第9話 家族の風景

 その日の夜、祖母の沙和子と一緒に、キッチンに立った美来は、ハンバーグをフライパンで焼きながら、Chez Naruseで過ごした時のことを話した。


「それでね、理久のお父さんが、ガスバーナーでお菓子に炎を吹き付けた時には、燃えちゃうって叫ぶところだったの。カラメルは学校で作ったことはあるけれど、フライパンにお水と砂糖を入れて焦がすようにしたのよ。まさか、あんなふうにワイルドな方法でカラメルができるなんてびっくりしちゃった」


 沙和子は生き生きと話す美来を見て、心から嬉しく思った。

 美来はここに来て次の日には食べ物に苦みを感じ、その次の日には飲んだ味噌汁が薄いと言った。味付けの好みの違いで濃い味が好きなのかと思った沙和子は、出汁も余分に取り、塩分も大人と同じくらいにしてみたが、美来の舌は味を濃くしても薄いとしか感じることができないようで、間もなく全く味を感じなくなった。


 その時の夕食は、サラダと豆腐の肉あんかけと、焼き魚だったことを沙和子は覚えている。美来は口の中に入れたトマトを噛むと、顔をしかめながらティッシュに全てを吐き出し、今度は豆腐の肉あんかけをそっと口に含んだ。


 途端にくしゃっと美来の顔が崩れ、しゃくりあげたと同時にそぼろが気道に入ってしまったらしく、ゲホゲホとむせた。

 沙和子は身体を前に倒した美来の背中をポンポンと叩いて、喉に引っかかったものを出しやすいように介助したが、美来が身を震わせるので、息ができないのかと焦って身を引き上げた。

 美来は泣いていた。口を開いたまま息を吐くようにあぁーーっと音の無い泣き声が漏れ、一瞬だけハッと息を吸い、またあぁーっと長い無言の泣き声が漏れた。


「美来。どうしたの?魚の骨でも刺さったの?それともどこか痛いの?」


 沙和子がオロオロとして尋ねると、美来は泣きながら首を振る。真っ赤になった頬や瞼は涙でぐちゃぐちゃに濡れている。沙和子はどうしていいか分からず、美来、美来と呼び続けているうちに、まつ毛にいっぱいの涙の粒をつけた美来が、沙和子の顔を見て、味がしないと訴えた。


 まさかと思って美来の顔を凝視すると、自分の不具合が沙和子の顔を引きつらせるほど恐ろしいことなのだと感じたらしく、今度は大声を上げて泣き出した。

 小さな体を抱きしめて沙和子も一緒に声を上げて泣いたのは、まだ一年前のことだ。

 今も味を感じることのできない美来が、嬉しそうにクレームブリュレの中に入っていたものを、匂いで当てられたのと話すのを聞いて、沙和子はエプロンの端で目をぬぐった。


「おばあちゃん、何泣いてるのよ。年をとると涙もろくなるって聞いたことがあるけれど、おばあちゃんはまだ若いんだから、泣かないのよ」


 黙ってうなづいた沙和子を見て、美来がにっこり笑う。その笑顔が消えて真顔になったのは、ハンバーグが焼けるいい匂いが辺りに漂ったからだ。

 スッと吸い込む音と共に鼻を動かした美来が、うんと一つ頷いて蓋を外し、フライ返しでハンバーグをひっくり返す。


 途端に爆ぜた肉汁がジューっとおいしそうな音を立て、白い煙がもくもくと上がる。ガラスの蓋をすると、くぐもった音に変わった。

 美来は舌で感じられない分、音と匂いに神経を集中させることで、どこまで素材が調理されているかを感じられるようになっていた。クレームブリュレの隠し味を当てられたのも、鼻が敏感になっていたおかげだ。

 最近はオーブンで焼くものは、お菓子はもちろん、グラタンやパイ包みのクリームサーモンだって、匂いの変化を感じ取り、できたかどうか当てられるようになった。


 ただ、料理の味付は、お菓子と同じように材料をきっちり計ればいいのかというと違うことが分かってきた。例え本に書いてある通りに、出汁や調味料をきっちりと図っても、一個の野菜の大きさや、その時の野菜に含まれる水分の多さと甘さによって、レシピ通りに調理しても美味しくできないときがあるようだ。

