第17話 エピローグ

「じゃあ、行ってくるよ」

 理久が手荷物検査の列の最後に足を向ける。

「理久。行っちゃだめ。行かないでよ」

「何だよ、美来。かわいすぎだろ。待ってろな。絶対有名になって帰ってくるから。浮気するんじゃないぞ」

 理久がボディースキャナーの前で振り返って大きく手を振っている。顔がアップになり口元が行ってきますと動いた。映像の光を受けて映画鑑賞をしている招待客たちの顔が闇の中に浮かび上がり、鼻をすする音が聞こえてくる。

 映画と分かっていても、美来は理久役の少年が背中を向けて歩き出した時、行かないでと叫びたくなった。

 

 理久がフランスに発ったのは5年前、永眠したのは3年前になる。

 爆弾が投げ込まれた店は、その日はたまたま休日で、付近を歩いていた人々が飛び散ったガラスで怪我をしたほか、店内でレシピの研究をしていた理久が犠牲になり、店内はブイヤベースやトマトソースなどが飛び散った悲惨な状態で、理久の遺体は日本に戻らなかった。

 その数日前に、アメリカやヨーロッパの主な国に対して、多発テロを起こそうとしていたグループが、何者かの密告によって捕まったと報道があったが、密告者がグループ内の少年と親しかった日本人の少年だと噂が広まり、レストランへの爆弾の投げ入れは報復テロだとか、ただの嫌がらせだとかいろいろな憶測が流れた。

 ニュースで理久の名前を見た時に、美来は自分の目が信じられなかった。

 人違いだと思いたくて、名前が間違っていると訂正された報道を探すために、チャンネルを梯子した。

 だが、訂正されるどころか、理久がテレビに出ていたことがすぐに浮上して、朝や昼のワイドショーには、理久が料理をしている姿が映し出され、ご冥福をお祈りしますと綴って、犠牲者が理久で間違いないことを美来に見せつけた。

 未来はだんだん食事を摂れなくなり、部屋に引きこもるようになった。

 台本を読む気力もなくなり、女優を止めたいという内容の謝罪の手紙を書いて、桧山と葉月に送った。

 高校生になり、少しずつ端役でテレビに出るようになった美来は、中学生時代にDes Canaillesのメンバーたちとテレビに出たというメディア上の記憶も新しく、繊細で透明な美しさが人々の関心を呼び、女優の卵として一躍注目を浴びるようになっていた。

 演技をするのは思いのほか楽しくて、美来は自分でもいろいろな作品を見て演技の研究をしたり、発声トレーニングや、人間観察をして、少しずつ演技を磨いていった。


 そんな時に理久の訃報を知ったのだ。女優になろうと思った最初の理由が、レストランを建設する資金を稼ぐためだったとはいえ、今では美来は本気で女優を目指しているつもりだった。でも演技をすれば、どうしても理久との約束を思い出す。台本は落ちた涙で何か所も丸くふやけて文字がにじみ、セリフは涙声になり、演技などできる状態ではなくなった。

 手紙を出した数日後、桧山プロデューサーと葉月が沙和子の家を訪ねてきた。美来のやせ衰えた姿にショックを受けた葉月が、美来の骨が浮き出た手の甲を撫で、震える自分の手を重ねた。

「美来ちゃん。こんなになって……元気を出せという方が無理よね。でも、少しでもいいから食べて…」

 美来は虚ろな目で、自分の手を包む葉月の手を見ていたが、葉月の声が掠れるのに気が付いて視線を上げ、何とか口元に笑みを浮かべた。

 そんな未来を見ていた桧山が、美来にあることを提案した。

「今、こんなことを言ったら、金の亡者だとか、人の死を利用する人非人だと罵られるかもしれない。でも、美来ちゃんをこのまま放っておけない。今度新しいドラマを予定しているんだが、ヒロインとして出てくれないか?」

