第三十話 帰郷(二)


 普段ならばこの時間、診療所はとっくに閉まっているはずだ。

 それなのに、遠くから見ただけでわかる程に、窓からは明かりが漏れ、大勢の人が詰めかけている気配が感じられた。


 嫌な感じがする。


 皓皓コウコウは息を殺して身を縮めると、なるべく人目に付かないように暗がりを移動し、患者に向けて解放されている正面の扉を避け、診療所の裏に回り込んだ。

 子供の頃から一家と家族ぐるみの付き合いがあった皓皓は、時々そちらから彼らの住居に上がらせてもらい、食事を御馳走になったり、泊めてもらったりしてきた。勝手知ったる他人の家だ。


 勝手口の横に下げられた呼び鈴を鳴らす。

 二度。間を空けて、もう三度。

 すぐに内側から戸が開いた。


「皓皓!」


 鷺朔ロサクは悲鳴のような声を上げたかと思うと、力いっぱい皓皓を抱き締めた。


 きっちりと結い上げた髪の上に頭巾を被った彼女は、鷺信ロシン医師の娘で鷺学ロガクの双子の片割かたわれ、名はサクという。

 鷺学と同じく皓皓とは幼馴染で、皓皓より鷺学より男勝りの、けれどとても優しい女の子だ。


兄皇子けいおうじ様の使いの人がうちに来たの。あなたが大罪人と一緒にいるかもしれない、って。無事で良かったわ」


 なるほど、そういう話になっているのか。


「迷惑かけてごめん」

「そんなことはいいのよ。怪我はしていないみたいね。熱もない?」

「僕は平気だよ」


 鷺朔は皓皓を家の中に招き入れ、戸を閉めた。

 火の消えた勝手場には他におらず、鷺朔からは夕餉の香りではなく、消毒液の匂いがする。


「診療所、大変なの?」

「大丈夫。心配しないで……と言いたいところだけれど、あなたに嘘は吐けないわね。正直、大変よ」


 鷺朔は近くの椅子を引いてきて皓皓を座らせると、自分もその向かいに腰を下ろした。


「あなたがネツサマシを届けに来てくれて、しばらくは落ち着いていたのだけれどね。冬が近付くにつれて、どんどん患者が増えているの」


 酷く疲れたような、重い息が吐かれた。


兄皇女けいおうじょ様のことがあって以来、国全体の空気がよどんでいるでしょう? これじゃぁ、病が良くなるはずなんてないわ」

スウ様のこと、って?」


 皓皓が尋ねると、鷺朔がきょとんとする。


「まさか、知らないわけじゃないでしょう? 兄皇女様がお亡くなりになったって」

「ああ。……勿論、知ってるよ」


 知っているも何も、皓皓は彼女が亡くなったその現場に居合わせたのだ。


「それも、その下手人が弟皇子ていおうじ様って話じゃない。みんな、気が重くなって当然よ」


(違う!)


 皓皓は大声で叫びたいのをぐっと我慢する。

 あの一件は、あの時にエンが語った筋書き通りに、国中に広く知れ渡っているらしい。


「その後、弟皇子様はどうなったの?」

「兄皇子様が兄皇けいおう様と弟皇ていおう様に『命だけは助けてやってほしい』って嘆願して、国外追放になった、って話だったでしょう?」


 ランを取り逃がしたことに対して、上手い言い訳を考えたものだ。

 事実とはかけ離れた美談風の物語に、苛立ちを越えて吐き気がした。


「本当に何も知らないの?」


 あれからずっと狼狽之国にいた皓皓は、鳳凰之国の民の皆が知っている話を把握していない。鷺朔はそれを不審に思ったことだろう。

 

「兄皇子様の使いがうちに尋ねて来たのは、のてっきりあなたも兄皇女様の事件に巻き込まれたからじゃないか? って心配していたのだけれど……違うの? 今までどこにいたの?」

「それは……追々話すよ」


 言い淀む皓皓に、引き際を良く心得ている賢い彼女は「そう」とだけ応え、すぐに割り切ったようだ。


「そうだ! 鷺学にも、あなたのこと、教えてあげないと!