 

 匙加減という言葉があるが、料理歴の長い沙和子でも、味見をしながら足す小さじ一杯の塩やしょうゆで、物足りなかった料理が生きたり、入れ過ぎて後悔したりすることがあるらしい。

 このかぼちゃは甘いから、お砂糖は控えめにねと、沙和子から指示を出されたときに、相手の様子を窺いながら作る料理は、初対面の人とかわす会話みたいだと思ったりする。

 残念ながら美来には、匙加減を習得できそうにないけれど……

 そんな思いを吹き飛ばすように、美来は理久の家での話をつづけた。


「理久のお父さんもお母さんも、本当に優しくて、明るくて素敵な人たちなの。私の両親もあんな風だったら良かったのにって思っちゃう。今日はティーパーティーがあってね、幼稚園児をつれたお母さんたちが、子供たちの世話をやいているのを見て、その子と過去を取り換えたくなっちゃったわ」


 決して暗くならないように冗談めかして喋りながら、美来は焼きあがったハンバーグをお皿に盛って、沙和子に渡した。自分の分もお皿に盛ると、ダイニングのテーブルに運び、沙和子の向いの席につく。頂きますと手を合わせて食べ始めると、お箸を持ったまま考え込んでいた沙和子が、決心したように口を開いた。


「明後日の土曜日に、お父さんとお母さんが康太を連れて来るっていうんだけれど、帰りに美来も一緒に乗せてもらって、あちらの家に少し戻ってみるかい?」


 今度は美来の箸が止まった。一体何を言い出したのかと沙和子の顔をじっと窺う。


「おばあちゃん。どうしてそんなこと……ひょっとして私がいると邪魔?」


「違う! 今の話を聞いて思ったの。もしお父さんとお母さんが心を入れ替えて、良い親になったとしたら、美来は一緒に暮らしたいんじゃないかって」


「あの人たちがいい親になれるわけがないわ。弟の康太になら別でしょうけれど……」


「お父さんが言うには、お母さんは本当に後悔しているって話だよ。もし美来が帰ってきてくれるなら、今度は絶対に手を上げないし、優しくするからやり直したいって言ったらしい」


「……」


 美来は行儀が悪いと知りながら、野菜スープをスプーンでぐるぐるかきまぜながら、沙和子から聞いた話を考えてみた。

 一、二か月に一度、父は美来の様子を見に祖母の家へと訪ねてくる。父が来る前に、美来の着替えや勉強に必要なものを、沙和子が知らせているので、それらを父が用意して持ってくるのだが、美来は受け取る時にだけ顔を見せ、あとは渚紗たちと一緒に出掛けてしまう。 


 幸樹も理久も、美来の父が帰るまでの数時間を、一緒に勉強したり、映画を見たりして時間をつぶしてくれるのだが、このままでいいのかと聞かれることもある。

 逆にこのままではいけないのかと聞きたくなるのを、きちんとした家庭で育った彼らには分からないのだろうと思って、飲み込んできた。


 一番親に甘えたい盛りに与えられなかった愛情を、今さら両親がくれると言っても、もう中学生の自分には必要ないと美来は頭で考えつつ、心の中では今日のChez Naruseでの理久と両親とのやり取りに、憧れないではいられなかった。


 あんな風に両親と心を通わせることができるだろうか?

 母は手をあげたことを後悔していて、優しくするからやり直したいと言っているという。康太だけに向けられた目が私にも向いて、優しい言葉をかけてくれるようになるのだろうか?


