第15話 発覚 2-2

 それを見つめる美来と渚紗の頭の中も真っ白になり、動けなくなった。

 イヤホンから続けて!と番組ディレクターの河島の声が聞こえ、間髪を入れずに司会者が実況中継を始める。


「お~っと、キッチンでアクシデントがあったようです。みんな大丈夫?怪我は無いかな?」


 カメラが近づいてきて、美来、渚紗、幸樹の三人がオロオロしながら頷くのを映した後、床の惨状にレンズを向ける。小物係が砂糖と塩を他のスタジオに取りに行き、フロアスタッフが床の掃除を軽く済ませる間、渚紗がごめんと繰り返して泣きそうになった。


「いや、僕が渚紗にぶつかったからいけないんだ。二人とも大丈夫?痛くなかったか?」


「うん。私は大丈夫。でも、王冠と調味料が落ちる瞬間を思い出すとパニックになりそう。美来も本当に大丈夫?」


「怪我はないけれど、私も驚きすぎて、まだドキドキする」


 三人の会話を聞いた理久が、手を休めて傍にやって来くると、渚紗と幸樹の肩に手をかけ床を覗き込む。


「やってくれたな~。Des Canaillesいたずらっ子達のキッチンそのものじゃん。俺もなんか面白いことをやろうかな。例えば、肉を空中へ放り投げて、フライパンでキャッチするはずが落としちゃったとか、ってどう思う?」


 てっきり注意されるものと思っていた三人は、ノンビリした口調で理久がとんでもないことを言ったので、肉を受けそこなった理久の顔と、大人たちが慌てふためく様子を想像して、堪らずに噴き出した。


「本気でやりそうで、怖いよ」

 

 幸樹が肩を竦めながら言うと、渚紗が笑いながらコントにしないでねと付け加える。渚紗の顔に笑顔が戻ったのを見て、美来がほっと胸を撫でおろしたとき、理久が王冠を持った美来の手を取って広げさせた。


「突き指とかしてないか?無理するなよ」


「うん。ありがとう。理久。さっきは、本当にびっくりした。どうしようかと思ったけれど、幸樹がフェーヴを守ってくれたから、何とかなりそう」


「幸樹ありがとうな。渚紗もびっくりしたと思うけれど、平常心で最後まで頑張ろうぜ。いつも通りの手順を踏めば、俺にできないことはない」


 何で、そこで俺たちって言わないんだと理久を責める三人は、いつもの仲間のリズムを取り戻し、気持ちに余裕が生まれていた。

 理久の言葉は、気が動転していた三人に今やるべきことを思い出させた。

 ただでさえ通常と違うテレビ撮影であがりがちなのに、このアクシデントで余計に拍車がかかり、パニックを起こしかけたみんなの気持ちを、理久が笑いに包んで静めていった。


 やっぱり理久はすごいと美来は感嘆した。理久の足を引っ張らないよう、頑張らなければと自分を鼓舞する。

 昨日せっかく心を込めて下ごしらえをした生地を、無駄にするなんてもったいない。美味しい物を作って、葉月さんに認めてもらって、理久の夢を叶えるんだ。

 みんなが頑張ろうと言いあって手を握った時、スタッフが二つずつ砂糖と塩の調味料入れを持ってきて、台の上に置いた。それを機に四人は再び持ち場に分かれていった。


 王冠とティディーベアを、調理台の空いたスペースに置いた美来は、そこに置いてあった箇条書きのチェックシートを確認して、アクシデントが起きる前に、ガレットデロワの中身のアーモンドクリームに混ぜ合わせるカスタードクリームの材料を取りに行ったことを思い出した。


 理久のおかげで、すぐに気持ちを切り替えられた美来は、続きの作業を再開させるために中央の材料台へと戻っていき、バニラビーンズ、卵、牛乳、コンスターチと砂糖を揃えていく。ところが砂糖を手にしようとした美来は、二つの調味料入れの前で戸惑ってしまった。


