職安通りに

フョードル・ネフスキー

職安通りに 

 職安通りに、1人の美しい女性が歩いているのを私は見つけた。ウェーヴのかかったきれいな栗毛色の髪が肩の辺りまで伸びた、透明感のある顔色の女性の目つきは、キリッとしていて鋭かった。もし真正面からまともに捉えられたならば、心臓をえぐり出されてしまいそうな、そんな瞳を持っていた。


 ミンクの毛皮の、それも足元まですっかりと覆い尽くしてしまうほどのコートを身に纏い、まるで街を行き交う人々に己の勲章を見せつけるかのように、そのコートを左右に揺らしている。


 おそらく芳しい香水で肌を湿らしているのだろう。女性の頸筋や胸元から、淫靡で艶やかな香りが優しく上りあがり、街中にそれが漂いだす。たとえ香りが届かないぐらいの距離が女性との間にあったとしても、妖精が彼女の身体から放たれているのに気付かない人は、おそらくいないだろう。もし気付かないならば、そいつは余程の馬鹿か、童貞に違いない。


 女性の足音は、黒く光るエナメルのパンプスによって奏でられる。色褪せた灰色のアスファルトは、その疲れを彼女の足音に耳を傾けることで癒している。女性の指先には、光を虹色に輝かせるダイヤモンドによって飾られた、銀色のリングがはめられている。存在を悟られまいと、控えめに光っているそのリングも、彼女の指先に出会ったら、光量を増やさざるを得ないのだ。


 ──全てにおいて、その女性は完璧であった。彼女の中に世界中の美が結集されているといっても、決して過言ではなかった。


 彼女を目にするや否や、私はそのとき一緒に街を歩いていた友人に言った。


「見ろよ、あそこにいる女。完璧だよ。あの女を描くためなら、どんな画家でも自分の命を賭すに決まっているよ。そして彼女のうちにある完全な美を表現することができずにいつしか筆を折り、ついには発狂してしまうに違いない。それ程の価値があるんだよ。あの女には」


 友人は私の言葉をじっくり聞いてから、こう返答した。


「本当だ。あれほど美しい女性は今まで生きていて一度もお目にかかれたことがないよ…。確かにお前の言うとおりだ。美しい。だけどよ、あまりにも完璧すぎやしないか。正直空恐ろしいほどだよ。大体こんな遅い時間に職安通りを歩いている女性は、まず間違いなく次のような女だろうな。日本国籍を待たない外国人で、不法滞在、不法就労者。働く場所といったら、これまた卑劣なところでさ。○○式エステとかならまだいいけれど、ああいう女のうちの多くは違法な風俗店で男性に奉仕しているものなのさ。でも、店勤めをしているのならまだマシだ。中には『立ちんぼ』もいるからね。『立ちんぼ』はタチが悪いよ。どんな病気をうつされるか分からないからね」


「おいおい。それは言い過ぎだ。あの女が立ちんぼな訳ないじゃないか。もっとよく見てみろよ。きっと高い教育を受けて来たに違いないんだ。じゃなきゃ、あんな美しい歩き方なんて出来ないものだぜ」

「でもここは職安通りだぞ」


 私は徐々に苛立ち始めた。


「職安通りが何だよ。ひょっとしたら彼女は、世田谷か白金台の高級住宅街で暮らしているどこかの社長令嬢で、今日はたまたま何かの用事でこの界隈にやって来ただけかもしれないんだぜ」

「馬鹿言え。そんなお嬢様がここいらに足を踏み入れるわけないだろ。それに仮にそうだったとしても、お前みたいな野良犬のような顔つきの男に彼女が振り向いてくれるわけがないよ」

「ああ、もういいよ。たくさんだ。俺は今からあの女を追いかけてゆくことにするよ。お前は西大久保公園で自分の小便でも飲んでいろよ。じゃあな。二度と俺の前に現れるなよ」

「くたばりやがれ、チョン公が」


 最後の彼の言葉は不幸にも私の耳には届かなかった。私は大急ぎで彼女の側に向かうことにした。韓国市場の前では、東京見物のついでに本場のキムチを買おうとやって来た日本人観光客の集団がたむろしていた。その集団が邪魔になって、ほんの僅かの間だけ彼女を見失いかけたが、そこを抜けると何とか彼女の位置を確認することができた。大体この時間になると、どこからともなくこの通りには人が溢れ始めるのだ。集団客の日本人と、その他大勢としての外国人が歩道を埋め尽くす。身動きはできるものの、不快この上ない環境である。