「……ごめんなさい……もう、無理です」

「僕は理久君の夢を、このまま葬り去りたくないんだ。Des Canailles の料理番組の本物の映像を入れたドラマを作りたい。美来ちゃんはヒロイン役で、理久君の役は別のアイドルが演じるけれど、ラストは二人でレストランを持つハッピーエンドで終わらせるつもりだ。理久君と過ごした時間を映像に残したくはないかい?」

 未来の瞳に少し力が宿り、桧山の顔をじっと見つめた。

「もし、美来ちゃんが味覚障害だったことを公表してよければ、ガレットデロワを作った時の映像や裏話も入れるつもりだ。あの時に出演した全てのタレントや芸人が、宣伝に協力すると申し出たよ。もちろん葉月さんも大役を引き受けてくれた」

「私は美来ちゃんを励まして、パティシエに導く役らしいわ。新人がヒロインを演じるドラマの端役なんて、普段は引き受けたりしないのよ。でも、私も理久の思い出を消したくないの。理久をドラマの中に生き返らせてやって。お願い!」

 美来の唇が震え始めた。理久を生かすために演じるということは、理久がいなくなったということを確認することになる。ぎゅっと瞑った美来の目から涙が押し出されて頬に伝わった。


 理久は料理の才能だけでなく、会った人を魅了するタレント性があったのだと今更ながらに思う。美来だけでなく、敏腕プロデューサーの桧山や、大物女優の葉月までもが、理久を必要として惜しんでいるのに、どうして死んでしまったのかと叫びたくなる。

 大人の彼らは割り切って、理久を思い出にするための方法を提示しているのに、私はまだ迷っている。意味もなく理久の名前を呼んで過ごしても、理久はもう帰って来ないと分かっているのに、それでも美来は心の中で、理久がどこかに生きていると信じていたいのだ。

 理久は言っていた。自分はシェフになることしか考えられないと。フレンチの本場で修業をして実績をあげるのと、日本だけで料理を学んだのとでは評価が違ってくると、自分の将来を見据えていた。

『日本から引き抜きの話がくるぐらいに有名なシェフになって、スポンサー付きで凱旋してやろうって思ってる』

 理久の言葉がまざまざと美来の胸に甦った。美来が有名女優になることを想定して、美来に養ってもらうつもりはなく、自分が美来を幸せにしたいと理久は言い切った。大人びたことを言った直後、美来が手の届かないところにいってしまうのではないかと焦って、美来が大人になる前に実力をつけたいともがく姿を晒して美来を動揺させた。どんな理久も愛おしくて、その姿を甦らせよみがえらせたいと心から思う。

 現実では、理久の言った言葉はどれももう叶わないけれど、ドラマなら、シェフになるという願いを叶えてあげることができる。美来は自分の弱さに打ち勝って、理久の願いを叶えようと決意した。

「桧山プロデューサー、葉月さん。…よろしくお願いします。理久を……生き返らせてやってください」

「よく言った。美来ちゃん。偉いぞ。最高のものを作ると約束する」

「ヒロインをやるんだから、ちゃんと食べて体重を戻すのよ。分かった?」

 深く頷いた美来は、二人の思いやりに心から感謝するのと同時に、あの時の番組のように編集で助けてもらうのではなく、理久への思いを全てドラマにぶつけて、視聴者の心にずっと理久が生き続けられるような演技をしたいと心に決めた。

 

 ドラマはDes Canaillesのメンバーたちからの話の聞き取りから始まり、季節ごとの美しい背景を撮るために約二年をかけて作成された。

 最初は、ドラマにのめりこみ過ぎてつい力が入り、だめだしを何度も食らってしまった美来だが、表情や表現の作り方を熱心に勉強し、葉月にもアドバイスをもらい、どこで見せ場を作るのか、どこで力を抜くのかを身に着けていき、結果的に美来を女優としても開花させる作品になった。

 また、ドラマ中で演じた味覚障害が、現在は改善されたものの、以前は全く味を感じなかったと発表したことから、週刊誌の記者によって聞き込みがなされ、虐待による味覚障害ではないかとすっぱ抜かれた。困難を乗り越えた美来は、現代のヘレン・ケラーとして称賛され、雑誌で次々に特集を組まれたことも大きな宣伝となり、読者のドラマに対する関心を高めていった。