 先ほどひっくり返してしまった調味入れはシンプルな木製模様のプラスチックだったが、今目の前に置いてあるのは、東南アジア風の色彩豊かな陶器だった。表記もどこの国の言葉かは分からないが、【gula】と【garam】と書いてある。

 どっちが砂糖でどっちが塩だろうと困った美来は、カメラに映っていないのを確認してから、小物入れを持ってきた係の注意を引くために手を上げて振った。すると司会者がめざとくそれを見つけ、美来にどうしたのかを聞いたので、仕方なく訳を話すと、その調味入れは司会者のインドネシア土産だったらしく、【gula】が砂糖で、【garam】が塩だと教えてくれた。


「美来ちゃん、綺麗な柄だと思わない? 桧山プロデューサーに渡そうと思って、テレビ局宛てに現地から送ったんだけれど、せっかく選んだのに趣味じゃないんだって。それでここで使うことになったんだ」


 ライトが点いていないスタジオの暗闇から、マイクを通さない桧山の声があがった。


「僕の家はモダンテイストなんだよ!調味料入れだけカラフルじゃ合わないの!」


 スタジオ内からどっと笑いが起きる。美来も思わず笑顔になり、司会者にお礼を言ってから【gula】の方を手に取った。

 持ち場に戻ってカスタードクリームを作りだすと、小物係のアシスタント女性が慌ててチーフに近づき、口を隠しながら何かを言っているのが見えた。チーフが慌てて河島ディレクターの元に走っていく。嫌な予感が美来の胸を駆け巡った時に、河島ディレクターの声がイヤホン越しに響いた。


「美来ちゃん、渚紗ちゃん。アシスタントが砂糖と塩を入れ間違えたかもしれないと言うんだ。カメラをそちらに向けないようにするから、中身を舐めて確かめて」


 思わず幸樹の方を見てしまった美来は、幸樹が自らの胸を指してから、中央の台に置かれた【garam】の入れ物を指し、続いて指を舐める仕草をしたので、助かったとばかりに、両手を合わせてお願いのポーズをとった。


 美来がホッとしたのもつかの間、理久が怪訝そうな顔をしてこちらを見ているのに気が付いた。やばいと思った瞬間、歩きだした幸樹を理久が止める。


「何で幸樹がそんなことするんだ?別に両方舐めなくったって、美来が自分のを確かめれば済むことだろ?」


「そうよ、幸樹。美来にはいつもめっちゃ甘いんだから。やいちゃうぞ」

 渚紗が冗談めかして幸樹を突っつくと、幸樹が困ったように笑って言った。


「いや、僕たちの調味料も調べようと思っていたから、ついでに美来の分も確かめようと思ったんだよ。じゃあ、渚紗が僕たちのを調べてきてくれるかい?」


「いいわよ。ちょっと待っていてね」


 幸樹に頼まれた渚紗は、ご機嫌な様子で中央の台に駆けて行き、【garam

】の方の蓋をあけて、中に入っていた匙から手の上に白い粉を落とし、舌の先でチョロっと舐めた。


「しょっぱい!間違いなくお塩だわ。書いてある通りよ。美来も舐めてみたら?」


「うん」


 本当は美来の分も確かめて欲しかったのだが、渚紗が蓋を元通りに閉めて持ち場に戻ったため、美来も一応【gula】の中身を手に載せて舐めてみた。


「二人とも、中身は確認できたかな? カメラを向けるから、引き続き頼むね」

 はい、と渚紗と美来が返事をすると、ランプのついたカメラが、こちらを向いた。

 美来は【gula】の陶器から、大さじで量った砂糖をボールに入れ、混ぜ合わせてカスタードクリームを作ると、アーモンドクリームの方にも三十五gの砂糖を入れて混ぜた。そして、二つのクリームを混ぜ合わせ、ガレットデロワに入れるクリームダマンド(アーモンドクリーム)を完成させた。


