第56話 本音が零れた

「あ、まぁくん。お店、早く閉めたんだね。今日が発売日だったでしょ? だからさっき行ったのに」

「ヒロミ、いいから帰れ」

「帰れって何。たまたま通りかかっただけじゃん。ねぇ、ブンタ。元気だった?」


 そう言って身を屈め、ブンタをグルグルと撫でまわしたヒロミ。ブンタも慣れているのだろう。すぐに腹を出して、嬉しそうにじゃれた。そして樹里は、ただ困惑している。


「今ね、買って来たの。カレー。象、目立ってたね。いい絵だ」

「だから、帰れって」


 二人のやり取りを、後ろの方から黙って見ている。いや、見ているというよりも『呆気に取られている』が正解かも知れない。


「あれ? デートだった? ごめん、ごめん」

「だから、帰れって言ってんだろ」

「いいじゃん。ご挨拶しなきゃ」


 そう言ったヒロミが、樹里の前に立つ。こんばんは、と言う斎藤よりも少し高い声。この人も優しい人だと思う。そんな声色だった。


中野ナカノ宏海ヒロミと言います。まぁくんとは、幼馴染でね。かれこれ四十年以上の付き合いになるかな」


 目を細くして微笑み、よろしくね、と言った。ぼんやりと覚えていたあの女の子ではない。確か、店で何度か見かけた人だ。じゃあ、勝手に戦ってきたとはいえ、あの女の子は誰? 彼女がヒロミではなかったのか。段々とパニックになった樹里は、斎藤に助けを求めていた。


「松村さん、大丈夫?」

「松村さん? え? あぁ本当だ。あの象ね、僕が描いたんだよ。でしょ」


 ぎこちなく頷いて、ブリキのように口元を緩めた。彼が、ヒロミ? 何が起こっているのか、分からなくなってしまった。このやり取りの中で確信したのは、彼は中野宏海。斎藤の幼馴染のであることだった。


「もう、宏海はいいから帰れ。カナコ帰って来るだろ」

「もう帰って来てるよ。それで話になったから、まぁくんのカレー買いに出て来たんじゃん」

「はいはい。分かった、分かったから。帰れ」

「はいはいはい。帰りますよ。もう」


 斎藤には不満そうな顔を見せた宏海だったが、樹里には「きっと、また会えるかな」とニッコリ微笑んだ。意味が分からなかったが、ぎこちなくとも笑みを返した。それに満足したように頷いた宏海は、プラプラとエコバッグを振りながら消えて行く。その背を、二人と一匹は並んで見ていた。

 戸惑う樹里。嬉しそうなブンタ。その脇で、はぁぁぁ、と大きな溜息を吐く斎藤。余程会いたくなかったのだろう。ごめんねぇ、と消え入るような声が聞こえて来る。


「アイツ。昔っからさぁ、あぁやって首を突っ込みたがるんだよな」

「宏海さん」

「ん? そう、宏海」


 樹里はなかなか思考が纏まらない。急に、目の前にいたはずの対戦相手が消えてしまったのだ。あんなに戦ってきたあの子は誰なのか。ヒロミ、だと思い続けたあの子は一体。


「斎藤さんの彼女、いらっしゃるじゃないですか」

「え? は? 彼女……は、いないけど」

「三田のレストランでウェイトレスしてた、あの若い女の子ですよ。あの子が、ヒロミさんじゃないんですか」


 混乱し過ぎて、若干の怒りが入り混じっている。そんな風に言われても、斎藤は困るだけなのに。今、ちゃんと確認しなきゃ。樹里はどうしてか焦っている。


「若い女の子? あぁ姪っ子かな。暇だった二男の娘たちが、交互に手伝ってくれてたんだよね。そのどっちかかな」

「姪っ子……」

「姪っ子だね。姉妹のどっちかだと思うよ。あぁそうだ。松村さんが来てくれた時、確か宏海もいたな。飯食いに来てて。アイツは本当に、タイミングがいいのか、悪いのか」


 姪っ子? 姪っ子を彼女だと思い込み、一年近く悶々としていたというのか。パニックになりながらも、冷静にあの店に行った時のことを思い出す。席に案内された時から、幸せそうな若夫婦が店をやっていると思っていた。そして、キッチンから彼が呼んだヒロミ。それが向けられたのは、あの女の子ではなかった。その場にいた幼馴染を呼んだだけ。つまり、樹里は出だしから間違っていた。初めに間違った見方をしてしまったから、全てがその方向で繋がってしまったのだ。

 樹里は顔を両手で覆い、大きな溜息を吐きながらしゃがみ込んだ。


「どうした? え、え? 大丈夫?」


 心配そうな声が、樹里に掛けられる。ブンタも、覗き込むようにクゥンと鳴いた。自分の馬鹿さ加減に呆れ、そしてドッと疲れが出るくらいに安堵している。もう一度、大丈夫? と斎藤が声が聞こえた時、ポロっと樹里の本音が零れた。好きです、と。

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