第34話 ヒロミちゃん

「こんにちは。松村です」

「あぁ、こんにちは。お呼びたてしてすみません。どうぞ」


 斎藤から連絡が入ったのは、二日後だった。一晩は一人で悩み、翌日親に説明をしたという。そこで出てきた疑問点を幾つか伺いたい、と日曜の夜、社用携帯へ連絡をくれたのだ。隣の部屋にいただろうに、電話で話す不思議。これは仕事、と彼も線引きをした印だろうと思っている。


「父さん、母さん。いらっしゃったよ」


 奥の扉を開け、上へ向かって叫ぶ斎藤。聞こえてねぇかな、と呟いて、彼は二階に駆けて行った。


「ごめんね。今降りて来るから……あ、降りて来ますので」

「気にしないでください。今日は平野も連れて来ませんでしたし」

「そう? 良かった。コーヒーでいい?」

「あぁ、いえ。お気になさらず」

「えぇ、気にしますよ。一応、これは勉強したので、美味しく淹れられると思います。あ、そうだ。じゃあ、僕も飲むので。それに付き合ってください」

「承知しました」


 気にするな、と言っておいて、自分の言葉がひどく硬い。ふぅ、と長く息を吐いて、少し心を落ち着けた。静かなジャズが流れる店内は、薄暗いが柔らかな日の光が差し込んでいる。

 今日の目的は、彼らの不安を拭うことである。柔らかく、穏やかな雰囲気で向かい合おうと思っているが、未だぎこちない顔しかできていない。あまりに考え過ぎて、いつもの普通の顔がどれだか分からなくなっているのだ。斎藤の視線を確認して、下を向いて頬を思い切り持ち上げた。よし、大丈夫だ。彼は、カウンターの中でコーヒーを落とし始める。それをボゥっと眺めた。今日は仕事として来ていて、感情はない。それなのに。落ち着けたはずの胸の音が、またすぐに大きくなる。しっかりしろ、と言い聞かせた時、奥の扉が開いた。


「お待たせして、すみませんねぇ」


 席に辿り着く前から、そう声を掛けて来る。斎藤に一瞥をくれ、老夫婦が真っ直ぐに樹里の元へ進んで来た。母親は、腕にギプスをしている。不便だろうが、元気そうだ。樹里は、胸を撫で下ろした。


「初めまして、えぇと匡の母です」

「父です」

「松村と申します。本日はお時間をいただきまして、ありがとうございます」


 樹里は名刺を差し出し、にこやかな笑顔を作った。初ての感想は顔に出るもの。表情を崩さぬまま、ゴクリと唾を飲み込んだ。そしてすぐ、母親が口を開く。声が届くまでの一瞬が、まるでスローモーションのように見えた。


「本物だったんだねぇ」

「え? 本物、ですか」

「いやねぇ。匡が話はしてくれたんだけど、なにぶんアレでしょう。騙されてるんじゃないかと思って。ねぇ、お父さん」


 母親に問い掛けられた父親は、黙り込んだまま二度頷いた。なにぶんとはなんだろう。今の話を理解できず、キョトンとしてしまったのが可笑しかったのだろうか。母親は痩せた頬を緩ませ、匡って昔からだまされやすいのよ、と耳打ちしてコロコロと笑った。


「そうなんですか。私は、とてもしっかりされた方と印象を受けましたが」

「そりゃ、若いお姉さんには良い顔するわよねぇ。匡は、もう五十過ぎたでしょう? だから、たまにはカッコつけたいんじゃないのかしらね」

「あ、そん……なもの、ですかね」


 流石、長年地元に根付いた喫茶店を切り盛りして来た夫婦だ。父親は寡黙だけれど、補うように母親はよく喋る。まるで隣近所のおばちゃんのようで、すぐに仲良くなれそうな、そんな温かさだった。ただし、五十過ぎたでしょう、と同意を求められても、樹里は彼の正確な年齢を知らない。