 作業中に、冷凍庫で冷やしていたパイ生地を、途中で冷蔵庫に移し替えたが、そのパイ生地を持ってきて、麵棒で伸ばして型を使って丸くカットする。絞り出し袋に入れたアーモンドクリームを渦巻き状にパイ生地の上に絞っていき、ラッキーアイテムのフェーヴをクリームの中に埋め込んだ。それから、もう一枚の円形のパイ生地を、二枚の生地の間に空気が入らないようにクリームの上から注意深くかぶせ、クリームが出てこないように縁を押しつぶしていった。 


「美来ちゃん、フェーヴの場所の目印を忘れないで」


 美来のパイケーキの進行を、モニターでチェックしていたらしい桧山が、イヤホンを通して話しかけてきたので、美来は大丈夫だと頷いて見せた。

 フェーヴの位置が分かるようにして欲しいと、桧山に電話で頼まれた時に、美来はドライフルーツを飾ると伝えてしまったが、レシピ本を見るとガレットデロワは二種類あって、ドライフルーツを飾るのは南フランスの場合のもので、ブリオッシュ生地だと言うことが分かった。


 美来が焼きたかったのはパイ生地なので、フェーヴを入れた箇所のケーキの縁の裏に、目印のアーモンドスライスを貼り付け、端が表に少し覗くように工夫した。焼きあがった後、切り分けてから外せば、細工したことがばれる心配はない。

 パイ生地の表面に卵の黄身をたっぷりと塗り、月桂樹の葉の模様を描いてから、オーブンに入れてホッと一息ついた。


 ステージでは、ゲストたちが理久の料理に舌鼓を打ちながら、美味しい! これはイケるなどと感嘆する声で溢れている。きっと中学生がこれほど本格的で、美味しいフレンチを作るとは考えてもみなかったのだろう。

 理久を気に入っている葉月も、料理を食べながら満面の笑みを浮かべている。

 自分のレストランを持ちたいという理久の夢が、一歩現実に近づいたのだと思うと、美来の心も弾んだ。


 料理の待ち時間には、ゲスト席の後ろのスクリーンに、先に撮ってあったゲストたちの芸や、クエストに挑戦した様子が映し出される。出演者の失敗をみんなでからかったり、笑ったりとスタジオ内は大盛り上がりを見せている。


 美来は使った道具の後片付けを済ませると、昨日作って冷蔵庫にいれておいたシロップを取り出して調理台の上に置いた。焼きあがた後の準備も済ませた美来が、理久に手伝いがいるかどうかを尋ねる。


「こっちはいいよ。美来は一人で頑張っていたんだから、少し休んでいろよ。あっ、バターのいい香りがする。これは旨そうな匂いだな。今度俺にも作ってくれよな」


「うん。中に入れるフェーヴは、レストランかシェフの人形にしなくちゃね」


「それはいいな。楽しみにしてるよ」


 美来はポケットからハンカチを出して手を伸ばすと、理久の額にうっすらと浮いた汗を拭いた。中学校の制服と違って、真っ白なコックコートを着ている理久は大人びて見える。じっと美来を見つめ返す瞳にもドキドキしてしまい、美来は慌ててポケットにハンカチをしまうと、じゃあ、頑張ってと告げて自分の持ち場に戻った。


 ガレットデロワをオーブンに入れてから、四十五分ほど経つと、パイ生地が膨らんで、表面に包丁の刃の裏で描いた月桂樹の絵がきれいに浮かび上がった。

 一旦オーブンから取り出して、シロップを均等に塗ると、ケーキの上にシロップが膜を張り、美しい艶が出る。ケーキを伝って鉄板の上に垂れたシロップがジュッという音を立てながら、踊るように跳ねた。


 もう三分ほどオーブンで焼いて出来上がったガレットデロワを絵皿に移し、目印のスライスアーモンドをつけた部分を皿の絵の分かりやすい部分に回転させてから、アーモンドを取り外す。調理を終えた理久たちが、美来の周りに集まって、うわっ、美味しそうと歓声を上げた。


 カメラが寄って来る気配がしたので、美来はケーキの上に王冠をかぶせてから退くと、ゲストの後ろのスクリーンに、艶々と飴色に輝く美しい月桂樹の模様と、イミテーションの宝石をはめ込んだ豪華な王冠が映し出された。


