第56話

「君、服装に合わせて言語野のレベルが変わるのか?」

「身の丈に合わせただけだ」


 お前こそ。と言いかけて、僕は一度、言葉を飲み込んだ。僕がここに来たのは、こんな小さな喧嘩をおっ始めるためではない。飲んだ言葉を咀嚼して、成形する。無駄口は問いとなって吐き出された。


「お前は一体誰なんだ、溝隠」

「突然だな。僕は溝隠波瑠だよ。君と出会ったばかりの、十八歳の新大学生」

「そうじゃない」


 答え合わせを、求めた。ヒラヒラと蝶のように僕の言葉を回避しようと試みる彼に、照準を定める。


「お前は桑実藤馬の何で、花鍬地楡の何なんだ?」


 二人に目をやる。藤馬は静かに地楡さんを見て、当の彼女は口元を押さえてコロコロと笑っていた。


「君、苦手なら格好つけるなよ。質問の体を成してないぞ」

「弁論が得意な方ではない自覚はある」


 なんだよ。と溝隠は頭を掻いた。年相応の彼の反応は、初対面時のあの飄々とした軽薄さを失っていた。


「僕も話すのは得意じゃない」


 遠回しに、彼は僕の望んだ答え合わせを吐き出し始める。彼も僕も、変化球でしか喋らない程度には、お互いに羞恥心にも似た逃避願望があった。少しずつ、布を擦り破るように、溝隠は言葉を繋いだ。


「僕は溝隠波瑠。遠縁の親族に育てられた孤児。だが、それはこの姿になった後の話」


 色素の薄い肌と髪を揺らしながら、彼は深い青の瞳で僕を見つめる。彼が胸ポケットから取り出したのは、一枚の写真。そこに映る小学生と藤馬とを何度も見比べた。だが、少年の隣で微笑むのは、藤馬の母である桑実菫ではない。色素の薄い毛髪と皮膚、深い青の瞳。そのパーツは溝隠と同じものだった。


「藤馬君だと思うだろう。だがそれは、小学校入学時の母と僕――――溝隠瑠璃と溝隠春馬の写真だ」

「……離婚したとき、既にお前が出来ていたのか」

「オシラサマの雌が十ヶ月で産めるなら、雄は十ヶ月で産ませることが出来るというだけの話だよ。それは父もわかっていたはずだ。母が僕を宿しているくらい理解していただろう」

「捨てたのを、恨んだのか」

「大まかには、そうだね。いや、ただ捨てただけなら良かったさ。宿願だった雌を見つけて、そのまま結婚するというなら、それは、仕方がないことだ。それくらいなら、僕もわかるよ。僕だって、同個体の一つに過ぎなかったからね」


 藤馬と冬馬さん、そしてかつての溝隠の姿は、実にクローンのように似ていた。本能で理解が出来るのだろう。藤馬も溝隠も、花鍬さんと顔を合わせたことがある。それだけで、父親の間違えた理由くらいは、体感しているはずだ。


「そうしなかった理由も、地楡から聞いて納得はしたさ。オシラサマの番は既に破綻していた。本能に生きるには社会は成熟し過ぎていたし、それぞれが違う方向を歩み始めていた」


 でも。と溝隠は接続を置く。一瞬、彼の蝶が煙のように揺れた。暗い彼の目が露出する。


「その納得を以てしても、僕には彼を殺す理由があった」

「それはお前の姿が、母親と混ざっているのと関係しているのか?」

「大いに」


 暗い瞳が、重さを伴うそれに変わる。溝隠の丸くなった背中が、静かに上下しているのに、酷く違和感があった。


「桑実の男は『神』を産むその時まで、怪異として続いて来た。だが、僕の出生と同時に『神』を産む宿願は形式上果たされた。地楡が生まれた。オシラサマの番の子が。だから、僕は、その時点で『次の桑実の男』でいる理由すら失った。その怪異である自分のシステムを伝えないまま、父は母と縁を切った」


