第41話 どうして、今更

「本日はありがとうございました。いかがでしたか」

「えぇ、何だか凄く実感が湧きました」


 斎藤は嬉しそうだった。他部署の人間と顔を合わせ、いろいろと感じるものがあったのだと思う。その表情が、全てを物語っている。彼は初めての人に会うたび、スッと余所行きの顔になった。樹里に会うのとはまた違う顔だ。隣室だし、母親とも仲良くなった。友人までは行かなくとも、知人くらいにはなれたろうか。


「斎藤さんは凄いですよね」


 二人の間にいる大樹が、徐にそう言った。目がキラキラと輝いている。頼むから、余計なことは言うな。そう視線をやっても、多分彼には伝わらない。


「お料理も上手だし、受け答えも大人って感じがして。憧れちゃいます。どうやったら僕も、斎藤さんみたいになれますかね」

「え? 僕ですか。いやぁ、この年になっても好きなことやってるだけですしねぇ。見本にもならないですよ」

「そんなことないです」


 樹里がどんなに呆れた顔を見せても、やっぱり伝わらない。世代差なのだろうか。それとも個性と言うべきか。仕事に支障がなければ強く言うことでもない、と何とか自分を納得させた。


「今日はもうお仕事、大丈夫なんですか」


 斎藤がこちらに問う。比較的早い時間なのに、ということだろう。樹里も大樹も、既に鞄を持って彼と並んでいる。本当はもう少し仕事がしたかったが、今日は十二月二十三日、金曜日。わざわざ残業をしている人もいない。僕らも一緒に帰っちゃいましょうよ、と荷を纏めた大樹に共感してしまったのである。


「本当は、私はもう少ししなくちゃいけなかったんですけど。今日はもう、ねぇ。皆、いませんし。何か一人ぼっちなのも寂しいので、いいかなぁって。先にお見送りすべきだったんですけど、すみません」

「あぁ、いえいえ」


 どうせ早く帰ったって、何の用事もない。明日、明後日のみっちり組まれた予定の準備をするだけだ。何を着て行こう。荷物はどうしよう。まだ定まっていない。

 明日は昼過ぎに待ち合わせて、クリスマスアフタヌーンティー。それから映画を観て、焼肉を食べる。日曜日は箱根へ行って、日帰り温泉らしい。忙しくとも、それもまた楽しかろう。本当は、一泊で旅行に行きたかったようだったが、思い付いたのが遅く、それは叶わなかった。どこも一杯だったらしく、リア充め、と朱莉は頻りに腹を立てていた。最悪樹里ちゃん家に泊まればいいや、とも言っていたが、あれは本気だろうか。


「斎藤さんは、クリスマスはデートですか」

「え? あぁいや。普通に仕事してます。店は開けますからね」

「じゃあ、僕と一緒ですね」


 何だか嬉しそうに大樹はそう言ったが、一緒ではないと思う。斎藤は仕事だと言っているし、何よりも彼女はいるのだ。彼女もいない。友人たちもデートで構ってくれない。そう拗ねていた大樹とは、全然違う。さっきよりも随分、冷ややかな目で部下を眺めた。


「あ、僕はJRなので。ここで」

「そうなんだ。は浅草せ」

「あぁそうですよねぇ。私も、実は戸越なんですよ。お店から、ちょっと離れてますけど」


 え、と驚いた顔をした斎藤に、必死にアイコンタクトを飛ばす。彼の店は戸越

樹里の家も戸越。それは大樹も知っているし、同じ駅に帰ることはおかしなことではない。けれど、それ以上のことを知られたくなかった。あぁ、といった顔をしてから、斎藤が頷く。大丈夫。大樹は何も感じていない。


「じゃあ、お疲れ様でした」

「お疲れ様」


 大樹は、いつものように軽く手を振った。二人を見送る彼に「じゃあね」と笑って、僅かに違和感を覚えた。樹里は、今気付いたのである。ここからは、斎藤と二人で帰るということに。電車も一緒。降りてからマンションまでも、いや部屋の前まで一緒なのだ。どうして気付けなかったのか。あぁ、先に見送れば良かった。変に意識してはいけない。ここから、部屋の扉を閉めるまで一時間弱。ぎこちなくてもいいから、微笑んでいたい。未練たらしい女心が、そう言って笑った。

 斎藤はいつものように、穏やかに話し掛けてくれる。ドキドキしているのは、樹里だけ。彼は何も感じていないはずだ。二十センチほど高い肩と並んで歩き始める。手を繋ぐわけでもない。ただ胸がドキドキして煩いだけだ。大樹や同僚といる時のように、何も考えなければいい。自然に、自然に。恥ずかしくて、斎藤のことが見られない。乙女かよ。視線はぎこちなく泳いで、つま先ばかり見ていた。


「樹里」

「はい。え、はい……?」

「樹里」


 伏せた目を持ち上げる。淡く弾んでいた心が、一気に青褪めた。どうして? 今更、彼がここへ。

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