第4話 交わした約束 3-3

「さあ、お家に入って朝ごはんにしようか。お味噌汁とごはんと卵焼きとあと何が食べたい?」


「何でも食べられるよ。あのね、康太は好き嫌いしても怒られないの。でも私は何でも好き」


「美来はいい子だね。食べることが好きな子は、おいしい食事が作れるようになる。美来だけを思ってくれる優しい男性と家庭を持てるよ」


 美来は食べることがそんなに大事なことだとは知らなかった。おいしい食事が作れれば、私だけを思ってくれる人と結婚できて、自分の家族を持てる。家庭愛に飢えていた美来にとって、その言葉は特別な響きを持って胸の奥に届いた。


 でも、学校のテストでいい点数を取るよりも、食事をおいしく食べることの方が簡単なのに、そんなことで幸せを手に入れられるのだろうかと疑いが頭をもたげたけれど、口にしたら叶うことも叶わなくなってしまいそうで、黙っていた。


 テーブルの上に並べられた湯気の立つ朝食に、ごくりと唾を飲み込んで、美来は手を合わせてから箸を取った。

 お味噌汁の香りが鼻をついて、お腹が鳴ったのに照れ笑いをして口をつける。ズズッと汁を啜った美来が不思議そうに瞬いた。

 もう一度椀に口をつけて、味噌汁を味わっていた美来が、ゴクッと飲み込んだ後に首を傾げるので、沙和子が慌てて自分の味噌汁を飲んでみる。美来のために塩分は薄くしたが、その分鰹節の出汁を効かせた美味しい味噌汁だった。


「どう?美味しくないかい?」


「昨日より味が薄い気がする。昨日の食事は少し苦かったけれど、美味しかったよ。お母さんのは仕事の帰りにスーパーで買うお惣菜だから、味が濃くて美味しくないの。おばあちゃんのは美味しいよ」


「苦い?昨日は苦みのあるものを使ってなかったんだけれど……。美来は、濃い味噌汁の方が好きなんだね。次はもう少しお味噌を入れてみるね」


「あ…りがとう。おばあちゃん」


 ありがとうと素直に言葉に出して急に恥ずかしくなった美来は、味噌汁の椀に口をつけて湯気で顔を隠くそうとする。額に垂れた前髪の隙間から祖母を覗き見ると、祖母が同じように味噌汁の椀で微笑みを隠したのに気が付いた。湯気だけではない熱でのぼせてしまい、美来の耳たぶが真っ赤に染まった。


 朝食の後片付けが終わるころ、回していた洗濯機が終了の合図を告げたので、美来は南東にある居間からテラスに降りて雨除けの下にある洗濯機から洗った衣類を取り出した。


 沙和子の家の南側にある庭は、広い土地で遮るものがないため、屋根とは別に雨除けと日よけを兼ねたテラス屋根が設けてある。雨の日はそこに洗濯物を干すのだが、今日は天気がいいため、芝生の庭にステンレス製の布団干しを出した。そこに、パンパンと音を立てながら上下に振って、皺を伸ばしたバスタオルや衣類をかけていく。 美来は、陽の光に反射して、真っ白に輝くシーツや、シャツのまぶしさに感嘆して、洗濯洗剤のいい香りを思いっきり吸い込んだ。


 沙和子の家では、全てのものが生き生きとしているように感じられる。比べるように、美来はあの暗くて汚れたマンションの様子を思い出してしまい、それと同時に、閉塞感のある部屋での出来事までが蘇り、思わず身震いをしてしまった。


 その時、家の北側にある道路の方から、美来ちゃーんと呼ぶ渚紗の可愛い声がきこえたので、美来の気持ちは途端に弾み、よもぎを入れる袋を用意している沙和子の横を走って通りすぎようとしたのを注意された。


「急がないで。転んで痛めたところを打ったら大変だから、ゆっくり歩いてね」


 そうだった。ひびが入っていたんだと、美来はカットソーの下のコルセットを撫でて、存在を確認した。直接肌につけると汚れたり、肌がかぶれる原因になると沙和子に言われ、パジャマの時は上から締めて、今はシャツの上から身に着け、見えないようにカットソーを上からかぶっている。

 今日はお日様が輝いていて三月中旬にしては汗ばむほどの陽気だ。シャツと、コルセットと、カットソーの三枚を身に着けている美来には、少し暑いくらいに感じた。


「渚紗ちゃん。お待たせしたわね。車で少し先の川まで行こうと思うけれどいい?」


「はい。お願いします」


 沙和子の軽自動車で二十分ほどいくと、長い土手が見えてきた。美来は初めて見たが、それは堤防というものらしく、大きな川の両端に土が盛り上げられていて、水笠が増えても、容易なことでは町の方に水が溢れることはないと沙和子に教えられた。

 堤防の上は道も兼ねているので、沙和子は堤防から川岸に降りる脇道を辿って堤防内の駐車場へ車を止めた。


 車から降りて見上げると、堤防の下の方はコンクリートで固めてあり、半分ほど上は土のようで、春の温かい陽気に誘われて、育った野の花や草で一面が覆われている。美来が知っているのは、クローバーとセイヨウタンポポくらいだが、渚紗は花の名前をよく知っていて、紫いろのアカツメクサや、タンポポに似ているオニノゲシ、小さなコバルトブルーの花を咲かせるオオイヌフグリなどを、歩きながら教えてくれた。


