第5話

 琥珀が母親に捨てられたのは5歳の時であった。

 琥珀は男親を知らない、家には母親しか居なかった。

 その日琥珀は初めて遠出する楽しみではしゃいでいた。普段冷たい母親もその日はやけに優しかった。アイスクリームを買ってくれて一緒に食べた。いつもは、投げ捨てるように放置された買い物袋から、食べられそうな物を探して一人で食べていたから嬉しかった。長い旅路の途中立ち寄ったレストランは、琥珀にとって初めての外食だった。温かい食事を家族で囲むだけでうきうきと体が動き出した。その弾みでコップを倒してしまった時、いつもであれば思い切り叩かれるところを、優しく大丈夫だと慰めてくれた。母親の優しい手のひらが頭を撫でたのはそれが最初で最後であった。

 そうしてたどり着いた場所は何もかも知らない土地だった。何も分からないままに手を引かれてあの場所へ連れてこられると、母親はここで待つようにと琥珀に強く言いつけた。

 琥珀は言いつけを守った。優しい母親を困らせたくないと思ったからだ。もしかしたら見たこともないご馳走を持ってきてくれるのかもしれない、絵本や写真で見た素敵な宝物を見つけてきてくれるかもしれない、琥珀は思い付くままの幸せを信じて待った。

 琥珀の母親はそのまま帰ってくることはなかった。日はいつの間に落ちかけ暗くなり始め、寒さと空腹が不安を大きくさせた。流れて止まらない涙と、あげ続けて掠れた声を頼りに老田が琥珀を見つけた時に琥珀は意識を失って倒れた。


 琥珀が話し終えて見た藤吾の顔は表情もなく青ざめていた。

「藤吾さん大丈夫?」

「あ、た、だ、大丈夫です!ごめんなさい」

「謝らなくていいって、聞いてくれてありがとう」

 それでも藤吾は気が引ける思いだった。琥珀の心の奥底に触れて藤吾は強く思ったことを言った。

「な、な、な、何か、ち、力に、なれませんか?」

 何ができる訳ではない、藤吾には力になれそうな事は一つも思い付かない、それでも琥珀の力になりたい、その力強い言葉に琥珀は泣きそうな笑顔で言った。

「ありがとう藤吾さん。なら次は私に藤吾さんを教えて?」

 思い出の交換。渡された藤吾は琥珀に何を渡せばいいか考えた。考えた末、琥珀の始まりには自らの始まりを伝える事がいいだろうと思い、藤吾は記憶の奥底にある始まりの記憶を掘り返す事にした。

 長くなってしまうかもと、ペンと紙を取ってこようとすると琥珀に止められた。

「どれだけ時間がかかっても大丈夫。藤吾さんの声で教えて欲しい」

 それを聞いて藤吾はゆっくりとポツポツと語り始める。琥珀はそれをじっと聞いた。


 藤吾も琥珀と同じく片親であった。違いと言えば藤吾に残ったのは父親であった。母親が何故いなくなったのか、ハッキリとした理由を藤吾の父は語ろうとしなかったが、泥酔して暴れた父が寝言で「あの馬鹿女逃げやがって」と呟いていたのを聞いて、恐らく母は自分を置いて父から逃げたのだと藤吾は思っている。

 藤吾は物心ついた時から父親の世話に追われていた。父親は仕事と家を行き来するだけの男で、家の事をしたり家族のためにお金を使う事はなかった。

 父の稼ぎはその殆どが酒とギャンブルに消えた。生活費の為にと自分で残した金にも手をつける事が多く、ご飯を満足に食べられる日はついぞ無かった。

 藤吾は幼少の身空で家事をすべてこなし、拙くはあったが生活費の遣り繰りまで自分でやっていた。しかし子供の朝知恵の家計は当然破綻し、うまくいっていても父親が酒とギャンブルに溶かしてしまうので極貧の生活を強いられた。