 美来の演技力に加え、本当は理久が亡くなっていると知っている視聴者は、理久がまるで生きていて、いまでも夢を追い続けているような番組に感動して、視聴率は空前絶後のものになった。

 そして、美来が18歳の時に映画が製作される運びになり、あれよあれよという間に撮影が始まり、一年後の今、プレミアム試写会が催されることとなった。

 スクリーン上には、理久が、美来を驚かせるために、フランスから内緒で帰ってきた映像が流れていて、驚いた美来の顔がだんだん喜びに輝き、涙ぐみながら理久を抱きしめるシーンが映し出される。演じている時に、これが本当ならどんなに良かったかと思ってしまい、自然に涙が込み上げたことを、美来は思い出していた。

 スクリーンの中、新しく開いたレストランで、コックコートを身に着けて、理久が生きて笑って、料理をしている。美来はこの作品が天国の理久に届きますようにと願った。


 試写会が終わったとき、他に見ている人を邪魔をしないようにと、気遣って堪えていた人々の泣き声があちこちから上がった。遅れたように拍手がまばらに聞こえ始めたのをきっかけに、感動から忘我の境地に達していた人々も我に返って一斉に手を叩き、拍手と歓声が生き物のようにうごめいて会場を覆っていった。

 やがて全ての人が映画館だというのに立ちあがり、止むことのない大きな拍手でもって、出演者へ称賛を送り、息を詰めて結果を見守っていた映画関係者らは大成功だと知ってホッと息をついた。

 拍手が鳴りやまない中、司会者が出てきて、人々に鑑賞の感謝を述べてから、映画についての話しを盛り上げる。美来も葉月も、他の俳優たちと一緒に、挨拶をするためにスクリーンの前に立った。

 途端に焚かれるフラッシュで、当たりが真っ白に発光したけれど、美来は目が眩みそうな光に耐えながら笑顔を浮かべ、渡されたマイクを持って話し始めた。

「自分で言うとおこがましいのですが、雑誌や他の方々からの評価では、私は現代のヘレン・ケラーに例えられるそうです。でも、ご存知でしょうか?ヘレン・ケラーは日本ではヘレンに脚光が浴びせられていますが、海外ではヘレンを助けたサリバン先生こそが主役なのです」

 会場から、知らなかったというざわめきが起きたのに対し、笑顔で頷いた美来が先を続けた。

「私が味覚障害だったのは周知の事実ですが、私を励まし、支えてくださる方々がいなければ、私の人生は未だに闇に包まれ、怒りと不満で救いようの無い日々を過ごしていたことでしょう。導いてくださった、桧山プロデューサー、女優の片桐葉月さん、そしてDes Canaillesの仲間と私の祖母に心から感謝いたします。マスコミや映画関係者の皆様、今日ここにおいでくださったファンの方々にも厚くお礼を申し上げます。最後に、天国の理久。あなたに会えてよかった。ずっとずっと、これからも、みんなの心の中で美味しいお料理を作り続けてください」

 一旦静まったはずのすすり泣きが、また会場から漏れた。葉月も他の俳優たちも、唇を震わせて目を潤ませていた。

 マスコミ関係者たちも、感動的な試写会だったと口をそろえて宣伝したので、後日一般公開を待ち望むファンの声が殺到することになった。


映画館の裏口から抜け出した美来は、用意されていた車に乗って、宿泊先のホテルに着いた。ドレスを脱いでシャワーを浴びているときに、桧山から連絡が入ったことを着信履歴で知り、急いでスマホからかけ直す。

「もしもし、桧山さん。今日はありがとうございました。連絡を頂いていたようですが……」

「ああ、美来ちゃん。お疲れ様。挨拶の言葉良かったよ。僕も感動した。そうだ、今日のプレミアム試写会にすごいV.I.Pが紛れこんでいたらしくて、美来ちゃんにぜひ会いたいとテレビ局に連絡が入ったんだ。名前を聞いたら腰を抜かすよ」