 すごく心配していたのよ。呼んでくるから待っていて」


 そう言って席を立ち、慌ただしく勝手場を出て行った。

 程なくして、鷺学が飛び込んで来る。


「皓皓! 良かった、無事で! 怪我はしていないか? 熱は?」


 片割と同じ言葉で皓皓を気遣う彼が、なんだかとても懐かしかった。


「ありがとう、鷺学。僕は大丈夫だ」


 安心したように頬を緩めた鷺学は、しかし、次の瞬間、沈痛な面持ちになった。


「……栄小母エイおばさんが亡くなったよ」


 胸を突かれた。

 ああ……と唇から息が零れる。


「君が持ってきてくれたネツサマシのお陰で、一時は持ち直したんだけれど。駄目だった」


 栄小母。

 ほがらかで気が良く、優しい人だった。

 皓皓が片羽かたはねであることなどまるで気にせず、いつも親身になって世話を焼いてくれた。


 ――皓皓! 此処、使いな。アンタに店を出してもらわなきゃアタシたちだって困るんだよ。


 そんな言葉はもう聞けないのだと思うと、彼女のさっぱりとした笑顔をもう二度と見られないのだと思うと、腹の奥から込み上げてくるもので息が詰まった。

 気遣わしげに皓皓の顔を覗き込んでいた鷺学が、やがて躊躇ためらいがちに口を開く。


「しつこいと思うかもしれないけれどさ……なぁ、皓皓。此処で、僕たちと暮らさないか?」

「鷺学、何度も言うけど、僕は……」


「僕と結婚しよう」


 つい先程とは別の意味で、皓皓は息を詰まらせた。


「……え?」

「ずっと前から、そうしたいと思っていた」

「だ、だって、そんな……」

「君は亡くなった片割のとむらいのために、男のふりをして生きなければならない。わかっているさ。

 だから、君が成人で、そののろいが解けた時に言おうと思っていたんだ」

「そんな……そんなこと、突然言われても」

「僕の気持ちに気付かなかった? 全く?」


 返す言葉を失った。

 そうだ。本当はわかっていたのだ。自分に向けられる慈愛の眼の意味を。

 鷺学の、皓皓に対する恋心を。


「駄目だよ、鷺学。だって、僕は……」

「今も、あの人と一緒にいるのか?」


 真剣な眼差しが、皓皓の胸に突き刺さる。

 鷺学の言う「あの人」とは、ランのことだろう。


「あの人のことが好きなのか?」

「そういうことじゃない」


 皓皓の藍に対する感情は、鷺学が皓皓へ向ける想いとは違う。

 それは、絶対に。


「皓皓。あの人は……」

「……言わないで」


 鷺朔は何も知らない様子だったが、宛にも藍にも出会っている鷺学は、何かを悟っているのかもしれない。


「お願い。言わないで」


 問われたところで、本当のことを言える筈もない。

 鷺学に嘘は吐きたくなかった。


「……僕、そろそろ戻らないと」


 鷺学たちの無事は確認出来たし、里の現状や、鳳凰之国ほうおうのくにで今、藍がどういう立場に置かれているのかもわかった。

 栄小母のことは、ただただ残念だった。


「皓皓!」


 席を立った皓皓を、鷺学の悲痛な声が呼び止める。


「……ごめん、鷺学。今までありがとう」


 無理やり作った笑顔でそう言うと、鷺学はもうそれ以上、言葉を重ねてこなかった。

 今生の別れになるかもしれない。

 皓皓がそう思ってしまったことは、おそらく、鷺学にも伝わった。

 鷺学の顔に浮かんだ絶望の色から目を背け、皓皓は逃げるように彼らの里を後にする。


 急ぎ足で宿に帰る道すがら、涙が零れそうになった。

 何がこんなに悲しいのか、自分でもわからない。




 宿の部屋に戻ると、藍が一人で何をするでもなく窓辺に座っていた。


「戻ったのか」

「うん。……チノは?」

「馬を見に行っている」


 部屋の真ん中に立ち尽くしたまま動かない皓皓に、藍が首を傾げる。


「皓皓?」

「……あ、」

「里で、何かあったのか?」


 此処まで堪えてきたものが、ぽろりと目から溢れ出す。


「皓皓?」


 一度堰を切ってしまった涙はもう留まることを知らず、後から後から込み上げてきては、頬を伝って流れていく。


 藍が椅子から立ち上がり、こちらへ向かって歩いてくる。

 そっと、鳥の羽が一枚舞い落ちる程の軽さで、藍の手が皓皓の肩に触れた。

 言葉はない。

 だが、本人にそのつもりがあるのかもわからない不器用な慰めが、今の皓皓には唯一縋れる温もりだった。

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