第七章 -負け犬どもの哀歌-

7-1 : サイハ・スミガネ

 街と人には激変が起きていたが、荒野と天高く乾いた空はそんなことなど気にもめずに巡ってゆく。


 が沈み、月が輝く。

 星々が瞬き、が昇る。

 また夜が来て、そして再び朝がやってくる。


 あれから二晩。


 サイハは一人、細い路地裏を彷徨さまよっていた。


 千鳥足を踏み、手には酒の空き瓶が握られている。


 悪酔いする安酒である。しかもサイハは十九歳と、この街での十八歳成人を迎えてこそいたが、ほとんどめない下戸げこだった。


 嫌なことを酒で忘れようとする大人たちの衝動を、青年はその日初めて身をもって思い知っていた。


 ジェッツに喫した大敗北。

 エーミールの涙混じりの怒声。

 そして、傷ついたリゼットの、冷たい眼差まなざし……。


 押し寄せる無数のフラッシュバックに、息の仕方も忘れてしまう。


 ふと気づけば、こうしてめもしない酒にすがりついていた。



「へ、へへへ……あー、何らぁこりゃぁ……お空が回っれんぞぉ、へっへへ……」



 酩酊めいていした視界がぐるんぐるんと渦を巻く。光の雨が降る。まるで別の惑星へ降り立ったかのよう。



「こんらにお天道様おてんろーたまがグルングルンしれちゃあよぉ、すぅぐ昼にらって夜にらるぅ……あっちゅー間にジジイにらっちまうじゃあれぇかぁ……へへっへへ……」



 舌がもつれ、思考が迷う。夢見心地でいるこの瞬間だけ、サイハは何も考えずにいられた。


 脚が絡んでゴミの山に倒れ込む。

 その拍子、酒の力で細切れにしていた記憶が噴き出した。


 荒らされた〈ぽかぽかオケラ亭〉。

 血で書き残されたメッセージ。

 地獄を見てきたという男の、ヘビのような目。

 目の前でへし折れていくリゼットの、聞こえない悲鳴――



「――……はぁっ! はぁっ! むぐっ……!」



 まるで溺れた者が空気を欲するかのように、酒瓶へ吸いつく。

 ほんの一時の救いを求めて振った空き瓶から、なけなしの一滴が滴り落ちて舌をらした。



「………………あぁっぁぁああ゛っ!!」



 ガシャンッ!


 たたきつけた瓶が粉々に砕け散る。


 芯まで酒に溺れることは、結局一度もできなかった。

 泥のような意識の底で、「こんなことに意味はない」と考えている自分がいるのがつらい。



「…………くそ……くそぉ……っ! オレは、負け犬だ……。何も、何もできなかった……っ。誰だよ、酒で楽になれるなんて言った奴は……全然、全然……楽しくない……救われない……っ!」



 弱さに押し潰されて酒にすがった先に、救いなどなかった。


 あるのは一瞬だけもたらされる逃避と、その代償に押し寄せてくる自己嫌悪。

 その先には何もない。

 あるのはサイハの彷徨さまよい込んだこの路地と同じ、どん詰まりだけだった……


 そのようにしてサイハが腐っていると……ふと、首にまとわりつく感触が意識に引っかかった。


 それはだるだるのヘッドバンド。


 これまで肌身離さず首にぶら下げていた、改造ゴーグルだった。


 ゴーグルの右目の偏光レンズと左目の望遠レンズとが、サイハのことをじっとのぞき込んでいる。



「……何だよ……」



 サイハの問いかけに、返ってくる声はない。


 当然のこと。〝モノ〟は言葉を話さない。

 それができるのは〝人間〟と……〈蒸気妖精ノーブル〉だけ。


 けれど。

 サイハにはそのゴーグルが、何かを語ろうとしているようにしか見えなくて――



「――分っかんねぇよっ!!」



 ガンッ!


 カッとなって、また激情で何も見えなくなる。


 気がついたときには、壊れたゴーグルがサイハの足元に転がっていた。


 理想を形にするには、何時間も、何日も、何年もかかるのに…………それを壊すのは、こんなにも一瞬で。



「……ぐっ……うっ……う゛ぅぅーっ……」



 それがサイハには、たまらなくむなしかった。

 苦しくて悲しくて悔しくて、ゴミの山にうずもれたまま、嗚咽おえつみ殺しながら涙を流す。


 無力だった。

 どうしようもなく無力。

 どうして生きているのか、わからなくなるぐらいに。



「……オレが、代わりに死んでりゃ良かったんだ……十年前、オレが、義親父おやじの代わりに……」




 ◆




 ――酒が身体から抜けていくにつれ、サイハは自分の前に高い高い壁がそそり立っているのを感じていた。


 それは義親父おやじと呼んだ男の背中と、ジェッツの立ち姿とが重なったものに見えた。


 大きすぎる背中。


 自分の存在があまりに矮小わいしょうで、自分の人生があまりに無価値で、生きていることがあまりに陳腐に思えてしまう、壁、壁、壁……。



「……。……オレ……どうやってここまで来たんだったっけ……わかんねぇよ……もう、わかんねぇよ…………」



 そうして無気力に沈んでいくサイハが、何もかも手放そうとしたときだった。


 チカリ、と。


 目の端を照らすものがあった。


 不思議そうに、サイハが涙にれたままの目を気配のしたほうへ向ける。


 路地の壁に切り取られた四角い空から、陽光が降り注ぎ。

 あの壊れたゴーグルがきらめいていた。



「…………」



 ……否。


 それは壊れてなんていなかった。


 偏光レンズも望遠レンズも、砕けてバラバラになっていたけれど。

 その下にあったもの、、、、、、、、、には、未だひび一つ入ってはいなかった。



「…………」



 それは何年振りかに目にする、サイハ手製改造ゴーグルの、改造前、、、の姿。


 それは十年前、崩落事故現場から唯一無傷で戻ってきた、あの男の忘れ形見だった。



「……。……何なんだよ、さっきから……」



 見るのもつらいのに、どうしても捨てられなくて。

 だから改造して、別の形と意味を与えていたゴーグル。



「そんな目で、見ないでくれよ……――義親父おやじぃ゛……っ」



 たった一つ手元に残った、義父の忘れ形見。


 それが今、幼い日の記憶にある姿のままで、サイハのことを見つめていた。


 じっと。


 何も言わず、ただじっと……




 ◆




「――…………」



 ……ふらつく足を、重く引きずりながら。


 サイハが、どん詰まりを後にしてゆく。



「…………」



 自分がどこに向かっているかもわからない負け犬は、けれどあのゴーグルだけを、固く握り締めていた。

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