第8話 幸せは、結婚の隣にしかないわけじゃない

「わぁ、見て。美味しそう」


 不満気だった朱莉は、目の前に皿が並んだ途端に笑顔になった。美味しい物が目の前にあったら食べるしかない。それが彼女のモットーだ。いただきます、という声がもう弾んでいる。樹里も釣られて微笑むと、同じようにスプーンを差し込んだ。キーマの上には半熟の玉子。それがまた食欲をそそる。


「あ、チキンも美味しい。結構、まろやかな感じ。キーマも美味しいでしょう?」

「うん、美味しい。スパイスが強過ぎないから、食べやすいね」

「ねぇねぇ、こっちも食べてみて」

「うん」


 朱莉との距離が、少しずつ縮まって来た気がする。別に直属の上司でもないし、仕事ではほぼ関りがない。わざわざ敬語で話す必要もない。何だか友人が新しく出来たようで、ちょっと嬉しかった。


「あ、なるほど……これはお家のカレーをグレードアップした感じだね。玉ねぎとトマトがちゃんと活きてて。うんうん」

「樹里さん、リサーチし過ぎ」

「あら、やだ」


 ケラケラ笑って、食事をして。こうやって楽しい時間を過ごしていたら、千裕のことなんてどうでもいいと思える日がすぐに来る。そんな自信が、樹里の中にはあった。


「ねぇ樹里さん。無理しないでいいよ」


 樹里が最後の一口を放った時、朱莉がそう心配そうにこちらを見た。へ、と間抜けな返事をして、彼女を見返す。心配するような目だった。いつまでも気にしていられないし、前を向こうとしている。そう思っていたけれど、彼女には一体どう見えていたのか。ちゃんとカレーの味もする。カルダモンの香りだって感じている。という人間はきちんと機能している。樹里は不思議に思った。


「無理して笑わなくっていいよ」

「え、無理してないよ。何言ってるの」

「樹里さん」


 真っ直ぐに言われて、すぐ、涙が頬を伝った。驚く感情に反して、それは次々と流れ出る。慌ててハンカチを出し拭うが、なかなか止まってくれない。朱莉は隣の席に座り替え、頑張った頑張った、と優しく背を擦ってくれる。だからもう、止まらなかった。口の中に、カレーの辛さが残る。あぁ他に客はいたろうか。気にはなっても、確認はできない。どうか知らぬ振りをしていて。そう願うしかなかった。

 千裕がいなくなった不安だろうか。それとも裏切られた怒りか。どちらにしても、心は抉れてぽっかりと穴が開いている。これは埋められるのか。このまま一人ぼっちで生きていくのか。一歩近づいた明るい未来は、すべて失った。見事に打ち砕かれたのだ。でも、一人じゃない。背を摩ってくれる温かさは、ちゃんと感じられている。


「ごめん……ごめん。よし、もう大丈夫」

「無理しなくていいのに」

「ううん。ありがとう。大丈夫よ」


 心配顔で視線を合わせる朱莉に、微笑み掛ける。涙はまだ止まってくれない。それでも、必死に止めようと顔を上げた。ぼんやりとした視界。空を見ながら、樹里はぽつりと零した。誤解なんだって、と。朱莉が背を摩る手を止める。


「一番重大なところは、認めなかった。何か勘違いしてるんじゃないかって」

「勘違いって何。やっぱり女に騙されたってことですか」

「どうだろう。でも、実際に二人は会ってたの。何度も。だから、があってもおかしくないよね。大人の男女、だもの」


 真実は分からない。けれど、何度も嘘をついて香澄と会っていた。ただご飯を食べた、酒を飲んだだけ、なんて認められるか。同期会だと言ったから、快く送り出していたのに。彼らと一緒なら、最悪ホテルに置いて行ってくれる安心感があったから。今思えば、飲み過ぎた連絡はなかった。どこだか分からなくて帰れない、と泣きついてくることもなかった。それはそうだ。香澄と二人で過ごしていただけなのだから。


「私、どうせ女の嘘だろうって思ってたんです。それじゃ、彼氏さんも同罪じゃないですか。わざわざ、嘘をついてまで女と会っていたって。疚しくないなら、堂々と言えばいいんですよ」

「そう。そうなの。だからね、あぁ疚しいんだなって。彼は何も認めやしなかったけど、そういうことなんだなって」

「あぁもう。私の奴より最悪ですよ」

「ホント……。誕生日プレゼントにね、ネックレス貰ったの。嬉しかったんだぁ。でもさ、それも彼女と見に行ってたみたい。それを大事にして、昨日あの子に会った時も付けててさ。私、本当に馬鹿みたいよね」


 涙目のまま、溜息を零しつつ言った言葉に、朱莉が引いたのが分かった。嘲笑った香澄の顔が蘇る。馬鹿な女、とでも思っていたのだろうか。私の勝ちよ、とも思っていたかも知れない。こんなことになるくらいなら、もっと早く別れてくれたら良かったのに。千裕はどうして、別れたくないと縋ったのだろう。


「向こうは、別れるのに了承したんですよね?」

「あぁ、いや。それがね。もう二度と会わないって言ったら、嫌だって。でも、意味分かんないでしょ。だから、ふざけんなって。そんなこと言うなら、浮気なんかすんなって言ってやった」

「おぉ、カッコいい」

「昨日の朱莉の気持ち分かったかも。もっと言ってやれば良かった」


 ようやく、全てを吐き出した。涙ももうすっかり止まった。傷が全て癒えるには時間が要るのだろうが、それでも明日は違う未来へ踏み出せる。そんな気がした。


「あの……」


 さっきヒロミと呼ばれていた店員が、おずおずと声を掛けて来た。お盆にはプリンが二つ。朱莉と二人、きょとんとして彼女を見返す。


「良かったら召し上がって下さい」

「え、いやいや」

「初めて上手に出来たんです。へへへ。ちょっと実験台みたいで、ごめんなさいですけど。良かったら、是非」


 彼女はそう言って、涼しげなガラスの器を二人の前に置いた。樹里が戸惑っていると、朱莉はもう嬉しそうに「ありがとうございます」と言って向かいに座り直す。どしようとキッチンを覗いたが、主人の姿はそこに無かった。そして朱莉は、食べたそうに樹里を見つめる。時には、こういう優しさに甘えてもいいのか。昨日のブンタの温もりのように。


「ありがとうございます。いただきます」


 悩んだが、今日は優しさを素直に受け取ろうと思った。朱莉の顔はぱぁっと明るくなり、それもまた心を温める。カウンターに座った男性客も、なんだか嬉しそうにプリンを頬張っていた。


「いただきます。あ、美味しい」

「本当だ。美味しい。お姉さん、とっても美味しいです。ありがとう」


 朱莉は大きな声で、彼女に向かって礼を言った。本当に嬉しかったのだろう。ニコニコと子供のように食べている朱莉。樹里はそれを見て、ふふふっと笑った。

 プリンの甘さが、心に空いた穴に落ちる。寄り添ってくれた朱莉。それから、こうして優しさをくれたヒロミさん。もう、これで良いのではないかと思った。朱莉の言うように、仕事があって、ちょっとの癒しと美味い物があればいい。多くは望まない。きっと幸せは、結婚の隣にしかないわけじゃないから。

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