「会うだけなら会ってもいい。でも、一緒に帰れるかどうかは分からない」


 沙和子にそう言いながらも、美来は親子四人で、仲良く手をつないで歩くことを思い浮かべていた。


 翌日の金曜日は、春の陽気に当てられて、授業中に眠気を覚えても、先生が注意する声以外に眠気を遮ることも無いような穏やかな一日だった。

 学校の帰り際に、美来は両親と弟が明日来ることを三人に伝えた。理久が心配して大丈夫なのかと美来に訊ねる。あまりにも理久が不安気な顔をするので、美来は少しからかってみたくなった。


「母が改心したから、一緒に暮らそうっていうの。今度は優しくしてくれるらしい。理久も幸樹も、このままでいいのかって私に訊ねたでしょ? 会うのにいい機会かもって思ったの」


 すると理久と幸樹が驚いたように顔を見合わせて、意味が違うよなとぶつぶつ文句を言い始める。

「僕が言ったのは、このまま泣き寝入りしてもいいのかっていう意味だよ。美来だけ痛い目にあって、あっちは知らん顔して暮らしているわけだろ? 美来の親のことだから、僕がけしかけるわけにもいかないから黙っていたけれど、警察に届ければよかったんだよ」


「おっ⁉幸樹が珍しく攻撃的になっているぞ。でも、俺もその意見に賛成! そいつら親じゃねぇよ。俺が言おうとしたのは、ばあちゃんの子供になるとか、きちんと手続きしなくていいのかってことだよ」


「えっ⁉そういう意味で言ってたの?」


「当たり前じゃない。そんな親のところへ帰れなんて誰も思ってない。私は肋骨にひびが入ってコルセットをはめていた美来を見てるのよ。帰ったら殺されちゃうかもしれないわ。ここにいればいいよ。美来はもう、私たちの仲間なんだから」


 渚紗の言葉に、理久と幸樹がその通りと頷くのを見て、美来は居場所の無かった自分が、ようやく根を下ろすことのできる場所を見つけられたのだと嬉しくなった。


 あまりにも悲しくて、つらくて、どこかに行ってしまいたいと本気で願いながら、行く当てもなく、歩きだしては、どこにも逃げられる場所がないと悟って家に帰ったあの頃。

 自分を捨てた本当のお母さんが、いつかは自分を恋しく思って迎えに来てくれるのではないかと期待して、今にも押しつぶされそうな心を救ってくれるのを、待って待って、待ちくたびれてしまった絶望の日々。


 どっか行きたいなが口癖になって、どこかが何処にあるのかを探して、テレビや本の中の景色を必死でまさぐっていた折れそうな自分。その顔もぼんやりとして、記憶の中では不確かなくせに、いびつな心だけはしっかりと形成されて、今も美来の中に根差している。


「美来。お前はDes Canaillesいたずらっ子達の大事なメンバーなんだからな。俺たちを見捨ててどこへも行くなよ」


 理久の言葉と、ずっと一緒だぞと繰り返す仲間の言葉を聞いた途端、辛い記憶が薄れていき、ぼやけていた過去の顔にも希望の光が射して、心の中で今の美来の顔に重なって鮮明になった。


「うん。ここにいる。明日は一緒に帰ろうと言われても断るよ」


 絶対だぞと言いながら、みんなは心の中で、子供の弱い立場を痛いほど意識していた。だから、美来には内緒で、土曜日には美来の家の周りを見張ろうと理久たち三人は約束をした。


 その日の夜、約一年ぶりになる母と康太との再会を、あれこれ想像してしまい、美来は緊張してなかなか寝付けなかった。

 どんな顔をして会えばいいのだろうと考えた時、顔というワードが引き金になって、母親の怒鳴り散らす顔や、振り下ろされる大人の大きな手や、その直後に受ける衝撃と痛みが頭を横切り、美来は手で頭を覆いながら、仲間たちの名前を呼んだ。


「渚紗。理久。幸樹……渚紗。理久。幸樹」


 頭から嫌な映像を追い出そうとして、必死で仲間たちの名前を唱え続けると、息が少し楽に吸えるようになった。

 父の前では暴力を振るわなかった母親が、祖母と父がいる前で、あんな暴力を振るうはずがないのだから、怖がる必要は無いと自分自身に言い聞かせる。


 自分に優しくしてほしいと思う反面、自分以外の人の前では良い顔をする母親が、改心して良い母になったと評価をされたら、それまで自分が受けた痛みはどこに持っていけば癒されるのだろうかと美来は複雑な心境に陥った。