「ええっ⁉誰ですか?聞くのが怖い気がします」

「アメリカのジョージ・リバー映画監督を知っているかい?」

「もちろんです。どんなジャンルでも、彼にかかればヒット間違いないと言われている監督ですね。でも、まさか、その監督が……?」

「ああ。僕も驚いた。明後日、ワイドショーで彼の新作を宣伝するために来日したそうなんだ。あの場で名乗り出ると、話題をさらってしまうといけないと気を使って、変装して潜り込んでいたらしい。今から言う番号をメモしてかけてくれるかい?それと、これは極秘だそうだ」

 桧山との会話を終えた美来は、世界的に有名な監督が一体どんな用事があって連絡を取ってきたのだろうとあれこれと考えてしまい、なかなかメモした番号を押せないでいた。

 理久がフランスに留学したとき、その期間がどのくらい続くか分からなかったので、いつかは理久に会いにいくつもりで、美来は語学に力を入れた。

 ただ、学校の授業と女優の勉強を両立させなければならず、時間的にフランス語にまで手が回らなかったので、受験科目の英語を強化するためにも、空き時間は全て英語の文法と会話の習得のために継ぎこんだ。

 理久が亡くなった時に一旦中断したのだが、葉月から役の幅を広げるために続けなさいとアドバイスをもらって頑張ったので、今は普通会話くらいなら楽にこなせる自信がある。

 でも、いくら英語を喋れても、相手が、今まで自分と接点を持つなどと考えたこともない大物で、しかも事務所を通さず、極秘で直接コンタクトを取って欲しいと言われたら、下手なことを言って事務所に迷惑をかけたり、大切な話を聞き逃したらどうしようと不安になってしまう。

 何だろうと首を捻っても答えは出ないと諦めて、英語での簡単な挨拶や、色々なストーリー展開の受け答えを用意してから電話をかけると、美来が感じていた不安を吹き飛ばすほど、電話に出たジョージ・リバーは気さくで陽気な人物だった。


 明るい声で親し気に挨拶をされ、話しかけられているうちに、美来の緊張は解け、舌の動きも滑らかになっていった。

『君なら味覚障害の苦労を分かってもらえると思うけれど、私は酒の飲み過ぎで肝臓を壊してしまって、味覚がおかしいんだ。それで、専用のシェフに食欲が出て、栄養バランスの良いものを作ってもらっているんだが、彼の料理を食べると他で食べる気がしなくなってしまってね…。もし君の時間が空いているなら、明日私の別荘に来てもらえないか?ごちそうするよ』

『ええ、ありがとうございます。Mr.river.でも、なぜ私のような無名の女優に声をかけて頂いたんでしょうか?』

『ジョージでいいよ。私もミライと呼ぶからね。私のシェフがミライの熱心なファンで、君が出たドラマは欠かさず録画して見ているし、雑誌も日本から取り寄せているんだ。それで私も君に興味が湧いたのだが、丁度日本にいる間に試写会があると聞いて、裏から手を回してもらったんだ』

 美来の鼓動が早くなった。呼吸が乱れて言葉が上手く出てこないのを何とか繋ぐ。

『それは……光栄です。あの、シェフの方に…お礼を伝えて下さい。でも、監督から見たら私の演技は物足りなかったのでは?』

『試写会で見た君の演技は素晴らしかったよ。彼がファンになった気持ちがよく分かる。いずれ機会があれば、仕事を一緒にすることがあるかもしれないね。でも、今回は私のシェフにサプライズをプレゼントしたいんだ。どうかな?来てもらえればとても嬉しいのだが……」

『ええ、明日は予定を入れていないので、喜んでお伺いさせて頂きます。でも、そのシェフはどんな方なのでしょう?海外の方に知ってもらえるほど、私の女優歴は長くありません。ひょっとして日本の方でドラマを見られていたのでしょうか?』