 ハレルヤ食堂が道を挟んだ向こう側に見える。歩道にまで乗り出しているテーブル席のうちの一角には、Y教会の連中が食事の前のお祈りをキリストやら何やらに捧げているのが見える。その中に、私のルームメイトが混じっていた。一瞬眼を疑ったが、確かに奴だ。私は見てはいけないものを見てしまったような気がした。ホモのくせにクリスチャンなんて完全にイカれている。そこまでして善い奴になりたいのだろうか。


 そんなことを考えている場合ではない。彼女に近づかなければならない。同居人の事なんて、この際どうでもよいのだ。私は歩く速度を速めた。後何メートルかで彼女に追いつこうとしていた。


 と、その時、驚くべきことが起こった。先程からずっと私に背中を向けて歩いていたあの女性が、何と私の方に振り向き、あろうことか笑顔を作って見せたのだ!


 ──それだけではない。ミンクのコートの袖からひょっこりと顔を出している真っ白な右手が彼女の顔の辺りまで持ち上げられると、甲を空の方に、手のひらを大地の方にして、あたかも空気を愛撫するかのように手首を何度もスナップさせて、私の彼女に対しての追従を許可するサインを送ったのである!!


 私は走った。走って彼女に声をかけようとした。


『ねえ。ねえ、君。これからどこへいくのかい』


 言葉が喉元まで出かかって、あとはそれを発する段階にまで差し掛かったのに、何故か私にはその言葉を発することができなかった。圧倒的な美と魅力に包まれた彼女の視線が、鋭いその視線が、私の野卑な言葉の発話を制止したからだ。一瞬私はたじろいだ。たじろいだのと同時に、自分の軽率な行動を恥じた。額から汗がにじみ出てきた。耐えられなくなったので、私は多くの画家がそうするように、眼の前にいる人物の瞳から視線を外し、それを相手の輪郭の描く曲線に移した。


 私のこのような有様を見ると、女はきっとわたしの動揺が手に取れるように理解できたのだろう、クスッと笑って顔をほころばせた。女の微笑は、私の視線を再度彼女の瞳に移動させた。私の瞳を吸い込んだといっても良いだろう。


 霊妙な輝きが感じられる瞳を私の方に向けながら、彼女は奇妙なことを言った。


「10メートルほど離れたまま、私のあとについてきてもらえますか?」

「?」


 女は視線を反対車線の歩道に向けた。きっと誰かに付けられているのだろう、私はそう理解した。彼女は笑みをみせてから、再び私に背中を向ける。私は約束を守ろうと思った。


 女が私の元から徐々に離れてゆく。私と女との邂逅の地点は、西武新宿駅の北口から東へおよそ200メートルほど離れた、ルーマニア人パブのある雑居ビルの前である。女はそこから西の方へ歩いていった。ここから西に10メートル先にあるのは、南方の歌舞伎町から職安通りへと伸びてくる道との角にあるampmである。ampmの前には、真っ赤なペンキで塗りたぐられた郵便ポストがあった。


 私は女がポストを通過するのを待った。間もなく女がポストに差し掛かると、それを見計らって、私は歩き始めた。


 ──その直後のことであった。冬の夜の職安通りに、一際大きなタイヤのスリップ音と、悲鳴と、車のクラクションの音が鳴り響いた。


 私の眼の前には、アスファルトの路上に倒れているあの女と、頭から道路の上に広がっていく血だまりがあった。道路わきを見やると、しゃがみこんで小刻みに震えているトラックの運転手がいる。


 私は無意識のうちに救急車に乗っていた。


         *


 病院の待合室で、私は女が即死に近い状態で運ばれてきたことを、担当した医者から告げられた。医者は私にねぎらいの言葉を投げかけた。


 私は医者に、彼女には身寄りがいるのかどうか尋ねてみた。担当医が言うには、警察がちょうど今身元を調べているところなので、分からない、とのことであった。また私は、女の屍を見せて欲しいと頼んでみたが、今はできない、と断られた。


 今度は医者が私に頼みごとをした。医者は私にこう告げた。


「実は先程、被害者の女性のカバンの中に入っていた携帯電話が鳴り出したので、私が出たのですけれど、その時に電話の主であった女性に事情を説明しておいたのです。すると彼女は病院まで行くとおっしゃったんですよ。(その方が誰なのか、お名前を伺えなかったので分かりませんが)ただ、私はこれから急患に当たらなくてはならないですし、それにこんな夜中ですからね、病院の職員もそんなにいないので、どうかその女性と会って、ここで待っておくように言っておいてもらえないでしょうかね。しばらくしたら私も戻ってまいりますから」