 今までは、母を憎み、存在を抹殺することで、何とか自分を保ってきたのに……そんなことを考えても、答えがでるはずもなく、考え疲れた美来はいつの間に眠りに落ちていた。


 そして、次の日の朝はいつもと変わらず、カカカカッという庇の上を歩く雀の足音で起こされた。

 最近雀たちは美来に慣れたのか、窓のサンに止まって部屋の中を覗き込むことがある。ちいさな頭がサン越しに見え隠れするのをぼーっと見ていた美来は、ようやく朝になったということに気が付いて、伸びをした後、はぁ~あと大きなため息をついた。


 朝十時ころに父の車が沙和子の家の駐車場に着いた。

 出迎えるために外に出た沙和子の声がして、康太の元気な挨拶が聞こえてくる。はきはきした物言いに、そういえば弟はもう小学校二年生になったのだと思い当たった。


 二階の吹き抜けからそっと様子を窺うと、玄関の引き戸のすりガラスに祖母の影が映った。引き戸を開けながら端に寄った沙和子の脇から康太が玄関に飛び込んでくる。だが、慣れない家で不安になったのか後ろを振り返った。

 尖った靴先が玄関の石畳を踏んで現れ、続いてスカートに包まれた下半身が見え、上半身に続き、肩と頭のてっぺんが扉をくぐった。


 あの女だ!と思った瞬間、美来は頭を引っ込めて、壁の影に隠れてしまった。

 沙和子が玄関から吹き抜けを見上げて、美来と名前を呼ぶのが聞こえる。でも喉が詰まったように声が出なくて、美来は気持ちを落ち着かせ、何度目かの呼びかけにようやく返事をすることができた。


 父母と康太はリビングではなく、階段を下りてすぐ右手にある客間に通されていた。ソファーに座っている両親にこんにちはと平坦な声であいさつをすると、康太がお姉ちゃんと叫んで駆け寄ってくる。飛びつかれて緊張が緩み、口元に笑みを浮かべた美来のもとへ、今度は母親がやってきた。途端にまた身体が硬くなる。

 無言で見返すと、母親は一瞬怯んだ後、引きつるような笑顔を浮かべて、美来に話しかけた。


「大きくなって。見違えちゃったわ。きれいになったのね」


「……」


「美来。ごめんね。話したくないかもしれないけれど、お母さん本当に悪かったと思っているから、許してほしいの。ごめんね」


 母親の手が伸びてくるのを、反射で避けようとしたけれど、康太が抱き着いているので避けることができず、腕を掴まれた。そのまま、さすられているうちに、緊張が解けていく。


「こっちで一緒に座りましょう。この一年であったことを話してほしいの」


 いつも美来を無視していた母親が、美来の話を聞きたいと言う。意外に思って康太の頭から視線を上げると、さっきよりは自然にほほ笑む顔が見える。手を引っ張られるままに恐る恐る母親の隣に腰かけて、自分からと言うよりは、質問されたことに対して、ポツリポツリと答えていると、沙和子がお茶を運んできて、美来と母親の様子を窺った。


 父も美来がいなくなって寂しい思いをしていることや、母親がどんなに後悔しているかを沙和子にも聞かせるように話し始め、康太までがお姉ちゃん帰ってきてと膝に載って甘えてきた。

 自分は家族に必要とされているのだろうか?