『彼は日系アメリカ人で、年齢はミライより2年くらい年上だったかな。どうしてファンなのかは、会って、彼から聞いてやって欲しい』

『……そうですか。分かりました。楽しみにしています』

 時間を約束した後に電話を切って、美来は放心状態でベッドに寝転がった。

 シェフと聞いただけで、もしかすると理久ではないかと思ってしまった自分を、愚かだと罵りたくなる。理久はもういないと頭では分かっていても、心が納得していないのだ。

 理久からは、フランスで日系アメリカ人の友人ができたとは聞いていなかったから、たまたまドラマを見てファンになっただけなのだろう。

「もう、いい加減、期待するのをやめなくちゃ…。辛くなるだけだもん」

 人生は何が起きるか分からない。良いことも悪いことも、望んでいなくても運命の波にあっという間に飲み込まれてしまう。

 以前は溺れかけたけれど、周りから差し出される手に助けられ、拙くても泳ぎ方を覚えたのだ。今は、どんなに辛くても、流されるままになるのも、諦めて沈むことも、もうしたくない。理久の思い出に縋りつくのは、もうやめよう。

 信念を持って、たった十四歳で海外に渡った理久の生き方に恥じないように、私も自分を強く保って、前を向いて生きていかなければ……。未来は迷いを振り払うように瞬きをして、潤んだ目の涙を散らせた。


 次の朝、ホテルのフロントで十時頃チェックアウトを済ませると、ジョージが手配したハイヤーに乗り、一時間半ほどでジョージに教えられた別荘の前に到着した。

 海を一望できる高台に建てられた別荘は、ジョージの友人のものらしく、日本でゆっくりできるときは、ここを利用させてもらっていると電話で聞いた通り、表札は日本名だった。

 インターフォンを押そうと思った時、ハイヤーの音を聞きつけたジョージが玄関を開け、ミライいらっしゃいと両手を広げたので、美来も迷わずにハグに応じる。世界に名を馳せる大監督というより、親戚のおじさんのように感じて美来は気が楽になった。

 お土産のフルーツゼリーをジョージに渡し、案内されるままに靴を脱いで、スリッパに履き替えて中に進む。廊下の先のドアが開くと、南側全面が窓になっている向こうに、空と海が広がっていて、美来は素晴らしい解放感を感じて大きく息を吸った。

『何て素敵な眺め。ゆっくりするのに最適な場所ですね』

『そうなんだ。朝焼けや、夕焼けの美しさを見て、作品へのインスピレーションが湧くこともあるよ。ダイニングテーブルで食の前酒でもどうだい?ミライのファンを紹介するよ』

 リビングのすぐ横にあるのガラス張りの引き戸を開けて中に入ると、大きな一枚板のテーブルが置かれ、奥のキッチンにシェフコートを着た男性が背中を向けてグラスを用意しているのが見える。

 その姿を目に入れた途端に、身長や肩幅も理久とは違うと内心がっかりしている自分に気が付いて、美来はしっかりしなさいと心の中で自分を叱った。

 もう、期待はしないでおこうと昨日自分に言い聞かせたばかりなのに、それでも、青年の顔が理久に似ていることを願ってしまう。

『今日のお客さんを連れてきたよ』

 ジョージの声に、アペリティフを用意していた青年がこちらを振り向いた。

 目の形も色も理久とは違う。当然だ!美来は気持ちを紛らわせるために、青年に笑顔を向けると、驚きすぎて目を見張って固まっていた青年が、眩しいものを見るようにヘーゼルカラーの目を眇めて、美来を見つめ返した。

『私のシェフのRickリック Yamaseだよ。リック、ミライを連れてきたぞ。本物に会えた感想は?』

『余計なことを……』

 聞き取れるか、聞き取れないかくらいの小さな声でリックが呟くのを聞いてしまい、美来が、聞き間違いかとリックを凝視する。慌ててリックが目を逸らすのを見て、美来はここに来るための葛藤や、相手を喜ばせようとしていた気持ちが、全て潰されてしまったように感じて、心がひんやりと冷たくなった。


