされているようですから」

「うん、夫婦だもんね」

「すれ違いをされないように、気をつけていらっしゃるのかと」

「母さんはほら、案外適当でドライな性格だから」

「そうなのです?」

「新婚だというのに、静馬さんにさ、『放置プレイ』みたいなことしてないかな? って心配してたんだよね」

「――ぷっ」


 さすがの麻乃もつい、吹き出してしまう。


「だってさ、静馬さんから再婚を申し込まれたときにね、『忙しいから、構ってる余裕ないわよ?』って応えたんだって」

「――ちょ」

「それで色々あって、断るに断れないとか、ツンデレさんみたいなこと言ってるんだよね」

「――お願いなので、……やめてくださいましっ」

「お姉ちゃんには言えないけどさ、ほんと、大丈夫かな? って思っちゃったんだ」

「た、確かに、そうでございますね」


 必死に深呼吸をして、体裁を整えようとしている麻乃だった。


「でもそっか、二人とも今寝てるかもなんだね」

「はい。ですが、お祝いの品はもう、預かっていますので」

「あー、母さんのは『あれ』でしょう? コンビニにあるクマゾンのギフトカード」


 クマゾンとは、最大手のオンラインショッピングモールで、デフォルトされた白熊のキャラクターがモチーフになっており、大人から子供まで全世界で人気がある。ただ、沖縄を含む一部の離島は、プレミア会員であってもその日のうちに荷物が届くような恩恵がないのが玉にきずな感じではあった。


「……ご存じでいらしたのですね」

「うん。一昨年からそうなんだよね。『好きなものを買いなさいね』って、ほんとドライでしょ? あ、お姉ちゃんにも、同じことしちゃってないよね? もしかして?」

「それは大丈夫でした。その、お花でしたので」

「よかった。母さんのことだから、やらかしたかと思っちゃったんだよね」

「豪快なお人柄なのですね、人は見かけによらないと再認識いたしました……」

「あははは」


 真剣な眼差しの麻乃と、苦笑する勇次郎。勇次郎は何かを思い出したかのように、スマホを取り出す。


「麻乃お姉さん、あとは任せちゃってもいい?」

「はい、大丈夫でございます」


 スマホの画面をタップ、待ち受けが映ったところで、肩口から麻乃の気配と共にツッコミが入る。


「あらぁ、勇ちゃんったら。杏奈お嬢様が待ち受けなんですね」

「あ、その。お姉ちゃんには内密に……」

「もちろんでございます。ですが、これはまたレアな……」


 勇次郎が待ち受けにしている画像は、昨年鈴子と一緒に映っている写真をトリミングしたものだった。その証拠に、左側で鈴子が見切れている状態。


 生徒会長の役職を受け継ぐときに、鈴子が撮った写真。カメラが手元になかったらしく、役員がスマホで撮したという話を聞き、勇次郎がお願いして鈴子に転送してもらった珍しい写真だった。


「鈴子お姉ちゃんに見せてもらって、なんていうか、珍しい表情だったんだ。附属中学ふぞくでこんなに柔らかく笑ってるのって、……あ、そういえば今年の表彰台で同じ表情してたっけ」


 普段は気を抜かない杏奈も、ふとこういうタイミングがあった。そういうことだろうと、麻乃は思ったはずだ。


「とにかく、あとはお願いね」

「はい、かしこまりました」

「それと、景子さんを呼んでもらえますか?」

「はい?」

「ちょっと早いけど、鈴子お姉ちゃんに文句言ってきます」

「左様でございましたか。少々お待ちくださいませ」


 景子の連絡先は、昨日聞いておいた。本来なら直接呼ぶことも可能だが、勇次郎は専属である麻乃を通すべきと思ったのだ。


 ややあって、景子が到着する。


「お呼びですか、勇次郎様」

「こんなに早くすみません。あのですね――」


 勇次郎は今日の予定を説明する。もちろん、勇次郎に頼まれた作業中の麻乃も同席できるガレージで。ついでに麻乃からは、東比嘉家で動かせる車について説明があった。


 杏奈の送り迎え用にリムジンが一台。静馬と縁子の送り迎え用に、黒塗りのセダン車が一台。すぐにもう一台用意しなければならないところに、景子の移動があって急遽予定が変更になった。


 先日勇次郎たちが乗せてもらったシマノブルーのレヴォーグは、景子の私物であったが、こちらへ転属になった際、東比嘉家で買い上げることとなった。もちろん、新車の価格でである。勇次郎との関係を公にしたくない状況にある杏奈にとって、この件は渡りに船だっただろう。


 基本的に、四月から勇次郎の送り迎えをするのはこのレヴォーグ。乗り降りは大学校舎の駐車場で行われるので、附属高校校舎までは多少歩くことになるが、他の生徒に見られることはない。なぜなら、麻乃も一緒に登校することになるのだから。


「お屋敷のすぐ近くにある社宅へ住むことになりまして、お家賃もかからなくなったのと、レヴォーグの分が丸々戻ってきてしました。私用でも使って構わないと許可をもらった上に、燃料代を始め、あれにかかるものが全て経費にできると言われましたので、もうほくほくでございまして」


 エンゲル係数高めな景子は、懐に余裕ができたことで終始笑顔であった。


「いってらっしゃいませ、勇くん」

「はい、いってきます」


 こうして勇次郎は、つい先日まで住んでいたマンション。仲田原家へ向かうのだった。

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