 堤防の上は道も兼ねているので、沙和子は堤防から川岸へ降りる脇道を辿って堤防内の駐車場へ車を止めた。

 沙和子と渚紗と連れ立って、コンクリートの階段を少し上り、その横にある草群に足を踏み入れると、沙和子がさっそくよもぎを見つけたようで、滑らないようについてきなさいと二人を手招いた。


「ああ、沢山生えているね。美来、このギザギザの葉っぱがよもぎだよ。裏を見てごらん」


「表が緑なのに裏が白いんだ。あっ細かい毛が生えてる」


「そうだよ。これに似た葉っぱでトリカブトというのがあるのだけど、その葉っぱの裏は白くないから覚えておきなさい。トリカブトは毒があるから気を付けないといけないんだよ」


 毒と聞いて、美来はよもぎの葉っぱから思わず手を放してしまったが、渚紗が裏を確認すれば大丈夫というので、見様見真似で先っぽの色がきれいな新芽だけを摘んでみる。途端によもぎのいい香りが漂い、美来はよもぎ餅の香りが漂い、よもぎ餅の味を想像した美来の口に唾が湧いた。


 土手の斜面にしゃがんで採っていると、平らな地面でしゃがむよりもどうしても身体を深く折り曲げるので、コルセットをはめた美来にはつらい姿勢になり、何度も立ったり座ったりを繰り返した。

 摘み始めてから三十分も建つと、美来は同じ葉ばかりを摘むのに飽きてしまい、きらきらと陽を受けて輝く幅の広い川面や、周囲の景色を眺めた。すると、土手の上を自転車に釣り道具を載せて走ってくる男の子二人が目に入る。


「ねぇ、渚紗ちゃん。この川はどんな魚が釣れるの?」


 美来の質問に顔を上げた渚紗が、近づいてくる男の子たちを見つけ、あっと短く声を上気たかと思うと、急に立ち上がって、男の子たちに手を振りながら呼びかける。


理久りくくーん。幸樹こうきくーん」


 呼ばれた二人は、最初キョロキョロと辺りを見回していたが、すぐ先の土手を下りたところで五年生の時に同じクラスで幼馴染でもある水谷渚紗が手を振っているのを見つけて、自転車を漕ぐスピードを上げた。

 渚紗は、一緒に来てと言いながら、美来の腕を引っ張って土手に上がっていき、ちょうど自転車を降りた男の子二人に笑顔を向けながら、美来を紹介した。


「私の新しい友達の美来ちゃんだよ。お隣に住む山吹さんの孫なんだって。あっ、あそこにいるのが美来ちゃんのおばあちゃん」


 渚紗の話を耳にして、沙和子が会釈をすると、理久と幸樹もはにかみながら会釈を返した。


「一見爽やか系だけど、押しが強いのが成瀬理久君で、お家がレストランなの。お父さんは海外で修業を積んだコックさんで。おいしいお料理を出すんだよ。日焼けしたソース顔の方が篠田幸樹くん。お父さんが建設会社を経営していて、幸樹くんは将来建築家になりたいんだって」


「山吹美来です。よろしくお願いします。同級生なのに、もう夢をもっているなんて篠田くんはすごいですね」


「いや、そんなことないよ。僕の家には建築物の写真や本が沢山あるから、興味を持っただけなんだ。美来ちゃんの夢は何?」


 夢?そんなの今まで考えたことも無かったと、美来はなんと答えていいか困ってしまった。どうしよう、無いって答えれば、せっかくできた友達の渚紗が、私をつまらない子だと思うかもしれない。夢…夢のイメージから考えると……


「えっと。おばあちゃんが言ったんですけれど、食べることが好きな子は美味しい料理が作れるようになって、幸せな家庭を持てるって……今はそれかなって思います」


 美来の話を聞いて、理久がおおっと歓声とを上げている。どうしたのかと不思議に思って首を傾げると、理久が目をキラキラさせながらむんずと美来の腕を掴んだ


「美来ちゃん、嬉しいよ。俺の夢も将来的には有名なシェフになることなんだけれど、中学生になったらやってみたいことがあるんだ。渚紗も幸樹も一緒にやるから、仲間に入らないか?」


 渚紗も幸樹も、美来の手を取って上下に振りながら、一緒にやろうとねだってくる。いつも弟の面倒を優先していた美来は、放課後に遊ぶ友人もいなかったので、こんな風に誘ってもらうのが本当に嬉しくて、内容も聞かずに頷いた。


「みんなと一緒なら楽しそう。それで何をするの?」


 渚紗と幸樹の顔が理久に向けられ、説明を促すと、理久はコホンとわざとらしく咳をしてから、洋風総菜のテイクアウト店と答えた。


「ほら、M県の高校生が部活でレストランをやって話題になったろ?俺たちはもっと独創的なサイドメニューを作りたいと思ってる。俺がレシピと料理、幸樹がフードデザイン、渚紗と美来ちゃんにクッキングの補助をしてもらいたいんだ。最初は店なんて持つのは無理だろうから、俺の親のレストランの片隅に食品陳列ケースを置いてもらって、お客の反応をみるつもりだ」


「面白そう!やりたい!私も色々なお料理を覚えたいから、理久くん教えてくれる?」


「おうよ!」


 任せとけと言った理久の態度だけは大きいいものの、顔が真っ赤になっているのを見て、渚紗と幸樹が冷やかしながら笑い転げている。

 美来と同級生の男の子たちの出会いを、目を細めて見ていた沙和子は、まだ身体も小さい小学生が一端に夢を語る姿に、最近の子供たちはませているとも、頼もしいとも感じると共に、つらい思いをしてきた美来に、友人たちと新しい夢ができたのを心から嬉しく思った。

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