 ゲスト席からも、これは美味しそうと声があがり、お笑い芸人たちが手を叩きながら、カーット、カーットと、ケーキカットコールを始めたので、みんなが合わせて手拍子を打ち、期待感を盛り上げる。背後のコールに負けないように、司会者が大きな声で美来を呼んだ。


「美来ちゃん、ここでケーキカットしてもらってもいいですか?理久君も手伝ってあげて」


 大きなトレイにケーキ皿を載せて、理久と美来が壇上へと上がり、用意されていた机に載せると、司会者がガレットデロワが一月六日の公現祭に食べられる特別なケーキだということを説明してから、美来に質問をした。


「美来ちゃん、このケーキにはある秘密があるんですよね?それを説明してもらえますか?」


「はい。えっと、この中にはフェーヴと呼ばれる陶器の人形が隠されています。フェーヴはソラマメの意味で、昔はケーキにソラマメを入れて焼いたので名前だけが残りました。それを引き当てた人は、一年間幸運に恵まれると言われていて、このケーキの上に載っている王冠をかぶってみんなにお祝いをしてもらうんです。みなさんも、お祝いの準備をお願いします」


「美来ちゃん、しっかりしてますね。話も聞き取りやすいし、きれいだし、お菓子作りも上手だし……って褒めてるうちから、理久君が嬉しそうな顔になっていくのが焼けますね。二人でケーキカットする?」


 美来が赤くなってもじもじするのに、理久は大いに乗り気で、すでにケーキナイフに手を伸ばして美来を呼ぶ。美来の手を取ってナイフを握らせ、その上に大きな手を重ねた。


 ケーキナイフがガレットデロワに入り、パリッとパイの層が割れる音がして、香ばしい小麦とバターの香りが辺り一面に漂う。

 かわいいカップルのケーキカットにヤジが飛び、理久が照れ笑いを浮かべながら片手を振って応えると、女性陣から理久君も食べた~いと声が上がった。


 必死で笑いを堪えている美来に理久が顔を寄せて、このケーキカットが本番だったらいいのになと囁く。驚いた美来が、思わず見上げた理久の顔には、何とも言えないはにかんだ表情が浮かんでいて、美来は胸の奥に、喜びとも期待とも区別がつかないような、ムズムズする情動が沸き起こるのを感じた。


 本当にこれが本物のウェディングのシーンなら、どんなに素敵だろうとは思う。でも、まだ自分たちは幼過ぎて、十年以上先の夢なんかには、遠すぎて手が届かないように感じる。それに加え、理久の料理の才能と、自分の味覚障害を照らし合わせて考えれば、希望を持つこと自体に無理があるだろう。


 でも、もし、葉月がこのケーキを気に入ってくれて、おいしいと言ってくれたら、きっと将来も理久が横に立ってくれるような気がする。何の根拠もない願をガレットデロワにかけて、美来はフェーヴの入った一切れを小皿に載せて理久に渡した。

 その小皿を、理久が葉月のところに持っていき、テーブルの上に置く。


「理久ありがとう。料理美味しかったわよ。将来はお父さんに並ぶ名シェフね」


「並ぶんじゃなくて、追い抜かしますよ。楽しみにしていてください」


「フフッ……。あら、まだこのケーキを食べてからじゃないと結果が出ないわよ。匂いと見た目は合格だけれど、私の採点は厳しいから覚悟していて」


 アシスタントがケーキをみんなに配り終え、理久と美来は司会者と並んで、ケーキにフォークが入る瞬間を待った。


「はい、では、みなさんどうぞ召し上がってください。さて、幸運を呼ぶフェーヴの入ったケーキは誰に渡ったのでしょうか?あっ、葉月さんが手を上げています。もう見つかりましたか?富士山の旗といい、今日はつきまくりですね。カメラさん葉月さんのお皿を映してください」


 ガレットデロワから取り出したティディベアを、葉月が親指と人差し指でつまんでカメラに向ける。ゲスト席の後ろのスクリーンに、司会者がおめでとうと声をかけながら葉月の頭上に王冠を飾る様子が大写しになった。周囲が拍手をしながら葉月のラッキーを祝っている。


