第24話 一人と一匹

 ドアの前に立って、靴入れの上に置かれた鏡を覗き込む。目が赤いのは、もう仕方がない。素知らぬ顔をするしかない。もし何か言われても、「観てた映画が泣けて」とでも言えばいいだろう。まだ強張った表情を持ち上げ、樹里はドアを開けた。


「はい。えっと、どうしました?」

「あっ、あの。夜分遅くにすみません。もうお休みでしたか」

「あぁ、いえ。さっき帰って来たところで……ぼーっとしてました」


 視界がまだぼんやりしている。目も鼻も赤い樹里が顔を出したからか、斎藤は一瞬驚いたように見えた。あぁ、少しくらい顔を整えてから出れば良かった。真っ直ぐに彼の顔が見られない。


「あの、お疲れのところ大変申し訳ないんですが……ブンタを見ていていただけないでしょうか」

「あ、へ? あ、はい」

「実は、母が倒れたらしくて、病院に行きたいんです。すぐそこなんですが、いつ戻れるか読めなくて。ペットホテルを探したんですが、時間も時間で。繋がったところは空いてなくて、途方に暮れてしまって。せっかくのお休みのところに、ご迷惑なお願いであるのは承知しているのですが、お願いできないでしょうか。朝とかに、ご飯をあげてもらうだけでいいんです」


 彼は切羽詰まっているようだった。いつもの優しくおっとり構えている彼とは違い、ソワソワと落ち着きがない。五十前後の彼の母親。それなりの年だろうと想像する。状況が見えていないとすれば心配だし、すぐに帰りたいだろう。樹里はその苦しさを察し、いいですよ、と快く微笑んだ。


「ありがとうございます。本当に申し訳ないです。準備して、またすぐに伺いますね。本当にありがとうございます」

「いえいえ、お気になさらずに」


 斎藤は何度も頭を下げ、急いで隣の扉に消えた。ゆっくりと閉まる扉は、何だかさっきよりもクリアに見える。突然の願いだったが、樹里の頬はちょっと緩んでいた。

 さて、ブンタを預かるとはどうしたらよいのだろう。樹里の部屋に連れて来るのか? 床の上くらい綺麗にしておけばよいか。犬と暮らしたことなどない樹里は、懸命に想像をする。出しっぱなしの雑誌を片付け、アクセサリーも引き出しにしまった。髪をキュッと一つに纏め、簡単に掃除をし始める。さっきまでの沈んだ心は何処へ行ったのか。口角は、あっという間に上がっていた。恋なら認めた方が楽だ、と大樹が言っていた。でも、これは恋じゃないの。ただの人助けだ。

 十分ほど経ったか。再度やって来た斎藤は、一人だった。そこにブンタはいない。一枚の紙を握りしめ、「おじさんの部屋に入ってもらうのも、申し訳ないんですけど」と彼は言った。なるほど。樹里がブンタのもとへ行くのだな、と理解する。


「あぁ、そんなことは気にしないでください」

「すみません。ここにご飯の時間とフードのあげ方は書きました。あと、ご面倒でしょうけど散歩のコースと。えぇとそれから、念の為に病院の番号も書いてありますので」


 整った字で綺麗書かれているメモ紙。本当にブンタのことを大事に思っているのが伝わってくるような、細かく丁寧な書き方だった。


「それから、これ。鍵です」

「あっ、はっはい」


 束になったところから、部屋の鍵を寄越す。斎藤のペットを預かるのだ。これを渡されるのも、当然のことである。


「帰って来たら、松村さんのお宅にすぐ寄りますので」

「は、はい」


 変な意識をする場面ではないと理解していても、男の人に部屋の鍵を預けられることなどそう無い。緊張で、伸ばした手が硬い。焦っている斎藤は、そんなことを微塵も気にしていないのが余計に恥ずかしかった。


「あ、あの。今、一度お部屋に伺ってもいいですか。急に私が行ったら、きっとブンタがびっくりしちゃうから」

「そ、そうですよね。あ、じゃあ……お願いします」


 そう言ってようやく、斎藤にも緊張が見えた。樹里の部屋の鍵を閉め、二人で隣の扉に入る。ふわっと香るバニラの甘い匂い。それから、シナモンの香り。樹里の部屋にはない、飛び出し防止用の柵。反転した同じ間取りなのに、何だか新鮮だ。イメージ通り、綺麗に片付けられた部屋。樹里を見つけたブンタは、元気に尻尾を振って寄って来る。


「これがフードで、それからこれがシーツ。えぇと、水のボウルがこれで」


 斎藤は、一つ一つ説明するが、やはり焦っているようだ。母親が心配なのだろう。樹里はメモを見ながら、場所を確認する。それからブンタの頭にそっと手を乗せて、いい子にお留守番してようね、と微笑み掛けた。


「大丈夫だと思います。それで……あの。斎藤さんの連絡先を伺ってもいいですか」

「あっ、あ。そうですよね。自分の連絡先のこと忘れてました。えぇと、これをこうして」


 焦りの見える手つきで、彼はQRコードを表示した。連絡先を交換する二人は、妙にどぎまぎしている。これは緊急事態なんだ、と樹里は何度思ったろう。そう思わなければ、この緊張を胸の高鳴りと勘違いしてしまいそうだった。


「では、本当にすみません。よろしくお願いします。最低限で大丈夫なので。ブンタ。パパお出掛けするから、いい子に留守番してるんだぞ。お姉さんの言うこと、ちゃんと聞いてな」


 そう言われてブンタは、とりあえず尻尾を振った。だが、斎藤が玄関に向かうと、徐々にそれが萎んでいく。きっと、飼い主の微妙な変化を感じ取っているのだろう。そんなブンタを撫でながら、樹里も玄関に向かう。ゲートを閉め、ブーツを履き、鍵の束をポケットに入れる。樹里は、それをぼんやりと見ていた。ヘルメットを抱えた彼は、いつになく強張った顔をしている。


「大丈夫です。何の保証もないけれど……きっと大丈夫です。だから気を付けて行ってくださいね」

「えぇ、ありがとう。よろしくお願いします」


 斎藤は深々と頭を下げて、部屋を後にした。ブンタはその背を見送ると、寂しそうにクゥンと鳴く。部屋に残った一人と一匹。さて、これからどう過ごすか。

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