「はい、どうぞ。父さんと母さんは、お茶にしたよ」

「あら、ありがとう」

「何話してたの?」

「え? 匡が五十過ぎたって話?」


 母親は細かいところを端折り、年齢の話だけに強引に纏める。ねぇ、と同意を求められた樹里も、微笑む以外なかった。


「母さん、あのねぇ。今日はそういう話はしないの。まったく。松村さん、ごめんなさい」

「あぁ、いえ。とても仲の良いご家族ですね」

「そうなのよ。男ばっかりだけれど、よく集まってくれてねぇ。この子は三番目なんだけど、ここ継いでくれて。まぁ上の二人は、会社勤めだからね。諦めて畳むつもりだったんだけどねぇ」

「母さん、ちょっと黙ろうか」


 斎藤が継ぐことは計算になかったのか、と謎が残る。そう思っている間にも、斎藤は必死に母親を制していて、思わずクスクスッと声を出してしまった。


「あっ、申し訳ありません」


 すぐに取り繕い、できるだけ柔和な笑みを作る。だがそれを見た母親は、何故かニコニコと視線を寄越した。


「松村さんとおっしゃったわねぇ。ご結婚されてるの?」

「母さん、失礼だよ」

「あぁ、いえ大丈夫です。独身なんですよ」

「ごめんなさい。もう、ホント黙って」


 見合いでも進めて来るような話しぶりだった。斎藤も、止めなければと思ったのだろう。母親の口を塞ごうとする攻防が、目の前で行われている。幼子ではなく、五十を過ぎたという息子と。この光景がちょっと異質なのは、その隣で父親が静かに茶を啜っていることである。恐らく、これが斎藤家の日常なのだろうと思った。


「では、早速ですが、お話を始めてもよろしいでしょうか」

「はい、お願いします」


 笑いの余韻を残しながら、樹里が資料を広げる。斎藤は、ホッとしたように頷いた。恐らく、無理矢理にでも進めなければ、母親の話に終わりはないのだろう。樹里はアイコンタクトを取りながら、彼に呼応するように頷いた。


「まずは、発売までの期間について。資料のこちらになります」


 場が落ち着いたところで、説明を始める。母親はスッと眼鏡を掛け身を乗り出し、ふんふんと話を聞き始めた。彼女の切り替えのスイッチは、早いようだ。父親は相変わらず、静かに茶を啜っている。

 数ページに纏めた資料を一通り説明し、上がった質問は都度回答した。彼ら、特に母親が納得できるまで、丁寧に行ったつもりだ。だが印象としては、父親の返答待ちといったところだった。恐らくこの家族は、重大な結論は全て父親がするのだろう。母親だけが前面に出ているようでいて、そうでない。大事な場面では、父親を立てる。そういう家族なのだろうと感じている。


「今すぐにご決断いただかなくても、大丈夫です。是非、ご家族で納得いくまで話されてください。疑問点があれば、いつでも参りますので。こちらとしましては、良い結果をいただければ幸いに思います」


 深々と頭を下げた。釣られたのか、正面で母親も頭を下げている。ただ、父親だけは黙ったまま。腕を組んで何かを考えているようだった。


「では、私はこの辺で失礼致します。コーヒーのお代は、いくらでしょうか」

「あぁ気にしないで。これは、大丈夫」

「そうですか。ありがとうございます。ごちそうさまでした」


 杓子定規だなと思いつつも、ここはそう対応する。今は仕事。あくまで、商品化の話を持って来た会社の人間に徹する。だが、美味しかったです、とだけは微笑み返した。


「匡、送って差し上げなさいよ。暗くなってきたし、こんな若いお嬢さん一人じゃ心配じゃない」

「いやいやいや。大丈夫ですよ。いつももっと遅い時間に帰ってますし。ご心配いただいて、ありがとうございます。では、失礼します。何卒、よろしくお願いします」


 樹里は躊躇いなく、入口へ向かった。斎藤がドアまで来て、母さんがごめんね、と囁いた。それから、また連絡しますね、と笑う。自然と視線がぶつかって、思わず目を逸らしてしまった。ドクン、と跳ねた鼓動が煩い。じゃあまた、と彼に告げたのは、という意味かは分からなかった。

 店から一歩出て、動揺している自分に問い掛けた。どうしよう。こうして仕事で会い続けたら、本当に好きになってしまうんじゃないか。樹里は、淡い恋のまま終わらせたい。ダメだ。もう一度蓋をしよう。そう固く誓いながら、扉から手を離した。

閉じていく扉の向こうから、元気な母親の声が届く。「匡、今日はヒロミちゃん来ないの?」と。

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