第23話 センチメンタルな夜

「今夜も会えなかったな……」


 呟いた小さな声が、暗い部屋に消えた。家についてもなお、朱莉に言われたことを反芻している。『恋に転がるか、転がらないか』というアレだ。無意識に、隣の部屋を見ている自分にハッとする。このままではいけない。深呼吸をして、樹里は冷静に考え始めた。斎藤に、ときめいてはいない。ただ、友人や同僚とは何かが違う。彼が年上だからだろうか。この気持ちは、一つ上の段にあるような感じがしている。そして気付けば、また壁の向こう見ていた。

 馬鹿みたいに、大きく首を何度も振る。誰もいないのだから構わないけれど、なかなか滑稽な様だった。気を紛らわせようとパソコンを立ち上げる。楽しい映画でも観よう。一度、心を落ち着けよう。そう思ったのだ。

 だが、気持ちは一気に下降する。開いたウェブサイトの端にあったのは、クリスマスツリーの広告。あぁ、もうあの季節がやってくる。たったそれだけで、簡単に樹里の心はズンと重くなった。クリスマスもイルミネーションも、何も恨んではいない。だけれども、あの陽気な歌声だけはダメだった。このシーズンになると、無意識に頭の中でリピートされる。それは、今だって。壁を見つめて、ソワソワしていた自分はどこへ行った。全ての感情が、千裕の亡霊に押しつぶされていく。


「千裕は幸せなんだろうな」


 彼は、あの曲の呪縛に合うこともないのだろう。きっともう忘れてしまった。そんなことを思い出すことなく、今年のクリスマスは二人、いやお腹の中の子と三人で幸せに過ごすのだ。思わず拳を強く握る。仕事をして、美味しいものを食べて、樹里だって十分幸せなはずなのに。比べたって仕方がない。分かっている。樹里は左手の薬指を撫でていた。たった二ヶ月で、千裕の指にはめられた指輪。きっと、二人で買いに行ったのだろう。叶わなかった自分の幸せの時間を思うと、一段と下を向いていた。

 あのまま、千裕と結婚するのだろうと思っていた。子供ができたらいいけれど、できなくても二人で楽しく暮らしていける。そう思っていた。一体どこで、この歯車は狂ってしまったのだろう。もう過去は戻らない。今更何も変わらないのに、エンドレスにループする負の感情から抜け出せない。大きな溜息を吐き、いつの間にか涙も零れていた。グズグズと鼻を啜り、ぼんやり床の木目を追う。形なんて決まっていないそれの上に、また一つ、また一つと雫が落ちた。千裕とよりを戻したいとは思っていない。寂しいだけなのだ。一人ぼっちの夜の冷たさが、今夜はやたらと身に染みる。


「もう思い出したくもないのに……」


 それでも、蘇る記憶があるのは仕方がない。別れた時から、一番怖かったのはこの季節が来ること。嫌でも耳にしてしまうジングルベルを、回避する術などないのだ。千裕を忘れられても、アレが鳴らなくなることはない。あの陽気な声に締め付けられ、心は抜け出せなくなっていた。


「前世で何か悪いことしたんかなぁ」


 あんな陽気な曲に、こんなにも苦しむ人間は他にいないと思っている。楽しくて、幸せの象徴のような曲だ。樹里には、苦しくて仕方のない曲だとしても。もう嫌だ、と両手で顔を覆う。どうしてもあの曲が頭の中で鳴り始めると、苛々してしまうのだ。そして、急にセンチメンタルな気持ちになる。もう今夜はダメだ。樹里はそのままゴロンと横になった。

 そんな時、急に部屋の呼び鈴が鳴る。こんな遅い時間に、一体誰? ジングルベルで湧いていた苛立ちが、徐々に大きくなる。無視すればいいかも知れないが、それはそれで気味が悪い。モニターで相手を確認するくらいはしておこうか。ゆっくりと起き上がり、重たい体を引き摺ってモニターを睨んだ。ぼんやりと歪む視界の中に映ったのは、ペコペコと頭を下げる斎藤。一体何事か。暗い気持ちをすぐに押し込めて、今開けます、と鼻声で応答する。そして、目の周りを拭いながら玄関へ駆けた。

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