 昨日ここに留まると理久たちに言ったのに、もう気持ちがぐらついてきている。美来の腕や背中を露骨に撫でまわす母親の手をわざとらしくも感じたが、慣れていないスキンシップのせいだと思い込もうとする。


 沙和子も交えて大人たちの差し障りの無い会話が進むと、だんだん康太が飽きてきて、美来の手を引っ張って庭に行きたいと言い出した。

 自分も緊張していたせいか、かなり気疲れを感じたので、玄関から建物の東を回って南の庭に出ようとした。すると、二m間隔で植えられたコニファーの垣根の間から隣の畑で動く人影が見える。垣根に近づいて覗いてみると、渚紗と理久と幸樹が手を振ってきたので、美来は唖然としてしまった。


「三人共、畑の中で何してるの?」


「何してるって……えっと、探偵ごっこ?」 


 渚紗がしどろもどろに答えると、康太が僕もやりたいと言って、美来の手からすり抜ける。元々形ばかりに作られた垣根は、間隔の空いたコニファーに竹が二本渡してあるだけの簡単なものだ。康太は竹の間をくぐって、向こう側に行ってしまった。


「あっ、康太! 待って」


 美来も仕方なく身を小さく折りたたんで、竹の横木をくぐって畑に足を着くと、渚紗が手を伸ばして、美来が背を起こすまで支えてくれる。


「探偵って何?ひょっとして心配して見に来てくれたの?」


「そう。お母さんとどうだった?」


「それがね。気持ち悪いくらい愛想がいいの。悪かったって謝ってくるし……」


「おいっ、美来。もしかしてほだされたんじゃないよな?俺たちと昨日約束したろ?」


 理久に話しかけられて視線をむけると、その後ろで康太が作物を植えた畑の畝の中に入っていくのが見え、美来があっと声を上げた。

 理久と幸樹は畑の畝の間を歩いて、作物に触れないように注意をしているが、何もわからない康太はすでに畝の上をお山だと言って踏みつけている。


「どうしよう。畑を荒らすとおばあちゃんに怒られる」


 オロオロする渚紗を助けるために、幸樹が、畑の畝の上に片足で立ってもう片方で山を蹴り崩している康太に近づいていった。


「康太くんだっけ?その小山は踏むと大きなムカデやありが出てきて噛みつくから危ないよ」


 幸樹の脅しの効果はてきめんで、康太はうわっと叫んで畝から飛び降りると、怖い怖いと足踏みをしてぐずりだす。幸樹がおいでと康太の手を握って、美来たちのいる方へ連れてこようとするが、康太は途中で幸樹の手を振り払い、美来の腕に飛び込んできた。


「お姉ちゃん。こんなところ嫌だよ。おうちに帰ろう」


「お姉ちゃんの家は、今はここなのよ」


「お姉ちゃんがここにいるから、僕もお母さんもみんなから変なこと言われるんだよ。帰ってよ」


「なっ。何言って……」


 康太の頭を撫でていた美来の手が、凍り付いたようにぴたりと止まった。

 私を傷つけて、あそこにいられなくしたのはあの人たちなのに、世間から非難を浴びて、自分たちが痛めつけられるのは嫌なわけだ。だったら、さっきあの人が言った言葉な何のだろう?


『美来。ごめんね。話したくないかもしれないけれど、お母さん本当に悪かったと思っているから、許してほしいの。ごめんね』


 全部嘘? 横に座らせて、私の話が聞きたいと言ったのも、私がいなくなって寂しいから、帰ってきて欲しいと言ったのも、全部自分たちが世間の非難から逃れるためについた嘘?

