★Step34 春風の思い

風が夏子を包みます。心地良い柔らかな風です。ぼんやりと過ごすには絶好の陽気です。夏子は春の風景を眺めていました。桜の花が満開で、街が薄いピンク色に染まった様に見えました。空には雲も無く、良く晴れた青空でした。そんな中…


屋上の入口が開かれた事に気がついて夏子は、その方向に視線を移します。未だ授業中の筈です。自分と同じ気分の人物でも居るのだろうか、そう思って、夏子は屋上の入口に向かって、ゆっくりと振り向きました。


――南…


彼は夏子に方にまっすぐ歩いて来ます。そして、彼女の横まで来ると、屋上からの景色を眺め、こう切り出しました。


「何やってんだよ、授業中だぞ…」


二人は視線を会わせようとしません。夏子の思いは、今更どうして現れたのかと言う気持ちでいっぱいです。


「ん、見れば分るでしょ、サボってるの」


夏子の態度は明らかに他人行儀で、南の事は相手にしていないと言う態度が明確に見て取れます。


「もう直ぐ受験だろ、大事な時期だ」

「分ってる…でも、どうしてかな、なんだかどうでもよくなっちゃった」


夏子は自分のつま先に視線を落としながら、更にこう続けました。


「不思議だね、そう思ったら、心が物凄く楽になった。戦わなくても良いって思えるからかな、こんな気分もまんざらじゃないわよ」

「逃げる気か…」


夏子は南のその声に少しムッとしますが、何故か怒りはそれ以上高まりませんでした。何故ならば、自分と南は、もう関係が無い。関係無い人物が何を言っても気に成りません。風が吹いている様な物です。


「――別に…」


夏子はそう言って、苦笑い…何故なら南の口癖が無意識に出てしまったからです。


「別にって、お前…だったら…」


夏子はゆっくりと屋上の中心に向かって歩いて行きます。


「どう、意外と傷つくでしょう、この『別に』って言うフレーズ。何もかも否定してるみたいで、私は嫌いよ…その言い方」


そう言って夏子は南に向かってくるりと振り向きます。


「もう、嫌になったのよ、この言葉を聞くの…」


振り向きざまの夏子の言葉に南の心が凍ります。自分の態度が夏子を傷つけていた事を南はそこでやっと気が付きました。


しかし、南は、この通り不器用で人との付き合い方が良く分りません。だから、夏子には何にもしてやれないのです。


「リンダと、仲良くね。彼女、女の私から見ても、良い子だと思うわ。計算高く無くて、何事にも本音で…」


夏子はそう言って屋上の入口に向かって歩き出しました。それに気がついた南が夏子に向かって振り向くと


「リンダは関係無い…」


そう、小さく呟くました。


風がさらりと吹き抜けます。春の香りは土埃の混じった乾いた物ですが、不快な物では有りません。


「――関係無いなら、どうして私にそんなに冷たいのよ」


夏子の心が再び曇り始めます。興味無いならほっておいて欲しいのに、南は自分の心に、ずかずかっと土足で入って来ます。こんな奴、もうどうでも良い、どうでも良い筈なのに…


南は屋上の入口のあたりでたしどまっている夏子に向かって駆け出しました。そして、彼女の前に回り込むと、肩を抱きます。そして力強く抱きしめました。


「ごめん…悪かった…」


南は要約、自分の非に気が付きました。自分の行動が、一人の女性を不安にさせた、それをやっと理解する事が出来たのです。抱きしめた夏子の体は、小刻みに震えているのが分りました。そして、頬を伝う涙も。


南はそれを、優しく拭うと柔らかに彼女に口付ました。春の風は柔らかく、それでいて凛として、二人の思いを温かく包む、そんな、優しい風でした。

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