天寿

 ずいぶんと、長い夢を見ていたようです。


 重い瞼を開くと、天蓋に掛かった絹のとばりが、闇の中で仄かに白く浮かび上がっております。周りに人の気配はありません。

 若い頃なら、山風に夜着をなびかせ、月夜の庭を逍遥しょうようすることなどもできたでしょう。しかし齢七十を過ぎたこの身には、起き上がる力さえ既にありません。夫も子らも、今は寝静まっているでしょう。

 私は再び目を閉じ、ひとつの名を呼びました。


「……ルーチェ。ルーチェ」

「はい、アマーリアお嬢様!」


 六十年近くも変わらぬ元気な声が、すぐに返ってきました。けだるい頭を巡らせれば、そばかすだらけの少女は、あの日とまったく同じ姿で枕元に立っていました。


「私にもそろそろ、時が来たようです」

「おめでとうございます、お嬢様」


 屈託ない笑顔で、少女――ルーチェは笑います。


「辺境伯夫人として、立派な御子息を二人も儲けられて。旦那様にも御家族にも領民にも、皆に愛されて。お嬢様の幸せを傍らで見守れて、ルーチェも幸せでした」


 語る顔は、ほんとうに純真そのものです。

 ああ、私は、この笑顔のために、今日まで頑張ってきた。


「そしてこれからは、神様の御許で永遠の幸せを――」

「貴女は?」


 言葉を遮れば、ルーチェはきょとんとしました。


「どういう、ことです?」

「ルーチェ、貴女はどうなるの。神様の許に、私と一緒に来てくれるの」

「行けるわけ、ないじゃないですかお嬢様。ルーチェは、自分で自分を殺しました。だから天国には――」

「じゃ、私も行かない」


 ルーチェが、丸い目を見開きました。


「いけませんお嬢様! お嬢様は幸せに――」

「私、ずっと幸せだったよ。……ルーチェの言う通り、幸せになったよ」


 いつしか口調が、少女の頃に戻っています。


「幸せでいたら、ルーチェが喜んでくれるから。……夜中に時々枕元で、にこにこ笑いながら見守ってくれる貴女を、悲しませたくなかったから」


 皺に埋もれた目尻を、熱いものが伝って落ちていきました。


「私は、たくさん……たくさん、幸せになったよ。だから、もう幸せはいいの」


 ええ、確かに私は幸せでした。

 愛情深い辺境伯。健康で素直な子供たち。忠実な家臣たち、領民たち。望んでも得られぬ恩恵を一身に受け、受けたものはできるかぎりお返しして――それが、貴女の望みだったから。

 でも、もう、十分でしょう?


「ルーチェ、言ったよね。私たち、『どうやったってこの世じゃ一緒になれない』って……でもやっと私も、あなたのところへ行ける」


 かさついた唇を引き上げ、私は精一杯の笑いを作りました。震える手を伸ばせば、あの日と同じように、指先はルーチェの胸を通り抜けていきました。


「そちらへ逝ったら、また、抱いてもらえるのかな。優しい優しい、カジキの妖精さんに」


 ルーチェが、私の頬に手を伸ばします。昔通りの荒れた手は、そのまま私の顔をすり抜けていきます。

 ああ、でも、きっともうすぐ。

 私たちはあの日のように、抱き合える。

 いまようやく、取り戻せる。あふれんばかりの幸せの中でさえ、この体に鮮烈に焼き付いていた、あの抱擁とくちづけを――


「幸せは、もうたくさんもらえたから……ね?」


 声もなく、ルーチェが泣きます。

 私も、泣きました。

 静まり返った寝室の中、私たちはいつまでも、泣く力が果てるまで泣いていました。



【終】

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香草、秋桜、カジキの妖精 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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