第44話

 白く清潔な建築物に近づけば、その表面に張り付くカマキリの卵が目についた。遠くから見れば白く輝いて見えた病院も、触れられる程に近ければ、老朽化という言葉がチラつく、小汚いコンクリートの塊だった。

 夜にも見た職員用出入口に、私は導かれていた。迷いなく私の手を引く藤馬君は、きっと、何度もここを歩いたことがあるのだろう。そういえば、父親は附属病院の精神科医だったか。母親である桑実も大学キャンパスの保健室で仕事をこなしているのだから、赤子の時から何度も通ったとか、そういうこともあるかもしれない。

 そうやって私が想像を巡らせていると、藤馬君は私から手を離した。いつの間にか握られていた手は、彼の体温を吸って、少しだけ温もりを発していた。掌を眺めれば、触れていた部分が仄かに赤かった。あの白い手の何処からこんな熱が、色が、滲み出ていたのか。当の本人は何処か気まずそうに私を見た後、硝子戸を押し開いた。消毒された空気が外に漏れ出たのを感じて、私は再び、リノリウムの上に立った。


「こっちです」


 唇の先から漏れるような声で、藤馬君が私にそう言った。昼間、他の職員達も患者も歩いている中で、明らかに異物感のある私達は、ひっそりと音を立てないように歩いていた。外界の道路で流れていた空気感とは異なって、皆一様に、敵意も好意もない、異物に対する消化不良の念を、私達に向けていた。

 ただ、時々「藤馬君、久しぶり」と声がかかる。その度、藤馬君は律儀に笑顔を返す。そうしているうち、脳の表面を覆っていた緊張感が霧となって消えていった。私は深呼吸を挟みながら、藤馬君の後ろを歩いて、彼が会釈する度に私も頭を下げ、左に身を寄せれば、同じように体重を左に傾けた。


「あまり見ない風景でしょうから、緊張したでしょう」


 ふと、エレベーターに乗り込んだ矢先、藤馬君は苦笑を見せた。溢れるようだった声は、今ははっきりと私に向けられ、古びた機械音の中でも一音一音が耳に入った。


「緊張より、少し、ワクワクしたかも」

「社会科見学とか、お好きだったタイプですか?」


 私が頷くと、彼は「それは良かった」と言って、目を細めた。比較的落ち着いている時の彼からは、芋虫は漏れ出ていなかった。ただ、咳き込むことも予兆も無く漏れ出る芋虫は、少しだけ心臓に悪い。いつ出てくるかわからないという、僅かな不確定要素が、彼に対する緊張感を高めていた。

 暫く立っていると、チンと音がして、鉄の箱が動きを止めた。二人だけだった小さな空間が、鉄扉の向こうと繋がる。重々しい音の中で、薄暗い廊下に目をやった。


「先生!」


 開ききった扉から、二人揃って足を出した後、藤馬君がそう笑った。彼の目線を追うと、廊下の奥に二人、背の高い男が立っていた。一見して喪服にも見える黒スーツは、私にも見覚えがあった。その当人――韮井先生は、私と目を合わせて、引き攣ったように笑った。そんな彼の隣では、白衣を着た細身の男が、生白い顔を歪めていた。その男は近づく私達に合わせて、数ミリ、高級そうな革靴を後ろに引く。腰は既に引けていて、何処にも向かない手を、空中で震わせていた。

 色彩を混ぜ込んだ灰色の瞳は、藤馬君と似ていた。藤馬君が歳を取ったら、こうなるのだろうか。そう思わされる程に、白衣の男は彼と似ていた。ただ、一つ異なるとすれば、藤馬君には母親の強い目尻が混ざっていることくらいか。


「藤馬、一応病院内だぞ。少し声を下げろ。急に興奮するのがお前の悪い癖だ」


 数歩分の間を置いて、先生は言葉を吐いた。師匠面の先生は、「すみません」と頬を掻いて苦笑する藤馬君を見て、フッと穏やかな表情をした。その隣で白衣の男は、そんな先生と反比例するかのように、一瞬にして顔を青くし、一歩、音を立てて前へ踏み出す。


「藤馬! それから離れなさい!」


 荒々しい男声が、廊下を震わせる。一瞬、自分の心臓が止まった気がした。足がすくむ。網膜の裏に、過去の暴漢が映った。圧倒的な体格差、強い恐怖感に、何処か抵抗出来る刃物でもないかと、手が動いた。


「父さん? どうしたの?」


 私の隣では、怪訝な顔で藤馬君が狼狽えていた。父さんと言った口元は、歪んでいた。動揺する父親の姿を見るのは、初めてなのかもしれない。彼は目を丸くして、父親の表情を観察していた。

 立ち止まった私を置いて、勢いのまま前へ出た藤馬君は、腕を引かれて前のめりに父親へと駆け寄った。彼の腕を掴んで引いていたのは、彼の父親ではなく、先程まで穏やかだった、韮井先生だった。


「藤馬、ご苦労。色々と参考になった。後は大人の話だ。餓鬼は帰ってくれ」

「ちょっと待ってください、花鍬さんに何かするんですか……ねえ! 父さん! 何だってんだよ!」

「病院内では静かにしろと言っているだろう。二回目だぞ。帰れ」


 くるくると動く口に、思考が追いつかないまま、藤馬君は宙に浮いた。否、先生の後ろで控えていた識君が、彼を荷物でも持つように抱え込んでいた。それを追おうとした私の手は、空中を切るばかりだった。誰にも拘束されていないはずの足も、一向に動かない。ゆっくりと、牛のような歩みで近づく白衣の男の姿が、どうしても私の意識を解放してくれなかった。


「…………ッ」


 男の震える唇から、白い蛾が漏れた。それは私が踏みつけて殺した、あの蛾に似ていた。ただ、それは腹を膨らませず、痩せこけた姿をしていて、飛び立とうとしては、私と男の間に落ちて、灰になって消えた。


「わ、私を」


 息と蛾を飲み込んで、男は一度、天井を見た。指で口元を押さえながら、痙攣を止めようとしていた。藤馬君が何処かに連れられ、数秒、廊下に無音が続くと、男はやっとのことで口を開いた。


「私のことを、覚えているか、樹」


 冷静で、紳士的な表情を作り上げて、男は私の名を唱えた。彼の口から溢れる白い蛾が、彼の高揚と動揺を物語っていた。

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