出ずる

 以下は私が所属する阪大カレー愛好会の伊豆旅行の際に作成した旅のしおりに寄稿した文章並びに会誌『基礎・カレー探究』に収録された際の解説文です。


 * * *


出ずる ―伊豆半島論―


 「伊豆」という地名は,伊豆半島が南洋へ突き出ている様子が語源であるとする説がある。日本列島より「出ず」る半島,という訳である。


 真偽はともかくとして,先人がこの半島を「出ず」と捉えた感覚は,我々にとっても受け入れがたいものではない。むしろ半島の形をより正確に把握している我々の方がより受け入れやすい感覚といえる。


 列島から突き出ている,という感覚はこれまで多くの者を魅了してきた。


 三方を海に囲まれている伊豆という地は,確かに列島から地続きでありながらもある種隔絶された孤島のような感覚を,訪問者に与える。


 伊豆半島に踏みいった訪問者は海,断崖といった非日常の危険に身を晒すことになる。しかし引き返すことは容易である。来た道を引き返せば日常に戻ることができる。


 このあまりに手軽な冒険,いわば日常と非日常の狭間に身を置く体験に人々は魅了されてきたのである。

 

 そこには常に,伊豆は列島から飛び出した場,つまり日常の延長にあるという直感から来る安堵があった。故にその直感が崩れるとき,人は伊豆を捉え直す必要に迫られる。


 伊豆半島は列島から飛び出したのではなく,飛び込んで来たのである。


 伊豆半島は元々は島であった。それが地殻変動,即ちプレートの移動によって列島に激突し半島となった。


 伊豆半島はフィリピン海プレートに乗って南洋からやってきて本州に突き刺さ

った異物なのだ。


 この事実と直感との齟齬を我々は認識しなければならない。


 気楽に思われた伊豆半島への冒険は未知への探求へ他ならないことを知るべきだ。

 

 我々が向かうのは異質な地,日常の延長に差し込まれた非日常なのである。



解説

—―この文章は以前,「カレー愛好会伊豆旅行のしおり」の地理編に書いてもらったわけだが,書かれていることの事実を確認したい。「出ずる」が「伊豆」の語源という説は本当にあるのか。


—―私が考えた駄洒落である。「嘘から出た誠」というのはあるかもしれないが,調べてみないと分からない。


—―実際には,伊豆が列島から飛び出している(出ずる)のではなく,飛び込んできたものだというのも書かれている,こちらは本当なのか。


—―伊豆が飛び込んできたことは事実である。伊豆はもともと太平洋の孤島であり,それが長い年月をかけて列島に突き刺さってきたのだ。現在もフィリピン海プレートは動き続けているので,伊豆というのはどんどん本州の下に潜り込んでいるのだと言える(伊豆半島は日本列島で唯一フィリピン海プレートに位置する)。


—―我々は静岡出身ではないが,この事実は一般常識としてある程度知られているのだろうか。私は知識として持っていなかったので,はじめて知った時に非常に驚いた。まさに直感と異なる。


—―知識としてはある程度知られているのではないか。大陸の移動,つまりプレートテクトニクスというのは色んなところで言われていると思うので。言ってしまえば,伊豆というのはインドだ。インドももともとは孤島で,それが大陸に突き刺さってできたのがヒマラヤ山脈である。


—―伊豆と箱根の関係はインドとヒマラヤ山脈の関係性のアナロジーで解釈できるということか。この論考は現在は陸続きにある土地に足を踏み入れた際に,その土地が孤島であった歴史を踏まえることで,太平洋に放り出されたような気分になるという感覚を鋭く指摘している。この不安感(事実と直感との齟齬)と向き合うべきだ,と。最近,静岡県の三島市(伊豆半島の入り口)に引っ越されたとのことだが,土地の人間として伊豆半島の異質さを実感することはあるか。


—―やはり,伊豆に入ると火山由来の岩肌など,見える風景が変わるため異質な雰囲気を感じる。内陸の土地とは違う成分で出来ていると雰囲気がある。


—―フィリピン海プレートに踏み入れたという,緊張感を感じることはあるのか。


—―本文は,これからの旅路(伊豆旅行)をより面白いものにしてやろうという目的で書いていたので,実感としてはあまりよく分からない。伊豆旅行に冒険性を付加したい時に読んでもらえればと思う。


—―普段三島市に住まれている人間の感覚では(三島市は伊豆半島の入り口と言われるが)三島は伊豆半島の一部なのか。


—―三島を伊豆半島の構成要素として捉えてはいない。だからこそ,近場でありながらも伊豆半島への旅路は冒険となり得るのだ。


――半島であるということ,「出ずる」地だということは,経験的に実感できるものなのかを考えたい。私は香川県の小豆島を徒歩で一周したことがあるのだが,海沿いを真っすぐ歩き続ければ最終的には歩き始めた場所に戻ってくるわけである。この時,今立っている大地が島であるということを受け入れざるを得ないわけだが,対して「半島」というのはこのように実感することができるものなのだろうか。島と半島はかなり異質だという気がする。


――三方が海に囲まれているということは実感できるのではないか。島の条件は海に囲まれているということであるが,完全に囲まれていない場合は「半島」である。程度差はあるが海に囲まれているという点では,両者が共に島という概念で捉えられる理由を説明できる。


—―おっしゃる通り。しかし,海に囲まれている程度について我々は地図によって,鳥瞰的な視点から認識することができるわけだが,生活上の実感として海に囲まれている程度を認識することは困難ではないか。つまり,地図が存在する以前に半島という概念はあり得たのかが疑問である。地図がないと陸続きの大地を島との類似性によって捉えようとする動機付けが無いように思われるのだ。


――そこは考えてみる価値がありそうだ。伊豆はかなり長い間「伊豆」であったことは間違いない。ただ,そこに半島という概念がくっついたのは,地図が出来てからだという気もする。


—―伊豆半島を旅行した時に我々が感じた「三方を海に囲まれている」という感覚は,地図によって先取りした知識を日常の見えに適用している可能性があり得る。先人が伊豆という土地を生活上の実感として「出ずる」土地だと捉え得たのかについては,もう少し吟味してみる必要がありそうだ。


 * * *


 伊豆について興味を持った方は是非こちらもご覧ください


『伊豆独立戦争』

https://kakuyomu.jp/works/16816452220400407737


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咖喱草子 菅沼九民 @cuminsuganuma

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