 後はわかるね? と、溝隠は鼻で笑った。何となく、叔父から聞いたことはあった。怪異が存在する理由を失うということ。信仰対象や儀式の遂行体、団体の構成員のような『役割』を担わない怪異が、どのように扱われるか。ましてや何も知らない人間の女と怪異の幼体だ。何処かのカルトで信仰対象として祭り上げられるなら最高だが、大抵は過激な怪異撲滅団体に殺されるか、酷ければこれまたカルトに攫われて、その肉を不老長寿の妙薬だとか言われて、生きたまま抉り取られて食われることもある。


「僕は一度、死んでいる。僕が死んだ責任を父に求めた母は、父に再会して、『反魂の法』を教えられた」

「反魂?」

「蘇りの方法ってことだよ。人間ならあり得ないけどね、オシラサマの僕らには方法論だけはあった。繭になって一度死んで溶けた蚕が、成虫になるように、生き返ることが出来るんじゃないかって、かつて誰かが考えたのさ」


 誰かは知らないけど。と、他人事のように溝隠は言った。


「実際の方法を僕は知らないままだ。けど、母は僕をドロドロに溶かして、足りない肉を自分で補って……僕が栓をした風呂釜で目覚めた時、母は太ももの半分より下と、内臓の殆どを失って、排水溝を詰まらせて死んでいた」


 その有様を明確に想像出来ない程度には、僕は惨状に慣れていない。その話を聞いて平静を装える地楡さんが、異常に見えた。きっと彼女も聞いてはいたのだろう。彼らは僕が思うよりずっと前から、異母兄妹として、同じ父親を恨む者として繋がりあっていたはずだ。だからこそ僕は、彼らの異母弟である藤馬の精神が心配で仕方がなかった。彼は二人の不幸に自分が関連していると、きっと思っている。そう考えるだろうと予想できるくらいには、優しい少年だ。


「後は大体、君が考えている通りだろう。地楡に接触し、彼女の目的を手伝いながら、父に近づいた。そして、あの日に至った」


 あの日。オシラサマが死んだ日。花鍬樹と菖蒲綴を焼き殺したのも、桑実冬馬の脳天をかち割ったのも、彼の憎悪が根源にあるのだろう。だがその隣には常に地楡さんがいた。桑実冬馬を刺す前、地楡さんは「やって良い」と溝隠に言った。


「あの」


 ふと、震えた声が聞こえた。ずっと黙っていた藤馬が、顔を青くしながら、溝隠を見ていた。


「そんなに殺したかった人を殺すのに、何で僕に最後、聞いたんですか。どうして殺して良いか、確認したんですか」

「桑実冬馬は僕だけの父親じゃない。君はアイツを優しい立派な父親だと思っていたみたいだから。自分の番に対する身勝手さを見て、それでも君が父親であってほしいと思うなら、その時は僕も、諦めるべきだと、思っていたから」


 じゃあ。と藤馬が口元を歪める。その質問を、させるべきだとは思えなかった。会話を止めようと、舌が動く。声帯に空気が通る直前で、僕の口を、地楡さんが手で塞いだ。彼女は僕を見上げながら、母性を孕んだ唇を尖らせていた。部外者は立ち入るなと暗に言うように、首を横に振る。


「僕があの時止めていたら、父は貴方に殺されませんでしたか」


 僕が止められなかったその問いは、己の責任を問うものだった。藤馬にとって、桑実冬馬はただの父親であったし、花鍬樹に至っては初恋の人だったろう。後者は仕方がないとしても、前者の致死が明確になったのは、溝隠から受けた問いへの彼の返答だろう。その返答がどのようなことを引き起こすかは、その場の状況を見れば明らかだった。

 そんなわかりきった答えを、藤馬は待つ。だが、溝隠は酷く穏やかに、弟を慰める優しい兄のように、顔をより一層蝶で分厚く隠して、口元を緩めた。


「手を滑らせては、いたと思うよ。不器用なもんでね」


 溝隠はそう言って、藤馬に笑った。彼の手元には、少し濡れた果物ナイフと、綺麗に成形された林檎のウサギが可愛らしく座っていた。

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夢蟲の母 棺之夜幟 @yotaka_storys

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