第38話 曲の終わりを

「樹里ちゃん、いらっしゃい」

「お母さん、こんばんは。おじゃましますね」

「はいはぁい」


 樹里が店に入ると、斎藤よりも先に母親が顔を出す。カウンターの中には苦笑いする彼。コーヒーでいい? と聞かれ、お願いします、と微笑んだ。今日の音楽は、クリスマスソング。あぁきっとこの店ならば、あの曲がかかるだろう。母親に促された席に着き、樹里の体は自然と力んだ。


「匡、コーヒー早くね」

「分かってるよ」

「樹里ちゃん、コーヒーばっかりで大丈夫? ほら、ミルクティだってあるのよ。あぁでも、匡が上手に淹れられるかしら」


 彼の母親は、二度目に会った時から樹里をちゃん付けて呼ぶようになった。彼女にすれば、当たり前のことなのだろう。常連が来たかのような振舞いだ。樹里が仕事で来ていることを覚えているのか、不安になるほどである。


「あのさ、全部聞こえてるから。もう、母さんはカウンターに入ってて」

「そう? お母さんも樹里ちゃんとお話ししたいけど」

「あのねぇ、松村さんはお仕事でいらっしゃってるの。お茶飲みにきてるんじゃないんだよ」


 何かを察した斎藤は、彼女の口を塞ぎながら連れて行く。渋々去って行く母親と目を合わせた樹里は、思わず苦笑した。彼女は、商品化の話に口を出すつもりはないらしい。正式に契約の挨拶に伺った時、今回の件は匡が認められたことだから、と彼女はこっそり樹里に耳打ちした。それでも心配なのだろうと思う。毎回こんな風に扱われながらも、彼女は必ず店にいる。それも、親ということなのだろうか。

 斎藤はカウンターに戻り、コーヒーを落とし始めた。初めはお代も気にしたが、今はありがたく頂戴することにしている。この押し問答は無意味だよ、と斎藤が笑ったからだ。


「はい。今日は上手く淹れられたと思うけど」

「ありがとうございます。いつも美味しいですよ」

「そう? なら良かった」


 フフッと二人で微笑んで、とりあえず一口飲む。示し合わせたわけではなく、何となくそういう流れになった。ブンタと散歩に行った時のような、穏やかな時間が流れていく。細やかな幸せを感じていたりするが、仕事の気持ちを維持していられている。これも、彼がきちんとした線引きをしてくれているからだと思う。


「さて、今日なんですが」

「はい」


 話始めれば、互いにスッと背筋を伸ばした。資料に目を通しながら、斎藤は相槌を打ち、質問を寄越す。それがテンポも良く、話の腰を折られた感覚を覚えたことは一度もない。こちらの都合で焦りがあっても、彼は嫌な顔一つ見せない。優しさという余裕だろうか。初めての責任者としての不安は、それにだいぶ甘えてしまっている。


「それと、近いうちに一度弊社に起こしいただくことは可能ですか」

「昼間ですよね? だい……」

「いいわよ。お母さん、いてあげるから。お父さんも大丈夫」


 いつの間にか隣の席に座っていた母親が、彼の言葉を遮り割り込んだ。「……だそうです」と斎藤は呆れながら答え、また追い払う。それもまた、この店のよくある光景だった。


「ふふっ。ありがとうございます。時間的には、ランチの後がいいかなと思っているのですが、いかがでしょう」

「そうですね。十五時くらいなら大丈夫かと思うのですが」

「構いませんよ。日程は追って連絡しますね」

「お願いします」


 コーヒーを飲みながら、話は順調に進む。何だか仕事じゃないみたいな気がしてしまう。心がポワンとしかけたが、スッとそれが引いて行った。母親がレコードを変えたのだ。ノリの良い、あの陽気なジングルベルに。聞き慣れたおじさんの声。それから代わるように歌い出す女の人の声。口元は何とか微笑んでいるけれど、視点が定まらない。


「どうしました?」

「あぁいえ。何でもないです」


 動揺を誤魔化す。上手く出来た気はしないが、長く細い息を吐いてやり過ごした。大丈夫、分かっている。この曲は、そんなに長くない。二分ちょっとだ。大丈夫、あと少しで終わる。


「匡、お母さん買い物行って来ていいかしら」

「あぁ、はいはい。大丈夫だよ。いってらっしゃい」

「じゃあ、樹里ちゃん。ごゆっくりね」

「ありがとうございます」


 息子の友人が来たくらいの感覚で、彼女は樹里にそう言う。仕事で来ているのにと、初めはやりづらさを感じていたが、この一週間あまり契約などでほぼ毎日来ていると、その有り難みも感じる。それは確実に緊張を解し、一様に無碍にはできないのだ。今日は何にしようかしら、と言いながら出て行った母親。斎藤はまた、呆れた顔をしていた。そして樹里は、ひたすらに曲の終わりを待っている。

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