第二十九話 帰郷(一)


 その朝、鳳凰之国ほうおうのくにより早く訪れる狼狽之国ろうばいのくにの冬に、風花が舞った。


 穹盧きゅうろをより簡素にし持ち運べるようにした天蓋てんがいを出て、ランは自らの吐く息の白さに驚く。


 まだ日も昇りきらない薄暗い草原に一人、チノが剣をたずさえて立っていた。おもむろに鞘を払う。

 鈍く光る刃が振るわれる。右から左へ。上から下へ。

 しなやかなその動きは、見えない敵を薙ぎ払うようであり、神聖な舞のようでもあった。


「おまえ、剣を使えるのか」


 しゃん、と音をたてて刃を鞘に納めたチノが、藍の言葉に振り返る。


「独り身で旅をしてるでな。身を守るには必要なことだ」

「……頼みがある」


 ――剣の使い方を教えてほしい。

 藍の頼みを、チノは快諾した。


 まだ幼い自分、ほんの一時期だけ、皇族のたしなみとして剣術をかじったことはある。

 紅榴山こうりゅうさんの宮に移ってからも、うろ覚えの型をなぞるだけは続けていたが、いかんせん相手がいないので様にならなかった。


 胡琴こきんの腕より尚酷い。何の役にも立ちはしない児戯じぎだ。

 今一度、それを鍛え直しておきたかった。文字通りの付け焼刃にしかならないとしても。


 来るべき日のために。




 ナルス一家の元を旅立ってから、藍は目に見えて精気を取り戻し始めている。

皓皓コウコウはそのことにほっとしていた。

 朝早く起き出しては、チノに剣の稽古をつけてもらっているようだ。

 それは藍にとって何か大事な儀式のように思えたので、その間、皓皓は二人の邪魔をしないよう、朝食を用意したりシロの世話をしたりしながら、大人しく待つことにしている。


 出立から五日目。

 いよいよ鳳凰之国ほうおうのくにとの国境が目前に迫っていた。


 狼狽之国ろうばいのくにから鳳凰之国へ向かうための道のりは、鳥の姿で空を行ければ一直線だが、陸路を進むとなると面倒だった。

 両国の境には、紅榴山――藍の宮があった山――が立ちはだかっているからだ。

 ただでさえ高く険しい山である上、皇族の領地なので民間人の出入りがない。

 そのため山道が敷かれておらず、人の足で歩いて超えるのはほぼ不可能に近いのだ。

 国境を越えるには紅榴山を迂回して街道を行く必要があり、その街道の近く、狼狽之国から鳳凰之国に入ってすぐの所にあるのが、皓皓が薬を売りに下りていた里である。


 山で暮らしていた頃は遠く感じていた里も、さらに遠く、国さえ離れて過ごしてきた今となっては、まるで本物の故郷のように懐かしく感じられてくる。

 そんな想いが顔に出てしまっていたらしい。


「国境を越えたら、まずは一休みしよう」


 チノがそんなことを言い出した。


「でも……」


  藍の立場を思えば、敢えて人前に姿を現す危険を背負うべきではないのでは?

 皓皓が遠慮がちに言うと、


「いずれにしろ、一度、おまえさんたちを屋根の下で休ませてやらにゃいかん。

 それに、兄さんの顔はそちらの国では知られておらんのだろう?

 まさかこんな愉快な三人と一頭の中に皇子様が紛れているとは、誰も思わまいよ」


 と、チノが笑った。


 一行はチノの提案により、「狼狽之国の行商人と、その甥と姪」という体をとって、衣装も狼狽之国風の物に改めていた。

 鳳凰之国においては人目を引く藍の黒髪も、狼狽之国の民としてならば珍しくない。

 そして、皓皓はと言えば、サラーナに譲ってもらった女物の着物を身に着けている。

 エンはまだ皓皓のことを男だと思っているはずだから、詮索の目を欺くには適切な判断だと言えよう。


 だが、「成人するまでは死んだ片割かたわれの名と性を背負う」というまじないを思いがけず破ることになってしまった。

 それが亡き片割を裏切る行為のように思えてしまい、皓皓には居た堪れない気持ちが残る。

 それに、未だに慣れない女物の着物は妙に飾りが多くひらひらとしており、動きにくくて仕方がない。


 そんな不本意な変装のお陰かは知れないが、国境の関所で、三人は対して疑われることもなく、すんなりと鳳凰之国へ入ることを許されたのだった。


「毎日、数え切れん程の行商人が行き交うでな。お役人もいちいち精査しておれんのよ」


 どうやら過去にも同じ方法で鳳凰之国に出入りしたことがあるらしいチノが、拍子抜けしている皓皓と藍に、飄々ひょうひょううそぶいた。


 関所を通り抜けた途端、景色が変わる。と、いうことはなかったが、 


(帰って来たんだ)


 と思うと感慨深い。

 胸を張れる喜びに満ちた凱旋、とはいかないのが残念だ。


 そこから南下して皇都おうとへ続く街道を横切り、少しだけ西に進んだ先に里がある。

 が、一行は敢えて里から外れた所にある、狼狽之国の行商人向けの宿場に宿を取った。

 藍のことは知られていなくとも、里には片羽かたはの皓皓の顔を覚えている者がいるからだ。


「関所のお役人の様子を見る限り、二人がお尋ね者として手配されるということはなさそうだったが、念のためな。おまえさんも、くれぐれも気を付けて」

「はい。いってきます」

「……本当に一人で行くのか?」


 宿の部屋に入ってすぐ、落ち着く間もなく外套がいとうを着込み直した皓皓に、藍が仏頂面で尋ねてくる。


「顔が知られてないとは言っても、藍は里に姿を見せるべきじゃないよ。

 だったら、チノさんと二人で此処にいてもらった方がいい」


 まだ物言いたげな藍に、皓皓は、


「僕は大丈夫だから」


力強く頷いて見せた。


 此処での休憩は今晩一泊。

 その間に、皓皓は一人で里に向かい、鷺信ロシン医師の診療所を訪ねるつもりだった。


 宛はあの市の日に鷺学ロガクと会っている。

 皓皓の行方を捜して、診療所に追っ手を差し向けた可能性は考えられた。

 そんな中、敢えて鷺学に会いに行くのは危険だとわかっている。

 しかし、あんな風に別れきりの鷺学たちのことや、あの時、熱病に苦しんでいた英小母エイおばのことを考えると、いてもたってもいられない。


 本当は、藍の宮のその後のことも気に掛かっている。

 体を張って藍と皓皓を逃がしてくれた使用人たちは、どなったのだろう? 小翡しょうひ小翠しょうひは?

 宛は、自分の命令にそむいた彼らを、果たしてゆるしただろうか?

 確かめたかったが、流石にあの場所まで戻るのは危険が大きすぎる。


 藍は、自分の使用人たちについて、何も口に出さなかった。

 しかし、心の中では皓皓よりずっと彼らの身を案じている筈。

 藍が堪えているのだから、皓皓も今はただ、彼らの無事を信じ、祈るより他ない。


 皓皓は提燈ランタンの頼りない灯りで石畳を照らしながら、先を急いだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る