第57話 左手と右手

「え? え?」


 樹里はしゃがみ込んだまま、斎藤さんが好きなんです、ともう一度呟いた。ブンタのパタパタと揺れる尻尾が視界に入る。それがほんのりと、樹里と現実を繋いでいる気がした。頭の中、心の中は、理解が追い付いていない。あんなに戦ってきたヒロミが、幻だったなんて。自分に呆れ、良かったと安堵し、抑え込まれていた感情が垂れ流される。何の抑制もなく、自然に。


「ん、え? 何があった?」


 樹里の中に何が起こったのかなど、斎藤に分かるわけがない。何度もこう繰り返し、ソワソワと落ち着きのない影が揺れる。それを見ながら、樹里は懸命に頭の中を整頓していた。今まで一年近く勝手に戦ってきた相手は、幻。姿は姪っ子で、その名は中野宏海という幼馴染の男性のもの。あぁ何と馬鹿らしいことか。目の前がパッと晴れ、障害が何もなくなった。


「私、斎藤さんが好きです」

「あ、えっと……」

「あぁ……そうですよね。ホント急に何だって話ですよね。ごめんなさい」


 ようやく、樹里は立ち上がる。ふぅ、と伸びをしてスッキリした顔を見せた。ヒロミが関係なくとも、フラれてしまえばもう終わり。これ以上関係が進むことはない。引っ越しも本腰を入れられるだろう。


「あ、えっと……そうじゃなくて」


 斎藤が慌てたように、胸の前で掌をパタパタ動かす。樹里はもう、引っ越しをしようとばかり考えている。彼の言葉は、まだ聞いていないというのに。


「えっと……ご、ごめんなさい。あのお付き合いは」

「……ですよね。大丈夫です。忘れてください」

「あ、いや。だからそうじゃなくて」


 斎藤は、ポリポリと頬を掻いて口元を歪めた。「お付き合い……いや。あの」と言ってから、ふぅ、と大きく息を吐く。そんなに何度も、正式に断ってくれなくてもいいのに。急に解放され、羽ばたき始めた感情が、徐々に冷えて萎んでいく。


「結婚、して貰えますか」

「は……い?」


 結婚と言ったのか? フラれる方向でいじけ始めた頭が、今度は一気に破裂した。それから時差で、ボッと顔中が赤くなる。結婚ですか、と思わず問うてみたが、自分でも聞いたことのない声が出た。ガチガチの緊張した声だ。好きだだと伝えたのは樹里。でも、結婚がしたくて言ったわけではない。ヒロミと仕事を言い訳にして、押し込めていた乙女のような想い。それが堰を切って、彼に流れ着いただけのはずだった。これは、一体どういうことだ。また違う混乱が、樹里の中に沸き起こる。


「あぁぁ、えっと。僕の言った順番も良くなかったです。ちょっと一回忘れましょうか。深呼吸でも、します?」


 樹里だけじゃなく、斎藤も気が動転しているようだ。何度も額に手をやって、かいてもいない汗を拭おうとしている。一回忘れるとはなんだ、と思いつつも素直に深呼吸をし、樹里はおずおずと目を合わせた。その間で、ブンタは嬉しそうに尻尾を振っている。


「あの……僕も、松村さんが好き、だと思っています」


 きょとんと彼を見ていた目を、驚き見開いた。バカみたいにちょっとだけ開いた口が閉じられない。


「こんなおじさんですし……で、デートにも誘えませんでしたし。伝えることもないと思っていたんですけど……お恥ずかしながら、そういう気持ちを持っています」

「は、はい」

「ですが、僕はただお付き合いをするのではなくて、結婚というものもきちんと考えていきたいと思っています。もう五十過ぎてますし、何かあった時を考えちゃうんですよね。ただ、松村さんは結婚を望まれていないですよね」


 斎藤はそう言って、真っ直ぐに樹里を見る。「なので、お付き合いはできません」と、ハッキリと言った。少し悲しそうに。


「あの……それはちょっと違うかも、知れないです」

「え?」

「絶対に結婚をしたくないわけじゃないんです。あんなことがあったので……強がりもあったかも知れません。結婚をしなければいけない風向きが嫌になった面も、確かにあります。結婚をしなくても、仕事があって友人もいる。それで幸せだと思えたから。でも……その、結婚がしたくないわけではないんです。相手を探すようなことはしたくないですけど」


 ちょっと必死になっていた。結婚をしたいとは、今も強く思っていない。けれど、そんなことよりも彼の傍にいたい。樹里の本心の叫びだった。

 二人の間に沈黙が訪れる。樹里は相手の言葉の意味を飲み込もうと、必死に心を落ち着けた。長く、短い間を置いて、二人はゆっくりと目を合わせる。首を傾げた斎藤が、ということは? と問うた。ゴクンと生唾を飲み込んでから、樹里は一度だけ、静かに頷いた。


「えぇと、それって……」

「よ、よろしく……お願いします」

「本当に?」


 今度は斎藤が目を丸くする。ウンウンと樹里が頷くのを確認すると、やった、と彼は笑った。無邪気な少年のように。樹里には、喜びに浸れる余裕が全くない。自分勝手な勘違いで拗らせていた時間が、まだここに追いついてこないのだ。よろしくお願いします、と頭を下げた彼に、樹里も釣られてそうする。戸惑いと興奮が、同時にパレードをしているような気分だった。緊張漂う空気の間で、ブンタが嬉しそうにワンと吠える。二人はゆっくりと、その方向へ視線をやった。嬉しそうに尻尾を振るブンタ。ようやく二人に、フフフッと柔らかい笑い声が零れた。


「あ、そうだ。二人で引っ越すのも手じゃない?」

「え、えぇ? あ、いや、えっと」

「冗談です」


 斎藤がケラケラと笑って、涙目を擦る。ゆっくり行こうね、と微笑み直した彼は、スッと左手を差し出した。おどおどしながら、ジッとそれを見た樹里。斎藤はその手で、樹里の右手を握った。少し汗ばんだ手を握り返す。そこに彼の緊張がある気がした。あぁもう思い悩まなくていいんだ。右手が感じる温かさに、少しずつ安堵が広がる。もう一度キュッと握ると、彼も握り返してくれた。それを見つめて、樹里は静かに微笑んだ。だいぶ遠回りをしたけれど、実った恋。無駄な時間だったかも知れないが、それもこの恋の一部だ。

 二人と一匹は並んで帰路につく。来た時とは違った、心の温かさを抱えて。「帰ったら、ご飯一緒に食べようか」と斎藤が微笑む。樹里は目を合わせて、はい、とはにかんだ。

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