 結局父親と死に別れるまでこの生活が大きく変わることはなかった。藤吾には自分の人生を生きた経験がなかった。


 二人の思い出交換の時間は、とても長く重い時間が流れた。

 何度もたどたどしくつかえて言葉を途切らせながら、それでも藤吾は自分の言葉で話し終えた。

 琥珀も藤吾もお互いに言葉もなく夜空を眺めていた。二人とも輝く星月を見ていると心が落ち着いてきた。

「あの日藤吾さんに会えて良かった」

 琥珀はぽつりと呟いた。

「ぼ、僕も感謝してます。た、助けてもらいました」

 藤吾がそう返すと琥珀は首を横に振って言う。

「感謝するのは私の方、藤吾さんを助けたのだって私の自己満足だった。あの日の私を救うことになると思ったから」

 いつの間にか下を向いていた琥珀を、藤吾は心配そうな目で見つめた。

「私藤吾さんが元気になっていくのが凄く嬉しかった。でも同時に藤吾さんと向き合うのが少し怖くなった。藤吾さんの都合を考えずに私の過去を勝手に重ねちゃったから」

 大きな瞳に溜まる涙を何度も拭って話し続ける。

「理由を聞かれた時恥ずかしくて答えられなかった。自己満足ですって、言い訳のように思い付いた思い出交換も、私を知られるのが怖くなって逃げちゃった。藤吾さんを不安にさせちゃった。ごめんなさい」

 とうとう流れ出した琥珀の涙を、藤吾はさっと自分の服の袖で拭って、驚く琥珀の顔を一心に見つめて言った。

「それでも僕は感謝しています」

 流暢に出る言葉に藤吾自身が驚いたが続ける。

「僕は今、楽しいことも嬉しいことも全部教えてもらっています。琥珀さんに、老田さんに、かっちゃんに、村でよくしてくれる人達にです。この時間をくれたのは琥珀さんの自己満足です。僕はそれにお礼を言いたい」

 琥珀の手を握りしめ藤吾は強く言った。

「ありがとう琥珀さん。僕の方こそ会えてよかった。あなたの事をもっと知りたい、僕の思い出と交換してくれますか?」

 子供のように泣きじゃくる琥珀の手を握ったまま、藤吾の目からも涙が溢れた。お互いを救いあっていたことを二人はこの夜知り合うことができた。

 老田は二人から見えない所で、二人の会話とやり取りをこっそりと見ていた。やがて優しく微笑んだ後、気づかれないようにゆっくりと自室に戻るのだった。


 互いの心に触れた夜は明け、いつものように朝がやってきた。

 三人ともいつもと変わらない時間を過ごす。朝の雑事は皆で当番し、大体はつつがなく終わる。朝食も琥珀が瞬く間に作って食卓に並べていく、料理好きな性格もあるがその手際は見事なものである。

 今日は老田も琥珀も休日だった。

「藤吾、お前服が足りなくないか?」

 老田が藤吾に聞く、事実藤吾は必要最低限の服しか持っていなかった。相田から作業着を何着か貰っていたが、普段着る服は着まわし続けている。

「そう言えばそうだよね、買いに行く?」

 琥珀の提案を聞いて、老田は財布からお金を取り出して藤吾に渡した。

「え、あ、あの」

「遠慮せずこの金使って買ってこい。琥珀、あのでかいショッピングモールに連れてってやれ」

「いいね!行こう行こう!藤吾さんもいい?」

 藤吾がオロオロしているうちに琥珀が乗り気になってしまった。キラキラ顔を輝かせる琥珀を見たらもう断れない。

「よ、よ、よろしくお願いします」

 その言葉を聞いて「やった」と琥珀は飛び上がった。

「デートだね藤吾さん!」

 そう言っていたずらっぽく笑う琥珀に、藤吾は顔を真っ赤にして下を向くしかなかった。

 準備をしてくると自室に戻る琥珀、背中越しで顔は見えなかったが耳が真っ赤に染まっているのを老田は見逃さなかった。

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