第26話

家までの道のりは足が重かった。



一度帰宅してしまえばもう好きに外出することはできない。



近所のコンビニ、ううん、すぐ近くにある自販機まで行くのにも父親の了承を取らなくてはならないのだ。



そしてたいていその了承が降りることはなかった。



ジュースなんて飲まなくていい。



お菓子なんて食べなくていい。



そんなものは用意してあるだろう。



どうしてそれじゃダメなんだ。



そんなダメだしが直接頭の中に聞こえてきた気がしてクルミは歩道脇にしゃがみこんでしまった。



しゃがみこんだ道路には汚い100ライターが落ちている。



それを見たクルミは一瞬顔をしかめたが、すぐにまた悲しげな表情に戻った。



自分はこのライター1個自由に買うことができないんだ。



そんな人生になんの価値があるというんだろう。



経営学を叩き込まれて知識ばかりが増えていっても、それは本当に自分がやりたいことではないのに。



クルミは目の前に落ちているライターに手を伸ばした。



普段なら踏んづけて歩くようなそのゴミを大切そうにポケットにしまう。



たとえばこのライターで家に火をつけることができれば、自分の人生を位置からやり直すことができるんじゃないか。



考えながらフラリと立ち上がる。



クルミの脳内に家が燃えているイメージが浮かんできた。



ゴウゴウと炎の音を立てて燃え盛る屋敷。



オレンジ色の熱から必死で逃げまどう両親たち。



その髪が、皮膚が、炎によってチリヂリに溶け出していく。



人の燃える強烈な臭いが鼻腔を刺激して、吐き気がこみ上げてくる。



そこまで想像したクルミは少しだけ気持ちが落ち着いて、ゆっくりと帰路を歩き出したのだった。


☆☆☆


「お父さん、私、なにかスポーツをしてみたいの」



それはクルミにとって勇気のいる一言だった。



夕飯を食べていた父親は料理から視線を外さずに「授業でしているだろう」と、返事をした。



「そうじゃなくて、部活動とかで。テニスとかいいなって思っているんだけれど」



おずおずと話すクルミに対し、父親は表情も変えない。



母親へ視線を向けると、すぐにそらされてしまった。



「そんなことよりも勉強だ。運動は勉強の気分転換にやればいい」



「でも、それじゃ部活動には参加できないじゃない」



そういってみても父親はもう話は終わりだとばかりに会話を止めてしまった。



クルミの胸にはわだかまりだけが残る。



「勉強だって体力を使うことだから、同じことよ」



母親は今の会話にさして興味なさそうな声でそう言ったのだった。



食事が終わると少しの休憩時間が挟まれる。



平日、家の中で唯一誰にも監視されない時間だ。



だけどこの時間が終わればまた勉強が始まる。



勉強が始まればクルミのとなりには有名大学の家庭教師が張り付き、家の中ですら自由にる歩くことができなくなってしまうのだ。



クルミはこの貴重な数十分を使うため、ポケットの中にあのライターを隠し持っていた。



道路に捨てられていて、汚い100円ライター。



コンビニに行けば誰だって手に入れることのできる、安っぽい商品。



だけどクルミはこれすら自分の意思で購入することはできない。



どれだけブランド品を買い与えられても、それは父親や母親が選んで買ってきたものなのだ。



クルミの意思はその中に反映されていない。



クルミはポケットの中に手を突っ込んでライターの感触を確かめながらトイレに向かった。



この家のトイレは無駄に豪華で広い。



子供の頃はこれが当たり前だと思っていたが、学校に行くようになり、個室の存在を知ってからは家のトイレなのに落ちつかない気分になっていた。



クルミは3畳ほどあるトイレの真ん中にトイレットペーパーを丸めて置いた。



くしゃくしゃのトイレットペーパーがトイレの床にある様子はどこか滑稽で少し笑ってしまう。



けれどすぐに顔を引き締めてライターを取り出した。

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