第35話 不安しかない

「親も公認なんだ」


 思わず、そう呟いていた。バタンと扉が閉まると、向こう側の世界にはもう入り込めない。あの温かな場所に、ヒロミはやって来る。さっき高鳴った胸など、もうすっかり萎んでしまった。平気な顔をして方向転換をし、何とか離れようとする。でも本当は、見た目以上にダメージを受けていた。あれだけ蓋をしたつもりだったのに。それは簡単に開いて、ウジウジとした心が疼き始めている。こんな面倒な感情など持ちたくない。仕事がしにくくなる。自分にそう苛立つが、ドキッとしてしまうのはどうにもならない。俯いて歩いていた樹里に、すれ違う人がぶつかる。とても穏やかな声が、「ごめんなさい。お怪我はありませんか」と丁寧に心配を寄越した。それなのに、大丈夫です、とそれを突き放す。あぁ、なんて感じの悪い女だ。目も合わせず、頭だけを下げ、逃げるようにそこを後にした。

 歩く速度が上がる。斎藤を前にしたら、もう少し知りたいと思ってしまう。けれど、ヒロミという可愛らしい彼女がいる現実。若い女の子に勝てる自信などない。奪いたいとも思わない。だってそれでは、香澄と変わらないじゃないか。仕事の関係がある以上は、その顔をしていなければいけない。斎藤がこの企画を拒んでくれたら、と一瞬頭を過った。責任者として有り得ない願いだ。


「それはダメだ」


 グッと拳を握り込んで、仕事の頭に何とか戻す。これ以上、プロジェクトの停滞は避けねばならない。斎藤の店で決まってくれるのが一番だ。今日はまだ月曜日。週の頭からモヤモヤを抱えると、金曜日が遠く感じる。それに、もし斎藤が受けてくれるのなら、今後仕事で何度も顔を合わせることになるだろう。いちいち浮き沈みしている場合ではないのだ。途中で、ビールを買って帰ろう。今日は休肝日だが、それでもいい。その代わり、仕事と感情の切り分けをきちんとする。樹里は自分に強く言い聞かせた。

 心の整理が付かないまま、コンビニに足を踏み入れる。店内にかかっていたのは、赤鼻のトナカイ。この時期ならば、普通の選曲である。樹里は籠を手にし、早足でアルコールのところへ向かう。黒ビールを二本放り、美食部で誰かが勧めていたつまみを入れた。早くここを出なければ、あの曲がかかるかも知れないから。無意識にそう防衛本能が働いていた。


「ありがとう、ございやっした」


 変な言い方をする店員に見送られ、フラフラと進まない足を上げる。とりあえず、あの曲を聴かずに済んだ。それだけで、心は少し緩む。恐れていたクリスマスも、あっという間に来週末。あと少し上手く回避したら、きっと千裕のことはすっかり忘れられる。流石に一年後に持ち越すとは思えない。そうやって一つやり過ごすと、また考えは元に戻る。そんなに、斎藤のことが好きだったのだろうか。もう何度目かの自問自答をしていた。

 これが今も恋の色をしているとして、これといってアクションを起こすことはない。どうこうなりたいと願うこともなければ、距離を縮めようと計算をすることもない。それでもチラチラと気になるのだ。彼の隣にいるヒロミという女性が。朧げな記憶の彼女が、ニコッと微笑んだ。これはきっと、樹里の中で美化され、作り上げられた顔だろう。若くて、笑顔が可愛らしかった記憶がそうさせるのだ。そんなヒロミと戦ったところで、結果は見えている。それくらいは、きちんと理解していた。わざとらしく大きな溜息を吐き、ガクッと首を垂れる。足取りはひどく重たい。


「ただいま」


 ようやく着いた部屋に、いつもよりも少しだけ強く告げる。斎藤の店から、元気に歩ければ二十分ほどか。今後、同じような感覚になっても、悶々としている間に家に着くだろう。


「はぁぁぁ……」


 大きな溜息を吐いて、床の上に大の字になって転がった。投げ出した鞄に手を伸ばす。さっき、何かメッセージを受信したはずだ。鳴ったのは私用の携帯。忘れかけてた前の会社の同期からだった。


「は?」


思わず声が出たが、まぁどうでもいい話だ。今は、今のことを考えなければ。

 彼が仕事を受けてくれるとして、偶然に会ってしまうこと以外は、仕事のスタンスでいなければいけない。例えば彼女とバッティングしてしまっても、スッと表情を崩さずに……いられる気がしない。前途は多難だ。プロジェクトを思えば、斎藤を勧めたことに後悔はない。けれど今は、不安しかなかった。

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