 私はそれを断る理由もなかったので、承諾した。


 30分ほど経って、待合室の側にある、病院の入口の自動ドアが開いた。例の女である。──彼女もまた、高価と見える身なりをしていた。白いロングコート(おそらく服を換えずに急いでここにやって来たからだろう)を纏い、胸元にはペンダントがこちらをのぞいていた。


 髪は黒いが、毛先にはパーマがかけられており、整髪料がそれに光沢を与えている。両耳に金色の大きなイヤリングを飾って、一見あでやかに見えるけれども、近くに寄ってよく見てみると、顔の方はそれ程派手ではなく、むしろ平らで起伏のない地味な顔立ちだった。


 つりあがった目尻と低い鼻を化粧の力によっていくら西洋風にアレンジしようとしていたとしても、その女がアジア系の女でないということを包み隠すことはできなかった。ブーツは、その皮がいかにも硬そうに見えることから、足元まで金銭をつぎ込む余裕がこの女にはないことが伺える。──外見だけで、この女が自分の肉体を売り物にして生きていることを私は理解することができた。


 その彼女が悲しげな顔をしてひとつお辞儀をしたあと、私はすぐ隣の待合室に彼女を案内し、ベンチに座らせた。私は彼女の対面に座った。しばらく沈黙したまま、私達2人は、互いに自分の指先や爪先を、気にしてもいないのに撫でつけたり、煙草を別に吸いたくもないのに吸ってみたり、あるいは考えることなど無いのに眼を閉じて何事かを考えようとしたりして過ごした。待合室の壁掛時計の針の音が、不気味に響いている。


 やがて彼女は涙を流し始めた。しかしどうやらハンカチを忘れてきたらしい。私は自分のジャケットの胸ポケットからハンカチを取り出して、こんな女にも涙があるのだと感心しながら、それを手渡した。女は片言の日本語で「すみません」と言った。待合室の中には、時計の針の音に加えて彼女の鼻をすする音も響き渡るようになった。


 時計を見た。壁掛時計の短針は2の文字の下にあった。私は急に眠気を感じた。疲れた。家に帰ってゆっくり眠りたい。女がこのような状態である以上、ここに残っているのもきまりが悪いし、だいたい自分がここに居る理由もそもそも無いのだ。私は席を立った。そして入口の方に身体を向けて、帰ろうとしたその時、不意に背後から、「あたしと一緒にいてください」という女の声が聞こえた。


 自分はここにいる理由が無いから帰るのだ、と私が言うと、彼女は席を立って私の方に近寄り、そして抱きついた。私は不快だった。耳元で彼女が囁いた。


 「いつもだったら、に万円だけど、ただでさーびすするよ。だから・・・」

 

 私は彼女に手を引かれて、一階に設置されてある一般客用の女子トイレに連れて行かれた。私達はそこで行為に及んだ。私は嬉しくも快くもなかった。行為の途中、何度も裸になった目の前の女を、今日街で見かけてそして死んでしまったあの女であるように見立てていそしんでみたけれども、そこには無理があった。眼の前のHellcatをいくら死んだあの女であると信じようとしても、Hellcatを眼にした途端に私は幻滅するのである。


 トイレから待合室に戻ると、彼女は重い口調ながらも、自分が死んだ女とどのような関係にあるのかを語り始めた。彼女が韓国人(何と同胞である!)であること、死んだ女は自分のルームメイトであること、死んだ女は自分より2つ年下であること、彼女が死んだなら自分に身寄りが無くなるといったことなどを、私は知った。


 だがそんなことよりも、私は死んだ女のことをもっと詳しく知りたかった。彼女にいくらか質問をしてみたのだが、そこで知ったことは少なからず私にショックを与えた。あの死んだ女も何と、この女と同じく、『立ちんぼ』であったのだ・・・。だが死んだ女は、普通の立ちんぼとは少し違った。立ちんぼのほとんどは、日本で言うところの不法滞在の外国人女性であるのだが、彼女は純粋な日本人であったのだ。


 もともと水商売をするようなタイプの女性ではなかったようだ。13歳までは、名古屋市内の、銀行員である父が一家の生計を為す、幸せで愛に溢れる家庭で育った。だが13の夏に、両親と2人の兄弟を交通事故で亡くし、その後しばらく父方の叔父の手に預けられた。その間にも不幸は重なった。身内がたて続けにこの世を去り、いつの間にか親族と呼べるものはこの世でその叔父だけとなってしまった。


 独身である叔父は自ら興した事業に失敗し、多額の借金を抱えていた。日々の食糧を手にするために彼に残された道は、ヤクザ稼業しかなかった。暴力団と手を組んでいくうちに、叔父はその気苦労の捌け口を、引き取った年頃の姪に求めた。彼は毎日のように姪の肉体を我が物としていたのであった。