「では、一番最初に葉月さんにケーキを一口食べて感想を言ってもらいましょう」


 司会者の言葉に葉月が頷いて、一口大に切ったケーキをフォークに載せて口の中に運ぶ。


「うん。サクッとしてバターの香りが口の中に広がって……」


 急に葉月が顔をしかめて、カメラに向かって手でバツ印をすると、テーブルの上に置いてあったナプキンを取り、顔を背けてガレットデロワを吐き出した。

 何が起こったか分からずに、全員が動きを止めている。

 美来の心臓が嫌な弾み方をして身体が強張る一方で、頭だけは素早く回転する。

 ひょっとしてフェーヴが割れていて、欠片を口に入れたのではないかと心配になった。


 葉月が水を飲んで口を拭い、フーッと息を吐くと、突然イスをガタンと乱暴に引いて立ち上がり、美来の傍に大股で歩いてくる。


「あなたね、これは私への仕返しのつもり? いくら私がきついこと言ったからって、番組を台無しにしようとしたのなら許さないわよ!」


 葉月の剣幕に美来はたじたじとなったが、レシピ通りに作ったものが、吐き出すほどの味になるとは思えない。唯一あるとしたら……ふと頭をかすめたことが、美来の胸を圧迫した、


「そんなつもりはありません。わざとでは……ないです」


「白を切るつもり? こんなに侮辱されたのは初めてだわ。あなた私に言ったわよね? 自分だけ苦労していると思うなって……こんな子供だましみたいな嫌がらせをして、大人を遣り込めたつもりになっているわけ? どんなにひどい味がするか自分で食べてみなさいよ」


 桧山プロデューサーが飛んできて、葉月を落ち着かせようとするが、葉月は怒りがおさまらず、桧山に何て子を紹介してくれたんだと怒り狂っている。

 葉月のマネージャーが、葉月をこの場から連れ出そうとして、次の収録の時間が迫っていることを告げに来たが、それを無視して葉月が食べなさいよと顔を真っ赤にしながら、皿を指した。


 自分が思っていることと、葉月が怒った理由が同じかどうかは分からないが、今は味が分からないと言葉にしても、騙しているとしか思われないだろうと美来は腹をくくった。理久が不安そうに美来を見るのが目の端に映る。理久にこんな形で知られたくなかったと絶望的な気持ちになりながら、美来がテーブルに震える指を伸ばして、皿からひとかけらを摘まんで口に入れた。サクサクした生地の中からしっとりしたクリームがはみ出し、何層にも浮き上がったパイ生地は唾液に湿らされて潰れ、溶けるように小さくなっただけだった。


 その様子に目を見張った葉月が、口元に当てた手の下で、信じられないと呟いた。

 理久もじっとしていられずに、美来の横から手を伸ばして、パイをちぎって口の中に入れたが、葉月と同じようにうっと呻いて、隣の席のナプキンに手を伸ばして、口の中のものを出して丸めた。


「どうして?……なんで美来はこんな辛いものを食べられるんだ?」


 壇の上の様子を見守っていた幸樹が、作業台に走っていって、美来の使っていた【gula砂糖】の入れ物の蓋をあけ、指ですくって舌先で舐めると、くしゃっと顔をしかめた。


「塩だ!こっちのポットは中身が違っている」


 幸樹の言葉に渚紗が嘘と呟き、美来に驚いた顔を向ける。


「だって、美来、中身を確かめたよね? なんでそのまま使ったの?」


 スタジオ中がシーンと静まり返った。みんなの視線が美来に突き刺さる。一番痛いのは理久の視線だ。理久の夢を叶えたいと思いながら、撮影をめちゃくちゃにしてしまった。

 理久のお荷物にしかならない理由をみんなの前で言わなくてはならないなんて、今すぐ消えてしまえたらどんなにいいだろう。美来はまともに理久の顔をみることができずに俯くと、声を絞り出した。


