第42話 終わったこと

「ごめんなさい、斎藤さん。私……ちょっと、用事が」

「あ、えっと。だ……はい。では、僕はここで」

「お疲れ様です。また来週、伺いますね」


 何とか、ぎこちなくとも、必死に笑みを作った。一瞬だけ困惑したように見えた斎藤は、小さく会釈をしてから手を挙げて去って行く。その背を確認して、樹里は男の腕をコートの上から掴んだ。とにかく会社から離れたい。できるだけ人のいない場所へ行かなければ。 

 何も言わないままで、ズンズンと北へ進んだ。急いでいるのに、変わらない信号。男は無言のまま、樹里の脇に立っている。今は口を開いてはいけない。ここで話を始めてしまったら、止まらなくなってしまう。強張った表情で、男も黙ってついて来る。どこに向かっているのか分かっているのだ。しばらく歩いて着いた公園。丁度、互いの会社の真ん中。六年半、よく待ち合わせをしてきた公園である。

 そして、樹里は手を離す。ここまで掴んで来た、千裕の腕を。


「何しに来たの」


 樹里から発せられたのは、驚くほど低い声だった。イライラとモヤモヤで、心に黒色が広がっていく。その顔を見たからだろうか。「他に会える方法が思いつかなかったんだ。ごめん」と、彼は素直に謝るが、それでも樹里が彼を見る目は冷たい。乙女のように緊張しながら、斎藤と並んで歩き始めたのに。心も淡く弾んで、家まで幸せに帰れるところだったのに。本当に最悪のタイミングだった。仮に重要な用事があったのだとしても、だ。普通、誰かといる時に話しかけないだろう。余計に腹が立った。


「樹里。やり直さないか、俺たち」

「……は?」


 驚く樹里を、千裕は真っ直ぐに見ていた。目を合わせてから、腰を折るように頭を下げる。一体、今更何を言い出すのか。千裕とやり直す気持ちなど、もう一ミリもない。こう言われて、プラスの感情が働かない。生まれたのは、苛立ちだけだ。ただ彼が、目の前から即座に消えてくれることだけを願っていた。


「いや、ないでしょ。自分が何をしたか分かってる?」


 あの時の悲しみが蘇り、虫唾が走った。それがまた、樹里の怒りを煽る。嬉しい、とでも言うと思ったのだろうか。


「樹里……話を聞いてくれ。頼む」


 そう言って、また深々とお辞儀をする白髪が混じり始めた頭を、ぼぅっと見つめた。付き合いたての頃になかったそれは、六年半の長さを表しているようだった。


「俺、騙されてたんだ」

「え?」

「小笠原に」


 深刻そうに千裕は言うが、樹里はすぐにそれを察する。あぁ、と冷たい声が出た。やっぱりそうだったのか、としか思えない。それが香澄という女だ。


「知ってたのか」

「いや、知らないけど。でも、疑ってはいたよ。子供なんて、いないんじゃないかって」


 朱莉も言っていたアイスコーヒー。それから、エコーだって。けれど、樹里が最も信用できなかったのは、香澄自身だ。あの子が言うことを、全て真に受けていいとも思えなかった。それに、千裕を信じたかったのだ。あの時は。


「やっぱり、知ってたんだな?」

「違うわよ。彼女の言うことが、百パーセント真実だと思えなかっただけ。それに、ちひ……あなたのことを信じたかったのよ。だって、六年半も一緒にいて、そんなことをするようなだと思いたくなかったもの」


 この男を信じようとした自分を殺してしまいたい。今思えば、そのくらい馬鹿らしい時間だった。六年半も一緒にいて、何を見ていたんだろう。上辺しか見ていなかったことに、樹里は少なからず落ち込んだ。浮気なんてできるような男じゃない、そう信じていた。でも、その信頼を消し去ったのも千裕だ。そういうことはしていない、とは言ったが、嘘をついてまで香澄と二人で会っていたのは事実だったはず。だから、子供ができていなくてもセックスをした、若しくはそれが疑われる事実がある、と今でも思っている。


「あの後すぐに、小笠原に会った。アイツの話をちゃんと聞いてから、樹里ともう一度話がしたかったんだ。そうしたら、エコー写真っていうのを見せられた。俺にはそんなことをした記憶はなかったけど……確かに一度、アイツの部屋に行ったことがある。酒を飲み過ぎて、帰れなくって。朝起きたら、アイツの部屋にいたことがある。一度だけ」


 千裕の目は本気だった。彼の記憶は、そうなのだろう。でも樹里は、千裕のしそうなことを想像できている。六年半で染み付いたことが、そう思わせるのだ。


「あなたのことだから、全然記憶がないんじゃない? 朝起きたら彼女の部屋にいた。夜のうちに何があったかは、覚えていない。多分そんなところよね」

「そうなんだ。そうなんだよ。子供ができたって言われて。簡単に堕ろせなんて言うなって、樹里言ったろう? だから俺、一度は腹を括ったんだよ。でもさ……樹里にばったり会って、俺このままでいいのかって思って。小笠原ともう一度話し合ったんだ。素直にあの夜のことを覚えていないって」


 一つ一つ丁寧に説明しようとする千裕を、樹里は黙って見ている。本当はもうどうでもいい。それでも聞いているのは、これを最後にして欲しいからである。恨まれたくもないし、面倒なことになるのも避けたい。だからこれは、冷静に対応をしないといけないこと。彼の話を遮ってはいけない、と心が警鐘を鳴らしていた。


「アイツさ。病院に行って来たよって、エコー写真見せて来るんだ。大きくなって来たねって。それなのに、腹の大きさはちっとも変わらない。ぺったんこのままで、おかしいだろって。それから二ヶ月かけて、全部聞き出した。だからようやく、樹里に……」

「あのね」


遮るまいと心していたけれど、我慢できなかった。結局、何も分かっていないのだ。この男は今も、自分可愛さに動いている。そこに、樹里の気持ちはきっとない。


「子供がいるかどうかは、問題じゃないの。私は、嘘をつかれていたことが許せなかった。彼女の話以上に、嘘をついてまで二人で会ってたことが許せなかった。少なくとも一年、もしかしたらそれ以上よね。それを知った私の気持ち、あなた想像できる?」


 千裕から、すぐに言葉は出なかった。それがまた、悲しい。もう二度と関わり合いたくないが、ごめん、くらいは言って欲しかった。金輪際、関わりは持たない。改めて自分に言い聞かせた。もう千裕とは終わったこと。これから、また始まることなど有り得ない。

 千裕は黙り込んで、下を向いている。呆れてしまうが、きちんと終わりにしたい。溜息を零して視線を余所に向けると、近付いて来る人影があった。カツカツとヒールの音を立てながら、徐々に見えてくる顔。腕を組んで、勝ち誇った女の顔。その彼女が言った。だから言ったでしょう? と。

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