「てもね」


 韓国式のアクセントで、涙ながらに彼女は言った。


「その叔父、えいじゅ患者なの。もうあの娘、じゅうろくのときにえいじゅをうつされた。それからあの娘、男たちを復讐しはじめたの」


 初めはキャバクラだった。30代から50台の客を捕まえては行為に及んだ。彼女の素行が店にバレてクビになった後、彼女は上京した。当然ながら水商売の世界に足を踏み入れて、客を誘惑しては夢中にさせて、狂わせて、金を手にした。


 何度か店を転々としていくうちに時間が過ぎていった。新たな風俗業に身を投じても、男を狂気に追い込めない環境であると分かったらすぐに、自分からそこを辞めてまた新たな職場を探し出す。そのようなことが何度も続いていくうちに、彼女は22になった。


 若さが抜けてなくなっていくかのように日々衰えていく肉体は、彼女に焦りに似た感情を与えていたに違いない。もう彼女のために残されていた職場は、東京中を探しても残されてなかった。独り立ちをして、自らの手で環境を切り開き、自らの存在意義を満たしていく以外に何も用意されていなかったのである。


 獣のような洞察力と異常な執着心を持ち合わせている彼女は、決して倒れたりはしない。彼女は生きていくことを常に選択し続けた。それも全ては、男達への復讐のために。──彼女の足が極めて自然に、まるでそうなることが予め決まっていたかのように、職安通りの裏にある薄暗い十字路に向かったのは、このような事情に拠っていたのである。


 私は眼の前の同胞に、彼女といつどこで知り合ったのか聞いてみた。しかし聞いてみてすぐに自分が恥ずかしくなった。その十字路に決まっている。金の無い立ちんぼ同士でルームシェアをすることにしたのだ。何しろいつも綺麗にする事だけで収入のほとんどが消えてしまうのだから。事実、同胞の答えはそれとほぼ変わらなかった。聞いた自分が浅はかであった。


 しかし、美しいものと醜いものが一緒になるということは、どうしてこれほどまでに我々に複雑な感情を抱かせるのだろう。


 正直に言ってしまえば、死んだ女がどんなに悲しい歴史を背負っていたかなどに対して、私は微塵も同情していなかった。ただ、あれほどの美しさと、卑劣極まる心とがあの女という一点で結びついていたという現実に、私は激しく苦悩した。泣きたい衝動に駆られた。父と母が死んだ時でさえ出ることの無かった涙が目の奥から溢れ出そうなのを、私は必死にこらえていた。


          *


 薄暗い廊下を歩いていた。ひんやりとした空気を吸いながら落ち着こうと努めてみたが、心音は一向に収まる様子がない。


 やがて、線香の香りが漂い始めた。遺体安置室は目の前にある。


 中に入ると、そこには無機質なベッドと焼香台以外何もなかった。遺体に手を合わせてから、私達2人はベッドの方に振り向いた。彼女が震える手で、おそるおそる遺体の頸にかぶせられた白い布を取り除けていった。露になったものを見て、彼女は再び泣きじゃくった。


 車輪に潰された顔は見事なまでに復元されている。しかし、押しつぶされた部分はピンク色に染められており、生々しかった。それは全く美しくなかった。

 

 ──私達2人は病院を出てタクシーを拾うことにした。時刻はそろそろ午前3時を回ろうとしている。運転手に行先はと問われると私は、職安通り、と伝えた。


 そして私は隣にいる女に、これからどうして暮らしていくのか聞いてみた。彼女は、分からない、とだけ答えた。国に帰るつもりは無いのか、と訊ねてみた。彼女は、金がない、と短く答える。


 私はどういうわけかこの時、急に朝鮮語を口にしたいという欲求が高まった。それは適切ではないのだと、必至に欲求を圧し、窓の外を眺めていた。


 職安通りでタクシーを降りた後、別れを告げようとしたのだが、女は一向に私の元から離れようとしない。私は女の住所を聞いた。彼女の住むアパートは、私と同様、職安通りの裏にあるらしい。


 仕方がないので私は彼女に向かって、一緒に暮らさないかと提案してみた。彼女は少し驚いたような表情を見せてから、2、3秒ほど考え、首を縦に振った。その反応をみてから、私は同居人の携帯に電話をして、今すぐ部屋を出てくれ、と頼んだ。もちろん理由を問われてしまったが、私は、ホモであるお前と俺の趣味の違いだ、と答えておいた。


 (了)

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職安通りに フョードル・ネフスキー @DaikiSoike

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