誘惑と敗北

久里 琳

誘惑と敗北


 中高一貫の進学校に高校から編入したおかげで、入学前にみっちり六日間補講を受けることになってしまった。その最終の日の、帰り途。

 電車を二本乗り継いで、さらに最後に半時間ほど電車に揺られなければならない。土曜の午後、街はどこも人であふれて、行き交うひとたちの表情は晴れやかにかがやいて見えた。駅のホームも明るい顔した人びとであふれかえっている。ターミナルだからひとつふたつ便を待てば座って帰ることも可能なのだが、少年は出発まぎわの電車に飛びこんで、半時間揺られる方を選んだ。

 部活帰りなのか、電車のなかには学生の姿も多い。動きだした電車の窓から、満開の桜が遠くに見えた。


 日曜をはさんで月曜には入学式が待っている。その日は母がついてくるはずだ。この一週間ひとり電車に揺られて、はじめて自由に呼吸いきする心地でいた少年にとって母はただ横に立っているだけにしたところで、せっかくのそとの空気になんらか汚染を与えるものとして彼の心にわだかまった。

 県境を跨いでわざわざだれも知る者のいない高校を択んだのだ。それまで借り物のように息をひそめていた窮屈な中学時代だった。ようやく桎梏から解放されてここでほんとうの自分に生まれ変わろうとしているのに、母にもだれにも邪魔させてはならない。


 往復四時間の電車通学。傍目には長過ぎると思われようとも、少年にすれば有意義な時間だった。

 朝の光から県境を越えるトンネルの暗闇に吸いこまれるとき少年はいちど死に、まっくらな子宮の轟音のなかですこしずつ甦っていった。細胞のひとつひとつが押しつぶされ、また新しく生まれかわるのを夢想した。長いトンネルを抜けまた光のなかへ放り出されるとき、少年は新たな生を享けまったく新しい世界へ踏みだすのだった。


 半日を学校で過ごして、疲れきっているはずの帰路さえ彼には心地いい。教科書のつまった重い鞄を足許において、本を一冊とりだした。ページをひらきながら窓のそとを見れば、低いビルがゆっくり左へと流れていくうしろで、ちょうど盛りの桜はさまざまな姿を見せる。

 春の土曜のひるさがり、電車のなかはにぎやかだ。そこらでさえずられる責任も罪もない会話が空気にまばゆい不純物をまぜていく。少年は世界との接続を断って、活字の海に耽溺する。

 語るとは計ること。境目をつけること。そうカフカは言った。言葉は生と死との境界線を決定づけるものだと、そうカフカはおしえた。

 周囲にあふれる言葉たちにはそんな自覚はなさそうだが少年にしたところでたいした言葉を紡げるわけではなかったし、そもそも彼はこの一週間ほとんど言葉を発しなかった。

 補講の教室にはひとりとして知った顔がなかった。それは当然わかっていたことで、ただわかっていなかったのは、世の中には人間関係をつくる才に恵まれた者が慥かに存在していること。そんな者たちにより教室ではすぐあちこちにグループが出来上がってしまった。その輪を横目に少年は、孤独のなかに引きこもった。

 教室で語られる言葉たちにはたいして意味なく、それよりあたらしい人間関係のなか自分はどんな役を演じようかと手さぐりする姿勢が見え隠れしていて、人によっては尊い努力と考えるかもしれないそんな言葉たちを少年はただひたすらに醜いと感じた。

 少年期特有の汗の饐えた匂いに満ちた教室、おぼれるほど若い生命力であふれた教室。彼だけがその世界に属していなかった。ガラスが周りを囲って、彼だけが明るい世界から隔絶されていた。だがそのガラスは彼みずから張り巡らせたものだと、だれより彼自身が知っていた。



 苦悩だけが決定的なのだ。

 カフカのその言葉をそっくり受け容れるほどに苦悩のなかに沈んでいたわけではないけれども、それは少年の胸に甘く響いた。

 中学に入った頃から、教室にいるのが苦痛になった。自分がそこにいるのがいかにも場違いで申し訳なかった。授業をおとなしく聞いていられず隠れて本を読んだり、椅子に座ることさえ我慢できなくなって教室を出て行ったり、それでいてテストの点だけはよかったから先生の覚えもめでたいはずがなかった。