 少しは家族に必要とされているんじゃないかと思ったのは大間違いで、私はもう少しで騙されるところだったんだ‼


 前方を睨みつけ、石のように動かなくなった美来を心配して、理久が美来の肩に手を置いて顔を覗きこもうとする。反射的に体を捩った美来が、その手を振り払った。

 美来が傷ついたのを察知して、理久が康太を見下ろしながら、冷たい声で問いただす。


「お前さ、お母さんが美来をぶつのを見ていたんだよな? 自分たちが悪いとも思わずに、全部美来のせいにするわけ?」


「だって、お姉ちゃんがお母さんの言うことを聞かないから、ぶたれてもしょうがないって、お母さんが言ったんだもん」


 美来は抱き着いていた康太の手を引き離し、首を振って一歩後退った。今まで感じてい弟への愛情が憎悪へと変化して、触れられるのが耐えられなくなったのだ。

 大人は全員自分の味方だと思っている康太は、知らない土地で、大人に見える理久に詰られて心細くなり、美来に縋ろうとして手を伸ばすが、渚紗がその間に割って入った。


「じゃあ、畑を荒らしたあなたをぶっても許されるわけね? あなたのお母さんみたいに、子供でも平気で殴るのが正しいんでしょ?」


「うるさいな! お前なんか大嫌いだ! あっちに行け!」


 それまで甘ったれた態度を取っていた康太が、渚紗を憎々し気に睨みつける。

 突然態度を変えた康太を見て、美来も他のメンバーも驚いた。多分これが康太の本当の顔なのだと悟った四人は、康太の本音を引き出すために言わせるままにする。


「こんな嫌なところ早く売っちゃえばいいんだ。なのに、お姉ちゃんがいるから売れないんだ」


「売る? おばあちゃんの土地を勝手に売れるわけないじゃない」


 何か勘違いしているのではないかと思った美来が口をはさむと、康太は母親が言ったのであろう言葉を、いかにも自分が思っていることのように威張りながら口にする。


「この土地はお父さんがもうらう土地なんだ。なのにお姉ちゃんがわがまま言ってここにいるから、おばあちゃんは半分お姉ちゃんにあげるかもしれない。そしたら売れなくて、僕たちのお家が作れないんだよ」


 言われたことを理解したくなくて、美来の頭が考えるのを拒否してしまったように真っ白になる。痺れた部分に血流が通って感覚が戻るように、言葉がじわじわと意味を成していった。


 両親は虐待を反省していないどころか、物欲を満たし、世の批判から自分たちの身を守るために、美来を連れて帰ろうとしているのだ。沸々と心の底から沸き上がった怒りが、どす黒い憎しみへと姿を変える。


「あいつら、絶対に許さない! 私は絶対にここを動かないから。康太は、とっとと帰りなさい。二度と来るなってあいつらに言っておいて!」


 姉の怒りを理解できず、康太がヤダ! と大声で叫ぶ。


「お姉ちゃんが帰らないと、僕たちが嫌な目にあうんだ。お姉ちゃんはそれでもいいわけ?」


「帰れ! 康太の顔なんて二度と見たくない! 帰れよ!」


 美来が弟につかみかかろうとするのを、理久が後ろから止めた。


「やめろ美来。お前が手を出したら、相手に暴力の言い訳をあたえちまう。ニュースでみると虐待で捕まる親は、子供のための躾だとか平気で言うんだぞ。美来が危なくなる」


 理久の制止に関わらず、一度煮え滾った憎悪は、僅かに残った理性を簡単に食い破り、盾突くものに歯向かおうとする。美来は羽交い絞めにしている理久から逃れようとして、拳を振り回しながら暴れた。


「放して! 放してよ! こんな奴、弟なんかじゃない! 私がやられたみたいに、こいつを殴らせて!」


 姉の剣幕に驚いた康太は、畑の中へと走って逃げだした。渚紗が後を追ったが、康太は捕まったら殴られるかもしれないと思って、泣きわめきながら逃げていく。

 心の荒れ狂うまま暴れる美来に対し、美来を傷つけまいと手加減する理久の腕はすでに緩みかけている。そのすきを狙って、美来が理久の足を蹴飛ばして腕の包囲から抜けた。


 だが前方には幸樹が待っていて、振り上げられた美来の手首を掴んで、上から圧力をかけ、美来に膝をつかせる。もがく美来を落ち着かせるために、幸樹が美来の名前を何度も呼んだ。

 呼びかけには答えず、美来は両肘を振って幸樹の手から自分の手を外す。立ち上がろうとしたが、動きを制するように理久の手が美来の両肩に置かれ、労わるように撫でられるうちに、身体に入った力がほんの少し抜けた。