  ところが、リックは、本音を美来に聞かれたのを知っているはずなのに、すぐに顔を作り、満面の笑顔をジョージに向ける。

『幸せ過ぎて上手く言えないよ!ジョージ、長年の夢を叶えてくれてありがとう。美来、初めまして。お会いできてうれしいです。映像で見るよりも何倍もきれいで、見とれてしまいました』

『……初めまして。今日はお料理を楽しみにして来ました』

 美来は挨拶を返しながらも、この男性は、二重人格なのだろうかと不快になった。

 挨拶をし終えたリックは、ジョージから聞いていたような、熱心な美来のファンだという素振りも見せないばかりか、態度を硬化させたように感じる。そのかたくなすぎる様子を眺めているうちに、美来の中で何かが引っかかって、疑いへと形を変えていった。

 身長や肩幅は十四歳から五年も経てば大きく成長するはずだ。名前はRickと理久ではRとLの発音が違うけれど、とても似ている。

 それに私は女優としてのキャリアは短いのに、リックは長年の夢だと言った。どうしてだと疑問を抱くのはおかしいだろうか?これも理久が生きていて欲しいと思うばかりに出た妄想やこじつけだろうか?

 頭の中に次々湧いてくる疑問に考えを巡らせながら、眉をひそめる美来に、リックが席と食前酒を勧める。

『リックはいつからジョージのところで働き始めたのですか?とてもお若いのに有名な映画監督のシェフを務められるなんて、とても美味しいお料理を作られるのでしょうね。どこかで修業をされていたのですか』

『……ジョージのところでは四年前から務めています。それ以前はアメリカの料理学校で修業をしていました』

 リックと美来のやり取りを聞いていたジョージが、付け足しをした。

『料理学校で修業をしていたのに、いきなり私のところでシェフはおかしいと思っているだろ?実はね、知り合いの連邦政府の高官から、内緒で預かって欲しいと…』

 ダンと音を立てて、リックが小前菜アミューズの皿をテーブルに置いたことに、ジョージが大げさに驚きながら、おお怖いと肩を竦めた。

 隠そうとするところを見ると、リックは理久ではなく、ひょっとして犯罪者か何かだろうかという考えが美来の頭をかすめたが、それなら政府関係者から話が来るはずもないと考え直す。犯罪者の更生のためではないとしたら……。

 美来の頭を、ふとある映画のストーリーがかすめた。


『私は今、ある映画に興味を持っているのですが、ジョージはそのテーマを撮られるご予定はありますか?』

『何だね?若くて綺麗なお嬢さんが夢見るのは、ラブストーリーかな?』

『いえ、証人保護プログラムです』

 キッチンで盛り付けをしていたリックの丸まった背中がピクリと動いたのを、美来は見逃さなかった。

『アメリカでは、犯罪組織などの罪を証言する人の命を守るために、新しい名前とIDナンバー、場合によっては住む場所を用意すると聞いたことがあります。ジョージなら顔が広いですし、そういう人をご存知ではありませんか?』

『頭のいいお嬢さんは大好きだから、答えてあげたいけれど、そういう知り合いはいたかなぁ?リック、君は思い当たる人がいるかい?』

『いませんね。例え周りにいたとしても、その人は自分がそうだとは名乗らないでしょう。犯罪組織に報復されるのは、本人だけとは限りません。自分が一番大切にしている人を守るためなら一生違う人生を生きるはずです』

 リックはそういうと、ジョージと美来から背を向けた。その背中が小刻みに震えているのを目にした美来は、込み上げる嗚咽を堪えるために唇をかんだ。

『顔も…顔まで変えなくては、いけないのでしょうか?目の色は?……そんな危険な状況をたった一人で耐えなくっちゃいけないの?理久』

『……』

 机の端を手が白くなるまで握りながら、振り向かないリックに身を乗り出して訴える美来をジョージが宥めた。

『一般論から言うとね、顔が露出してしまった者は変えた方が安全なんだ。一部を変えるだけでかなり印象が変わるしね。それと、リックは一人じゃないよ。表には出られないけれど、私と妻は、リックをわが子のように思っているから、安心してくれ』