 なにかに反発していたわけではないし、ポリシーあっての行動でもなかった。ただそうとしか生きられなかっただけのこと。先生たちの敵意を身に感じながら、目立たないようにと心では念じながら、気づけばいつの間にかまたクラスの和を乱している自分に歯嚙みする、そうとしか振る舞うことができなかった。同級生たちの異端を見る目が少年を刺した。だがだれも彼を殴りつけてはくれなかった。悲鳴をあげることもできずに少年は、ひそやかに心臓を切り刻んだ。

 ただそれだけのこと。苦悩と呼ぶのは自意識過剰の陶酔だ。



 ふいに電車が揺れ、少女たちの高い声があがった。遊園地で聴くのとおなじ嬌声は、ちいさなおどろきと、それ以上に華やかな胸の高揚を孕んでいる。

 おもわず本から目を上げた少年は、ふくみ笑いする少女と目が合ってすぐまた伏せた。頬があかくなるのを感じた。うっかり嬌声に誘われてしまった自身を恥じて。

 そうやっていつも少年たちは誘惑されるのだ。女たちは無定見に男を誘惑して、それでいて誘惑された男への責任を一切負わない。世界じゅうが桜色に染まる春、少年たちが誘惑に抗う戦は、たたかう前から負けと目に見えている。



 それでも少年は負けを恥じた。男ばかりの教室では保った孤高を、女を前にしてあっさり破られたことを、淫らな負けと恥じずにいられなかった。恥をわすれるため彼は本のなかへと逃げこんだ。

 本に耽溺するうち、いやなことはどんどん消えていった。そうかと思えば本のなかの言葉の端からまた現実が思いだされてどうしようもなく傷痕がひらく。それもひっくるめての耽溺だった。五感はたしかに世界から離れているのに、頭のなかには世界とつながるスイッチがそこらじゅう罠のようにばらまかれていて、それは呪いのように執拗に在りつづけて、いつか触れられるときを待っている。



 早晩彼はスイッチに触れなければならなかった。県外の高校へ通うと決めたとき、彼はたしかに世界と折り合いをつけるつもりでいたのだった。いつかスイッチに触れなければならない。触れた瞬間、きっと彼の世界は一変する。


 たしかカフカはこう言った。危機は狭いかぎられた瞬間にすぎない、と。

「ただ瞬間が問題です。瞬間が生活を決定するのです」

 瞬間とは深淵だ。わずかな、ほんのわずかな亀裂かもしれないが、限りなく深い深淵だ。

 深淵を越えること。深い亀裂に足をとられることなくえることができたなら、その先にはまったくあたらしい光が見えるにちがいなかった。



 また電車が揺れた。ふたたびあがった嬌声に、こんどは少年は動じなかった。本から目を離さず、言葉の海をわたりつづける。誘惑にうち克ったのだ。

 だが少年が勝ち誇ったとき――電車は逆方向にもういちど揺れ、拍子にとなりの少女はよろめき彼の肩にからだをあずけた。細い髪が彼の頬を撫で、甘い薫りが鼻をくすぐった。

 体勢をととのえなおした少女がきまりわるそな声であやまり、すっと少年から離れたとき、自分が決定的に敗北したことを少年は悟った。肩へのふいの一撃に、間髪入れず鼻先へとどめ。

 敗北した少年は、茫然と少女を見る。だが二つの刃をつづけざまに放って少年を打ちやぶった少女は、もう少年を見ない。二刀をもって誘惑したことすら自覚していない。


 少年が顔を赧くしたのは、敗北への恥だけでなく、あらたに生まれたもうひとつの感情ゆえだ。

 その感情に少年は気づいていない。気づいていない限り、この日の戦いはたしかに敗北であったのかもしれない。だがそれは、少年のため必要な敗北だったと、いつか思える日が来ないとだれが言えよう。



(了)

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