「美来。頼むから正気に戻ってくれ。あんな奴らは放っておけ。美来が望むなら俺たちが美来の家族になる」


「そうだぞ美来。僕たちが守ってやるから、ここにいろ」


 理久と幸樹が、美来を真剣に思ってかけた言葉は、美来に届いたようだ。

 美来が小さくうなづくのを見て二人がホッとした時、畑の騒ぎを聞きつけたのか、沙和子の家の庭から母親が顔を覗かせた。


「あなたたち何をしているの? 美来から手を放しなさい! それと、康太はどこ?」


 理久が言い返そうとしたときに、バシャと水音がして、ウァーーンと康太の泣き声が響いた。

 何が起きたのかとみんなが視線をそちらに向けると、渚紗が地面の一角を指しながら、康太が水ガメに落ちたと叫んでいる。

 母親が竹をまたいで尻もちをついたが、あたふたとしながら起き上がると、よそ行きの靴が汚れるのも構わずに、畑の中を康太の元へと走っていく。理久と幸樹も、美来を地面から引っ張り起こすと、その後を追った。


 駆けつけたみんなが見ると、畑の真ん中ぐらいに水のたまった赤茶色の素焼きの壺が埋められていて、そこに落ちた康太が、瓶の縁に捕まり頭だけを出して大泣きしている。直径一mほどの瓶の中に溜まった雨水は、藻と浮草で覆われ緑色になっている。


 渚紗の説明によると、普段は蓋がしてあるのだが、畑を走った康太が蓋を蹴飛ばして、勢い余ってその中に落ちたらしい。

 顔に緑の浮き草をつけたまま大泣きしている康太を見て、身震いした母親は、美来を睨みつけて手を振りかざした。


「あんたって子は! 康太をどうして見てないの!」


 硬直した美来を幸樹が後ろに引っぱり、理久が前に出た。


「叩いてみろよ。美来は訴えなかったけれど、俺があんたを傷害罪で訴えてやる」


「な、何て生意気な……」


 絶句する母親に向かって、今度は渚紗が口を挟んだ。


「生意気っていうのは、そこにいる緑色の僕ちゃんのことかしら? 早く助けないと沈んじゃうかもよ。深さが一メートル五十センチくらいはあるから」


 慌てた母親が康太に腕を伸ばした時、渚紗が言い忘れていたと言って、楽しそうに説明を始めた。


「それね。昔は肥溜めって言ったんだって。分かる? 糞尿を入れて肥料を作って畑に巻くのに使ったの。今はただの雨水だけれど、私なら落ちたくないわ」


 それを聞いた途端、康太に伸ばした手を引っ込めた母親は、理久と幸樹が笑いをかみ殺しているのを睨みつけ、美来に向かって命令をした。


「美来、お姉ちゃんなんだからあなたが助けなさい。康太を見ていなかったあなたの責任なんだから、早くして!」


 美来と仲間たちがカチンときて何かを言い返そうとしたとき、後ろから凜とした沙和子の声が響いた。


「何を言っているの! あなたが母親なんだから、自分の子は自分で面倒を見なさい! いつもこうやって美来に康太の面倒をみさせて、労うどころか美来につらく当たっていたのね?」


 みんなの冷たい視線を浴びて、母親が嫌そうに康太に手を伸ばし、水瓶から引っ張り上げる。康太が泣きながら抱き着こうとするのを、母親は手を突っ張ってやめさせようとした。だが、必死に縋りつこうとする康太に押され、後ろにある畑の畝につまずいて、康太もろともひっくり返ってしまった。


「汚いから降りなさい!」


 母親の怒鳴り声に康太はパニックを起こし、余計に離れまいとしがみついている。

 渚紗が数メートル先に見える水栓に向かい、井戸水をバケツに汲んで戻ると、にっこり笑いながら美来に渡した。


「きれいにしてあげたら?」


「私がするの?」


「そう。ザバッっと潔く」


 意味を介した美来がバケツの水を、真正面から二人に向かってぶちまける。

 母親と康太が悲鳴を上げ、背を向けて逃げようとする先には、新たな水を予備のバケツに汲んできた理久と幸樹が待ち構えていた。


 次々に美来にバケツが手渡され、最初は怒りを込めてぶちまけた水だが、心から怒りが放出されるにつけ、込める気持ちが変わっていく。かつて母親と弟だった二人に、さよならを込めて、美来は最後の水を放った。


