未婚の貴族or高名の依頼人 11

〈 時系列はポーキーとキティが襲われた夜に戻る/ヴァーノン・ロッジ、グルーナー男爵のやかた/うまうまと呼びこまれた森番の娘、ジャネットのこと 〉


 トウモロコシのような長くもつれた髪。いかにも田舎臭い雰囲気のマスグレーヴ家のカントリーハウスの森番の娘ジャネットが、おどおどとした態度で、しきりに髪を撫でつけながら、裏口からグルーナー男爵の執事だと言っていた男をたずねてみると、彼は以外にもすぐにやって来た。


 愛想よく案内され、主人らしき、顔立ちの整った紳士の書斎に案内されるのに、ジャネットは驚く。


 いまの主人とは違い、愛想のよい彼の態度に彼女の頭の中には、この大都会ロンドンで、いまのやかたよりは見劣りはするが、十分豪華なこのやかたで働ける夢が、大きく広がってゆく。目の前の紳士は彼女に様々な質問をしたあと、大きくため息をついて口を開いた。


「実を言うと、私はいわゆる“成り上がりの男爵”でね。君のご主人のような、生粋の名門貴族には、ひどく嫌われているんだよ。やんごとなき令嬢と恋に落ち、すぐにでも結婚する予定だったのだが、しかし、事情があって挙式が伸びてね。その間に少しでも自分のイギリス社交界での印象を良くできたら……そう思うのだが、何分、君のご主人のような方に出会う機会はそうそうなくてねぇ……君、ご主人さまの予定なんか知らないだろうか?」


 実に人のよさそうな整った顔立ちの、身なりの整った青年が、真摯にそう言って、深く憂いを含んだ顔をするのに、ジャネットは酷く同情した。


「……あの、わたしは、ロンドンのやかたに勤めてはいないのですが、知り合いに聞いてみれば、出かける予定くらいは……でも、今日、カントリーハウスへ帰る予定で……」

 

 帰る予定、そう言いかけた、その時である。とてもここに出入りするような……少なくともそのはずで、その上に、酷くあちらこちらに、青あざを作ったボロ雑巾のような、浮浪者風の男がふたり姿を見せ、執事が主人になにやら耳打ちすると、彼は小声で指示を出し、執事は彼らを連れて消えたのは。


「……いやいや、驚かせてすまないね。急に配管工がダメになって、呼んだらしいのだが、なにかトラブルらしい」

「ト、トラブルはいつも思いがけない時間に、起きるもの……でございますね……困ったものですわ」


 ジャネットは、今日、耳にした『マスグレーヴ卿の婚約者』が口にしていた、上流階級の発音を、精一杯、真似をして上品ぶってみた。


 うつむいているグルーナーが、吹き出しそうな口元を、手で覆って押さえているのにも気づかず……。


「君は意外と教養のある人なんだね。おどろいたよ。それにしても、そう、トラブルといえば……」

「どうかなさいましたか?」

「君、今日の最終列車で、田舎に帰ると言っていたね?」

「そ、そうなんです。あの、それで……そろそろ……」

「……無理だと思うよ」

「え……?」


 目の前の紳士いわく、チャリングクロス駅で、なにかトラブルがあって、いま列車は全面運休しているらしい。


 慌てたジャネットは、何度も何度も緊張をほぐすかのように、薄汚れたスカートの布地をつかんだり離したりしながら、明日の仕事もあるのに、どうしたものかと悩んでいると目の前の紳士は、「ひとまず、勤め先のロンドンのやかたに帰って、顔見知りのメイドの部屋にでも、泊めてもらってはどうか?」そんな至極まっとうな提案をし、ジャネットは、そんなことも分からなくなるくらい混乱していた自分を、はずかしく思いながら、「では、そういたします。失礼いたします旦那さま……」


 そう言おうとした瞬間だった。いきなり紳士が自分のすぐ目の前にやって来ると、自分の肩を抱き寄せて耳元でなにかをささやき、手に小さな袋を渡したのは。のぞいた袋の中には何枚かの金貨。


「こ、これ……あのこんなものいただく訳には……」

「なに、君も知っているかもしれないが、実は、僕の婚約者の父親が、君のご主人に、なんとか結婚を止めて欲しいと、そう頼んでいるんだ。なにせしがない成り上がりのオーストリア貴族だ。話にもならんらしい……だけど、僕の誠意を伝えたいんだ。分かってもらえるように……分かるだろう? 少しばかり、彼の予定を知らせてくれればいい……」

「…………」

「きっかけを作りたい。君のご主人の、ちょっとした予定を探ってくれるだけでいいんだ。あとは自分でなんとかする。君にはなんの問題もなかろう?」


『本当の狙いは、大富豪で由緒正しい家柄の娘であるらしき、マスグレーヴ家の婚約者だがね……』


 ガスのランプが照らす、薄暗い書斎、彼はジャネットを抱き寄せたまま、にっといやらしい、本性を現した笑みを浮かべていたが、単純なジャネットは、すっかり舞い上がっていた。


 ひょっとしたら、彼は自分に好意があるのかもしれない。いいえ、きっとそうよ!