『それでも、理久は自分の夢を諦めて、隠れるように生きていかないといけないんですよね?監督に何かあったら、理久はどうなるんでしょうか?』

 美来の話が聞こえないとでもいうように、リックがカニとエビで出汁を取ったジュレの前菜をテーブルに置き、淡々と説明を終えると、迷惑そうな目を美来に向けた。

『あなたは勘違いしているんだ。俺は理久じゃない。Rickだよ。女優はすぐに空想の世界の役になりきれるのかもしれないけれど、俺はそういうのはごめんだ。本人に会わなければよかったと少し残念に思うよ』

『それでも……、あなたが、自分をリックというなら、それでもいい。生きていてくれたなら、それだけでいい。でも、もし、できるなら、もう一度私とつきあって』

 美来の言葉を苦しそうに聞いていたリックが、コックコートを脱ぎ始めた。何をすると言いたげに見つめるジョージに、リックが怒りの目を向ける。

『俺がどんな思いをして、今まできたか……。知り合っちゃいけないのに、こんなことをして!ジョージ、俺はアメリカに帰る!後は自分でオーブンの様子をみてくれ。二十分後に焼きあがるから、ソースパンに用意したソースをかけて食べてくれ』

『リック、仕事を放棄したら君はくびだよ。紹介状も書かないから、功績のない君がシェフとして雇ってもらえるとは思えない。人生を投げ出すんじゃない。君を真剣に思ってくれる人から逃げるんじゃない。君は十分苦しんできた。受け止めてくれる人を持ちなさい』

 リックはそれでも首を振りながら、オーブンを指した。

『火であぶられる苦しみがあなたに分かるか?ちょうど屈んだ時だったから直接爆弾を受けずに済んだが、あっという間に、店全体が火の海になった。俺を護っていた警護の奴が助けてくれなかったら、俺は本当に死んでいた。もし、報復の手が美来に伸びて、あんな思いをさせることになったら、俺はあの時、死んでしまえばよかったと思うだろう』

 リックはコックコートを床に投げ捨てると、ガラス戸を開けてリビングに行こうとした。

 美来は席を立って走って行き、その背中に飛びついた。半袖シャツからはケロイドが少し覗いている。どんなに熱くて痛かっただろうと思うと、恐ろしさで力が抜けそうになったが、美来は火傷の痕から目を逸らさず、必死で縋りついていた。

「理久、行っちゃだめ。行かないで!今でも、空港で別れた時のことを夢に見るの。行かせなければよかった。あの時無理やり引き留めていたら、理久は生きていたのにって、ずっと、ずっと後悔していたの。今度は行かせない。行かないで」

 美来の手を引きはがそうとしていた理久の手が弱まり、背中からくぐもった泣き声が聞こえた。それでもだめだと首を振る理久を抱きしめながら、美来はジョージに顔を向けた。

『理久が逃げても、私は追いかける。ジョージ。お願い。大学を出たら私を栄養管理士として雇ってください。理久と一緒に働きたいの』

『女優をやめるのかい?そんなに簡単に捨てられるものなのか?』

『簡単じゃないわ!作り物の世界でも演じることは、私の生きがいだった。女優を止めると考えるだけでこんなに辛いのに、理久は本当の人生を私のために捨てたのよ。だから、今度は私が理久のために生きたいの!』

 理久が、背中から前に回された美来の手を解いて、身体を反転させると、美来を抱きしめた。

 覆いかぶさるように抱きしめる理久の後ろに広がる青空を見上げながら、美来は心が留まっていたおりから解放され、再び理久へと繋がることができた喜びと高揚感に身を震わせた。

「理久。おかえりなさい」

「ただ…いま。…ずっと、ずっと……会いたかった。美来に……会いたかった」

 もう離れまいとするように、腕に力を込める理久を抱き返しながら、美来は、窓枠に収まった青空が、まるでスクリーンのようだとふと思った。そして、四角いスクリーンの中に閉じ込められたDes Canaillesの季節が、再び息吹くのを感じていた。

 






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切り取られた季節 マスカレード @Masquerade

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