第37話 前に真っ直ぐ

 本格的に開発が動き出して一週間。平日にフルで動き回れば、週末は電池が切れたように眠るだけだった。ここまで来るのに時間がかかった焦りが、これまであったのだろう。ようやく、きちんと心から休めた気がする。


「私は斎藤さんのところへ行って、直帰しますね。何かあれば、連絡ください。あまり無理せず、早めに帰ってね。お疲れ様でした」


 定時を過ぎて、樹里は席に残った人へそう告げた。クリスマス、年末年始と近付いて来ると、やはり皆どこか浮かれている。子供のプレゼントの相談のし合いだとか、新しい恋人ができたとか。聞こえて来るのは、楽しそうな話ばかりだ。ちょっとした意地のような気もしたが、樹里だってデスクに小さなツリーを飾っている。そんなことをすれば、あの曲がすぐに聞こえて来たが、それも承知の上。逃げてばかりじゃ、生きてはいけない。あの曲は、この時期には避けて通ることはできないのである。

 それに、クリスマスは樹里も予定が入っていた。以前から、朱莉に空けておいてと言われているのだ。何をするのかとか、全く知らないけれど、楽しみにはしている。元々予定は何もなかったし、これから入るとも思えない。まぁ何もなくても、何かしら予定を無理矢理に詰め込もうとは思っていたが。あぁもしかすると、朱莉はそれを見透かしているかも知れないな。


「もうクリスマスか」


 迎えるのが怖かったシーズンを今生きている。あの曲に怯える日々を想像していたが、幸いにして忙しく、そう感じる間もなかった。背筋を伸ばし、カツカツと歩く。いつもより、速度が上がっていることには気付いている。ちょっと素敵な人に会いに行く。それくらいの気持ちで、今はほんの少しだけ足取りが軽やかなだけだ。


「お疲れ様です。樹里さん、もう帰るんですか」


 会社を出るところで、大樹に出くわした。表情は何だか少し暗い。クリスマスに予定がない、と昼間落ち込んでいたから、きっとそのせいだろう。どこか明け切らない暗さを引き摺っているようだった。


「これから斎藤さんのお店に行って、直帰」

「了解です」

「開発部はどう? 上手くやれそう?」

「大丈夫ですよ。僕、何年目だと思ってるんですか」


 ケタケタ笑う大樹に、まぁそうよね、と苦笑した。試食巡りでは、あんなに心強く思っていたというのに。どうも一番の心配の種であったことが拭えない。部下を信用しなければいけないな。そう胸に留めると、メッセージを受信したと時計が振るえる。きっと朱莉だろう。


『クリスマスの予定、決めました』


 何通か続けてきているが、一つ目だけ確認して止めた。この言いぶりでは、もうやることが決定している。樹里の意見は、もう聞かないも同然。時間も場所も指定されているだろう。本当に、あの子らしい。


「何かありました?」

「あ、ううん。朱莉。クリスマスの予定を送り付けてきた」

「朱莉さん。樹里さんと過ごすんですね。そっかぁ……よかった」


 さっきまであんなに落ち込んでいた顔が、瞬時に明るくなった。なるほど。彼が落ち込んでいたのは、自分の予定がないからだけではない。好きな人が誰と過ごすのだろうという不安だ。つまり今、知らない男と過ごすのでないと分かって安堵したのだろう。実に淡く純粋な恋だ。


「じゃあ、頑張って。何かあったら、すぐに連絡してね」

「はい。頑張ります」


 会社を出て、駅へ向かう。電車に乗ったら、すぐに朱莉のメッセージを読もう。どんなクリスマスになるかな。肉と酒は外せない。いや、意外と寿司もあるか。正解を見る前に、あれこれ朱莉の言いそうなことを想像して、ちょっとだけ口元が緩んだ。


「樹里さんっ、待って。樹里さん」


 大きな声で呼ばれた樹里は、慌てて振り向く。そこには、大樹がいた。「ん、どした?」と抜けた言葉を返してしまったのは、そんなに切羽詰まった顔で報告を受けることが思いつかなかったからである。わざわざ会社から飛び出てきて、呼び止められた。仕事の急用ならば、さっき伝えられたはずだが。慌てて追って来た割に大樹は何も言わず、ただキョロキョロと辺りを見渡すのである。樹里も釣られて辺りを見るが、特に何も見当たらない。思わず、首を傾げた。


「あ、いや……」

「何かあったの」

「いや、えっと。あっクリスマス……そう、クリスマス」

「クリスマス?」

「ふっ、二人ですよね?」


 思わず目を点にして、多分そうだと思うけど、と返した。肩で息をして、必死になって追いかけてまで聞くような話でもないだろう。大樹はまだ、何か言いたげにモジモジしている。 


「どうした?」

「あぁ、えっと。違うんです。その、男の人とか一緒……なのかなって」

「おぉ、そっか。まだ確認はしてないけど、多分二人だと思うよ」


 ぎこちなく頷いて、彼はまたキョロキョロする。そして、良かったです、と不自然に笑った。自分も一緒にとでも思ったのだろうか。誘ってあげたい気もするが、こればかりは朱莉の意見もある。勝手には誘えない。


「大丈夫? アポあるから行くけど」

「は、はい。お呼び止めしてすみませんでした。いってらっしゃい」

「はぁい。じゃあ、あまり無理しないようにね。お疲れ様」

「お疲れ様でした」


 大樹は、小さく手を振った。そして、いつものようにニコニコと笑う。不安は解消されたのだろうか。とりあえず樹里も同じように手を挙げ、駅へ向かって歩き始める。あれは、誘って欲しそうな雰囲気ではあったな。そんなにクリスマスが気になるのか、と樹里は頭を悩ませる。何を企画してくれたかによるが、朱莉に大樹もどうか聞いてみるか考えていた。

 これから斎藤に会いぬ行くが、心は意外と落ち着いていた。母親がいればマシンガンのように話に割り込んで来るし、今のところはヒロミには会っていない。それに、いちいち心を乱されている暇もないほど、仕事の期限は迫っている。それが幸いというところだろう。こちらの都合で余裕はないが、彼は一度も苛立った顔を見せたことがない。そのお陰で、仕事は順調に進んでいる。早いうちに斎藤に来社してもらい、他部署との確認を行いたい。考えることは沢山あるのだ。街中に溢れる、クリスマスのデコレーション。樹里が恐れていた期間は、忙しい間に過ぎていく。深く千裕を思い出すこともなく、季節はどんどん変わるのだ。樹里は、前だけに真っ直ぐ進んでいる。

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