第8話 準備

 試験当日、暁夫は意外なほど冷静だった。と言っても自信が湧いてきたからではなかった。一度死ぬ覚悟をしてしまえば、却って何にも動じなくなるのだろうか。例え火災が起きようが、或いは隣の者に刺されようが、恐らく些かも驚かなかったであろう。


 発表の日。暁夫はネットで確かめた。結果は合格であった。点数は分からない。しかし受かったことは確かだった。彼は家族への連絡を躊躇した。合格したことを知れば母親の機嫌が悪くなることは明白だったからだ。とはいえ、いずれ知れることであるし、伝えなければそれはそれで愚痴の対象となる。結局、簡素な文章を送った。

 家に着くと、夕食の準備が出来ていた。普段と変わらない献立だった。母親は一言「お帰り」と言っただけだった。家の中は重苦しい静寂に包まれていた。どんな言葉を発しても、母親の怒りは臨界点を超えるだろう。そう云う類の緊張があった。父親は都合により、今日はどうしても来られないということだった。


 翌朝、大学から入学手続書類が届いた。それを開封するとき、母親は口を開いた。

「えっ……ひょっとして、玄大に行く気満々なの?」

 暁夫は構わずに、書類に記入を始めた。いかなる対話も既に諦めていたからだ。

「そりゃあ、玄海大学だって悪くはないけど……でも、もっと良い所がいっぱいあるのに、何も玄大でなくても……お母さんはね、故郷のために貢献することが人生ですごく大切なことだと思うの。それをあなたにも、小さい頃からずっと言ってきたから、あなたもそのつもりでいると信じてた。でも、それはあなたには通じていなかったみたいね。自分の子どもがそんなに遠くに行くなんて、ちっとも考えなかった……」


 ふと見ると、母親は出かける準備をしていた。暁夫は特に気にも留めず、顔を洗いに行った。

「急な用事で、ちょっと出かけてくるわね。二、三日で戻ると思う」

 暁夫が戻ってきたとき、母親はそう言った。詳細を聞く間もなく出ていった。


 記入を再開してすぐ、暁夫は気が付いた。入学金の振込用紙が見当たらないのだ。先程まであったはずだ。……これも母親か。そう確信した。直ちに電話を掛けた。だが電源を切っているため繋がらない。

 期限までに入学金を振り込まなければ、当然入学は許可されない。残された時間はほんの数日。心当たりのある所を全て当たるか。そう考えた。しかし、相手もその程度のことは読んでいると思われた。恐らく、予測できない所に向かっているのだろう。であれば、捜しても見つかる可能性は低い。一応当たってはみるが期待できない。彼はそう考えた。


 もし期限までに戻って来なければどうするか? 暁夫は、これを充分起こり得ることとして考え始めなければならなかった。けれど結論を出すのには時間を要さなかった。基礎となる議論は既に行っていたからだ。従って彼がしなければならなかったのは、「どこで、どのように決行するか」ということだけであった。

 手段が何よりも重要な議題であると思われた。彼にとって理想的なのは、なるべく苦痛の少ない方法だった。睡眠薬はそう悪くない気がした。しかし確実に死ねるかどうかは不明だった。考えた結果、眠る目的で睡眠薬を服用し、その後練炭を焚くことにした。

 次に、どこでするか。できれば、この汚らしい家では死にたくない。そう思った。

 ふと、本棚を見た。その中の一冊を手に取った。群青の薄い本だった。昔何度も読んだ時期があった。それはある島を舞台にした小説だった。いつとは決めていないが、一度行ってみたいと思っていたことを思い出した。最後にここへ行くのも良いかもしれない。そう考えた。

 島のどこでするか。民宿に泊まり、その部屋で自殺することも考えた。しかし死人の出た民宿を誰が利用するだろうか。恐らく誰も来なくなるだろう。他人に必要以上の迷惑を掛けないようにしたい。これは彼の信条であった。従って他の策を考えなければならなかった。

 幼い頃家族でキャンプに行ったことを思い出した。テントは今でもあるはずだった。物置を探すとすぐに見つかった。畳むとさほど大きくない。テントを使うことを決めた。少なくとも宿を取るよりは周囲への迷惑が軽減されるからだ。とはいえ、自分の死が島民にとって好ましいことでないことに変わりはないのだが。

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