「ごめんなさい。ご迷惑をおかけしました。私のせいです。私は……味覚障害です。虐待を受けて、食べ物の味が……分からなくなりました」


 その場に居合わせた全員がはっと息を飲み、理久がショックで考えがまとまらないままに口を開く。


「何で?……どうしてそんな大切なことを俺に……」


 どうして教えてくれなかったんだと、理久が苦し気な表情で美来を見つめる。


「ごめんね理久。言おうと思ったの。でもこの番組に出たら理久がお店を持てるかしれないって思って、黙っていて……ごめんなさい。迷惑をかけてごめんなさい。理久の夢を潰して……ごめ……なさい」


「あやまんなよ。こんな思いさせてまで、店なんて欲しくないよ。こんな……美来にこんな辛い思いをさせて、将来の夢を押し付けて、俺は……シェフになる資格なんてないよ!」


 理久は叫ぶと、顔を美来から背け、その場を立ち去ろうとする。だが、それよりも早く、美来が理久の腕にしがみついて止めた。


「理久がシェフにならなかったら、私はずっと苦しむよ。理久の足を引っ張るためだけの存在になったら、私なんて生きてる価値もない。家族といて、ずっとずっと辛かったけど、Des Canaillesで理久たちと料理をするうちに、楽しいってこういうことだって分かったの。この先みんなが離れ離れになっても、私はDes Canaillesの思い出に帰ることができる。理久が夢を捨てたら、居場所が壊れちゃうよ」

 

 突然振り向いた理久に抱きしめられた美来は、理久の身体が小刻みに揺れているのを感じ、理久が声を出さずに泣いているのを知った。

 周囲の大人たちが急に動き出し、スタッフが砂糖と塩を入れ間違えたことを謝る声や、桧山と河島がどういう展開にするかを話し合う声、葉月に時間が押していることを告げるマネージャーの声などが、美来の耳に入ってきた。


 理久をそっと押しのけて、スタジオの隅で撮った映像を確認している桧山プロデューサーと河島ディレクターに向かって、美来は叫んだ。


「間違えて塩を入れてしまったのを流してください。みんなが食べてまずいって顔をしかめた後、私が慌てて謝ってお笑いにしてもらえたら、今まで撮った分が無駄にならないと思います。一生懸命演技しますから、Des Canaillesの他のメンバーの頑張りを消さないでください」


「私は反対!」


 塩入のガレットデロワを食べさせられ怒りまくっていた葉月が声をあげた。


「美来ちゃん、ちょっとこっちに来なさい」


 何の表情も読み取ることのできない葉月の顔を見て、美来は身の竦む思いだったが、全て自分の責任だと覚悟を決めて葉月の元へと歩いていった。

 葉月の手が上がる。瞬間ぶたれると思って、ぎゅっと目を瞑り、肩を竦める。身体の両脇に垂らした腕にもぐっと力を入れて顔を隠すのを堪えた。


 打って気が済むのならそうすればいい。そうしたら、私と付き合っている理久に不満が向くのを防げるだろう。そう思っていたのに、葉月の手は振り下ろされず、代わりに美来の頬をそっと撫でた。


「本当に苦労してきたのね。そんな子を笑いものになんかできるもんですか。勘違いしてごめんね。お医者さんにはかかったのよね? どんな治療をしているの?」


 恐る恐る目を上げた美来は、治療を受けていないと首を振ろうとしたが、頬に置かれた手の温かさをそのまま感じていたくなり、自分の心に戸惑いながら正直に答えた。


「私の味覚障害は、内臓機能の低下が原因ではないので、いつ治るかは分からないと言われました。だから治療は受けていません。メンタル面への影響を調べる問診で、過去のことを聞かれるのが嫌だったの」


「そう。思い出したら、また傷ついて辛いものね」


 自分の心を言い当てられて、美来は不覚にも涙が湧いてきた。葉月の指が涙で濡れるのを避けようとして顔を捩ると、頬から離れた葉月の手が美来の肩の上に載せられ、あやすように優しく叩く。