「康太から聞いたけれど、この土地を売って家を建てるつもりだったんでしょ。私がここにいると土地をお父さんのものにできないから、私を連れ戻そうとしたのよね? それと、私を虐待した噂をもみ消すために、ほんとは私なんてどうでもいいくせに、仲のいいふりをしようとしたんだわ。あんた達最低! 大嫌い! 二度と会いたくない」


 沙和子は、美来の頬を伝わる涙を指で拭うと、水浸しで黙り込んでしまった親子に告げた。


「あなたは母親としても、人間としても失格です。美来は私の子供にして、この土地は美来に渡しますから、そのつもりでいなさい。家の敷居も二度と跨がせる気はありませんから、そのまま帰ってください」


 沙和子は、いつのまにか傍に来ていた息子を鋭く睨むと、康太が言ったことが本当かどうか尋ねた。

 黙する息子に、もし、それを知っていて加担したのなら、もう息子だとは思わないし、縁を切って金輪際会わないつもりだと怒りをあらわにする。知らなかったと必死で言い訳をする息子の背後で、パパのうそつきと康太が叫んだ。

 沙和子は情けないと呟いて額を片手で覆ったが、意を決したように背筋を伸ばし、息子に二人を連れて帰るように命令した。


 沙和子たちが畑から引き揚げる姿を、美来はぼ~としながら見送った。期待を打ち砕かれ、怒りを爆発させて力尽来てしまったようだ。


 ふと、振り返ると、仲間たちが沈痛な表情を浮かべて美来を見つめている。仲間に心配をかけまいと、美来が無理やり笑おうとした時、渚紗が素っ頓狂な叫び声を上げた。


「ねぇ、みんな畑を見てよ。あんなに踏み荒らされて、マジやばいよ! おばあちゃんに大目玉を食らっちゃう。ひょっとしたら、私の方が水瓶の刑になっちゃうかも。そしたら、みんな助けてくれる?」


 雰囲気を明るくしてくれようとする渚紗の気持ちが嬉しくて、美来がもちろんと言うと、幸樹も頷いたが、続いた理久の言葉にみんなが避難の目を向けた。


「俺はいやだね。だって汚いもん」


「お前な~。こういう時は合わせておけよ」


「美来だったら、助けてやる。だって俺の一番大切な家族だもんな」


 一人だけその話を聞いていなかった渚紗が、幸樹から経緯を聞いて、私も美来の家族になると言った。


「美来のお姉さんって感じでどう?」


「渚紗は私の妹だよ。絶対にお姉さんじゃない」


 えーっ!お姉さん役がいいと駄々をこねる渚紗を制して、理久が前に出る。


「俺は美来のお父さんになってやる」


「絶対無理!従兄って感じかな」


「家族じゃないじゃん!じゃあ、幸樹は?」


 期待に見開かれた幸樹の目が、美来を見つめる。少しどきりとしながら、お兄さんと答えようとしたときに、二人の様子を不安気に窺う渚紗の顔が目に入った。


「……弟かな」


 期待が外れたのか、幸樹ががっくりと肩を落とす。


「康太君とのやりとりを見たら、美来の弟って嫌なイメージしかないんだけれど……僕は兄貴がいいな」


「贅沢言うなよ、幸樹。俺なんて従兄だぞ。一人だけハバじゃん。俺は絶対美来の親父になってやる!」


 どんなん? みんなが声を上げて笑った。

 美来が嫌なことを思い出さなくてすむように、理久も幸樹も渚紗も、大げさなゼスチャーと言葉で、自分たちの役割に文句を言って、相手の役割をからかっては大声で笑った。

 笑って、笑って、何がおかしいのか分からなくなるくらいに笑って、今は大人なんていらない。この仲間がいればいいと思った。





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