 うわさのお相手は、きっと彼の地位を固めるための存在に違いない。地位を与える本妻、心から愛する身分の低い恋人。成り上がりの貴族には、よくある話だ。ジャネットは、自分の美貌に自信があった。


「……そう、かもしれないですね」


「じゃあ、話がまとまったら、やしきに戻りたまえ! 列車が止まったのも、きっと神の思し召しだ!」

「はい、では、失礼いたします!」


 なにも知らない、しかもそんな都合のいいことを、夢見て思い描いていたジャネットは、冷たい雰囲気の自分の主人よりも、愛想よく金払いのよいグルーナー男爵と名乗る紳士の方が、よほど素敵に見えたし、特に問題もないだろうと、警官に囲まれたやしきに帰ると、取り囲んでいる警官に、ここの使用人だと言い、雑役夫オッドマンを呼んでもらい、ようやくやかたに帰り、知り合いのメイドに彼女の狭くて小さな部屋に泊めてもらえるように頼み込んでいた。



〈 グルーナー男爵のやかた 〉


「キティの襲撃は失敗したようです……。ホームズは馬車で帰宅後、外出の様子がないので、見張りを続行中です」

「ふむ……進展はなしか……いまのところ、さっきの小汚い下働きに期待するしかないか……」

「なにも、ご主人さまが、ご自分で相手をしなくても……」


 執事のしかめた顔に、男爵は、例の皮張りの手帳の表紙を、うっとりと撫ぜながら、薄く笑って口を開く。


「私にも気晴らしが必要なんだよ。ちょっと見た目はいいが、あの面倒で、気位ばかり高い、ヴァイオレットとのつきあいで、すっかり神経がまいっているんだ。……あのときの、なんといったかな、取り逃がしたモデル相手の気晴らしくらいは、あの女でできそうじゃないか?」

「……はい。薬品のご用意をしておきます」



〈 その日のマスグレーヴ家のロンドンのやかた周辺/深夜 〉


 アセルニー・ジョーンズ警部が、キャンディーをなめながら、難しい顔をしていたヤードで長官にがっつり叱責されたあと、パブで愚痴りながら、例の婚約者宛に手紙を書き、再び警備の指揮に戻ってたレストレード警部の前に現れていた。


「お待たせしました! 交代に来ましたよ。これ、差し入れです!」

「シードケーキじゃないか! しかもベリーグッドの方!」


 小腹がすいていたレストレードは、もしゃもしゃと口にする。


「しかも、こんなおいしいのは、初めて食べたよ!」

「喜んでいただけて、なによりです」

「君の奥方は料理上手なんだなあ、うらやましい……ひょっとしてコックを雇っているとか? 君、実家が裕福だったのかね?」


 水筒のぬるい紅茶を飲み、シードケーキを食べ続けながら、レストレードは、ジョーンズ警部を、うらやましがっていた。


「今朝、自分で作りました。菓子を作るのが趣味で……いやあ、それほど、ほめていただけると、照れますよ……」

「え……?」


 シードケーキに罪はない。レストレードはそう思いながら数時間後、ようやくヤードの自分の部屋に帰り、古びたソファで仮眠を取っていると、なぜか独り者の自分は、例の田舎の家に住んでいた。


 そしてなぜかメイド姿の“ジョーンズ警部”が、真剣な顔で、オーブンをのぞき込んでいて、思わず飛び起きていたのである。


「……夢か、驚いた!」


 男ならコックだろう。なぜメイド……いや、夢か……。気がつくと、もう窓から朝日が差していた。


 そんなわけで事件は、訳の分からない『光るマーガリン』なんかの話を挟みつつも、じわじわと進んでいた。


 そしてシードケーキを食べた翌朝、マーガリンの話のあとで、別件で長官に叱責されていた、レストレードは急に腹痛に襲われる。


 あのシードケーキひょっとして……さっきの変な光るを、使ったのか?! まさか……。


 レストレードはそんなことを考えながら、ここ数日、どなりっぱなしの長官の前で意識を失って倒れていった。


~~~~~~~


※ベリーグッドシードケーキは、この時代の上等な方のシードケーキです。(基本的に二種類あるそうです。上と並?)


 シードケーキは、この時代、人気のケーキで、“シャーロック・ホームズ家の料理読本”にも載っています。この『未婚の貴族』連載後、本の通りに作ってみようと思います。ホームズ先生の大好物とか! えええー! これはもう、レッツ・チャレンジ! みなさまのチャレンジも、是非お待ちしてます!



※再度掲載


“ジョーンズ警部”入れ替わり問題ですが、この話では双子です。で、振り分けは、これで行きます。(グラナダ優先で……)


・アセルニー・・ジョーンズ警部→「赤髪連盟」

・ピーター・ジョーンズ警部→「4つの署名」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る