「レストランであなたが言いかけたのは、味覚障害のことだったのね。それを遮って、私はひどいこと言ってしまった。ごめんなさい。あのね、辛いかもしれないけれど、私がここを収める代わりに、紹介するお医者さんにかかってちょうだい」


「でも……環境が良くなったのに、私の味覚障害は治りません。お医者さんにかかっても、もう無理なんじゃ……」


「それでも、一度診てもらって。あきらめたらだめよ。理久とレストランを経営するんでしょ? 私は約束を守るわよ。理久の料理は素晴らしかった。あなたのパイも砂糖が入っていたら最高に美味しかったと思うわ。約束してちょうだい。お医者さんに行くって」


 美来は本当にそれでいいのだろうかと不安になり、おずおずと理久の顔を見上げると、理久は涙を溜めた目で美来を見て頷いている。美来は葉月に視線を戻すと医者に行くことを約束した。


「桧山さん、私が食べるところから撮り直して。誰か私の食べかけのパイと交換してくれる?それと、ここにいる人たち全員にお願い。この番組で起きたことは絶対にSNSで呟いちゃだめよ。理久と美来ちゃんが成功した時に、本人たちが語る秘話として、とっておいてあげましょう」


 全員が頷いた後、葉月の後ろに座っていた芸人が、葉月の皿と自分の皿を入れ替え、葉月が自ら王冠を冠ると、お祝いのシーンがスタートした。

 葉月がケーキにフォークを入れ、口に持っていく様子が、まるでスローモーショで見ているように、はっきりと美来の目に焼き付く。きっと口に入れてから、すぐカットの声がかかり、葉月がケーキを吐き出したあと、咀嚼するふりをするのだろうと美来はその時を待っていた。

 でもカメラが回るのを止める者はなく、葉月がパイを噛むのを撮り続けている。


「うん。このパイ生地、サクサクしていて美味しいわ。小麦の香ばしい香りとバターの香りが鼻に抜けて、すごく美味しい。アーモンドクリームもコクがあって口の中で蕩けるみたい。中学生でこれを作れるなんて、将来最高のパティシエになれるわよ」


 モニターに映し出された葉月の顔は、本当に美味しいものを食べたように幸福感で満ちていて、壇上にいた全ての者たちが、葉月の演技力に心の中で称賛を送った。

 葉月の演技を横で見ていたおかまキャラの鎌田が、いそいそと自分の皿にフォークを入れて、パイ生地を口の中で嚙みしめると、頬に両手を当てて、おいしいと叫んだ。


「食通の葉月さんとは、気が合うみたい。ご一緒できて良かったわ。美来ちゃん、一生懸命作ってくれてありがとう」


 それを機に、他のゲストたちも動き出した。いつも突っ込みを入れる相方が、鎌田の皿を奪ってケーキを口に入れ、お前にはもったいないから俺が食べると言って鎌田とケーキの取り合いを始めると、他のタレントたちも我さきにとケーキを口に入れて美味しいと感想を漏らした。

 全員を取り終えたカメラがそこでようやく司会者へと切り替わる。


「皆さん、このケーキがよっぽど気に入ったみたいですね。あれ? 美来ちゃん、どうしたの? 感激して泣いちゃった? 美来ちゃん、しっかりして。みんなが美味しいって」


 美来がゲストたちに向かって深々と頭を下た途端、ぽたぽたと涙が床に落ちた。


「ありがとうござい……ます。ここでケーキを作れて……幸せです。尊敬する葉月さんに食べていただけて、本当に嬉しかったです」


 言い終わった美来は、感情を抑えきれなくなり、隣にいた理久に抱き着いて泣き出してしまった。理久が良かったなと囁くのにコクコクと頷くシーンは、将来有望なパティシエの初々しい感激シーンとして編集され、テレビ放映後に、前回同様かそれ以上に好評を得た。


 出演者全員から受けた上辺だけではない優しさに、美来は自分の根底が覆される思いをした。もっと深く人と接してみたいという気持ちが、美来に初めて芽生えた瞬間だった。


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