第43話

 一人、来客用のマグカップで、珈琲を啜った。忙しなく動く鹿山を見ても、何も心が動かない。感情が、何処にもなかった。先程まで食卓を囲んでいた住人達は、皆、下宿を出て、私を取り残していった。私のスケジュールはどうだったかと考えるが、特段、今日に限って何もない。授業も無ければ、先生から呼び出されてもいない。父や祖父から何か連絡があったかもしれないとスマホを見ても、そこには何も無かった。

 ――――さて、何をするべきか。

 今、私には何も無かった。はっきりとした目的も、次にするべきことも。人間になるという漠然とした目標は、その具体性の無さで私の脳を焼いていった。不安感が募る。現実の打開策を、私は知らない。他力本願になるしかなかった。多分、状況は悪化している。昨日が、眩暈のする一日が、私から選択肢を奪っていた。


「花鍬さん」


 そうして虚無に耽っていると、鹿山が私の肩を叩いた。変化の無い表情のまま、鹿山は私のマグカップを取り上げると、口を開いた。


「韮井先生から連絡を。今日も話がしたいと」

「昨日の、続きでしょうか」

「そうでしょうね。場所は、附属病院だそうです。お迎えを付けるので、それと一緒に、と」


 直接言えば良いものを。と、文句が脳の言語野を掠めたが、私は「そうですか」とだけ呟いた。少しの挙動が、不快感を増大させる。それをどうにか捨て去るために、長く息を吐いた。

 ぼーっとしている時間が、僅かに焦りを助長する。洗面台の場所を聞いて、顔を洗った。鏡に映ったのは、昨日と何も変わらない、人の手で作られたような青白い私の顔だった。


「花鍬さん」


 再度、鹿山の声が聞こえた。「はい」とだけ言葉にして、食卓に向かった。冷たい廊下を歩く。ふと、食卓に出る扉から、生ぬるい風を感じる。玄関のドアが開いたのだろう。先生が寄越した迎えが来たことを予期して、私は一瞬、下を向いた。目線をずらしたまま、食卓への扉を開いた。充満していたパンと珈琲の匂いが、朝の空気に押し流されていた。


「おはようございます、花鍬さん。お迎えにあがりました」


 そう言ったのは、一人の少年であった。私はその少年のことを知っていた。多色の混じった灰色の瞳。学ランを着ていないからか、一瞬、判別がつかなかったが、彼は桑実藤馬その人だった。


「藤馬君が迎えに? てっきり、識君が来るものだと思っていたんだけど」

「花鍬さん、韮井先輩のこと苦手でしょう、少し」

「苦手、というか、彼が私にちょっと刺々しいというか……え、先輩?」


 あ。と声を上げて、藤馬君は頬を掻いた。説明を忍ばせるかどうか、彼は二秒ほど考えた後、目を細めて言った。


「高校、同じだったんですよ。僕と、他に二人、一緒に三人で先輩と韮井先生にお世話になって」


 成程、そういう交友もあるものかと、納得を飲んだ。身綺麗な附属高校の制服を着た識君を想像する。確かに、しっくりとは来る立ち姿だった。

 会話の中で、藤馬君が差し出した手を取った。高校時代の識君を語りながら、彼は流れるように私を外界へと誘う。人を誘導するのが妙に上手いと感じた。会話の内容に幼さは感じつつも、それすらも利用しているだろう口振りは、本人の母親に由来しているのかもしれない。違和感はあるが、それが不思議と不快ではなかった。

 下宿の外は、昨晩の静寂さと打って変わって、明るい活気に満たされていた。シャッターは隠され、ガラス戸と様々な商品が立ち並び、それらを売り捌く人間、買う人間とで声が氾濫する。日は暖かいが、その音と光が、目に毒だった。鼓動が跳ね上がる。昨晩までは平気で歩けていた道が、少し、歪んでいた。


「大丈夫ですか」


 車道側を歩く藤馬君は、度々そう声をかけた。私はその度に「大丈夫」と頬の筋肉を引き攣らせた。眼底痙攣が止まらない。ここ数日、夜に歩くと怪異に出会うことが多かったが、体調が悪くなるのはいつも日が出ている時のような気がする。であれば、私のこの不安感は、怪異によるものではないというのか。私の問いに、誰が答えを示すわけでもなかった。自問自答とも言えない、ただの文句のようなそれを、私は込み上がる胃酸と共に喉奥へ押し戻した。

 幾つかの信号機に足を停められつつ、少しずつ、キャンパスへの道を辿っていく。大学同期達は、そろそろこの道にも慣れ親しむ頃か。ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。同世代が視界の中に入る度、その目が私に向いていないか、つい顔を見てしまった。幾つかの目は、私を見ていた。いつもは綴が隣にいたからか、あまり気にならなかった、男の目。その一つ一つが、何度もすれ違っては外れていく。ずっと、綴が見られているのだと、綴が目線を集めるのだと、思っていたのだ。けれど、今、改めて耳を澄まして、目を凝らせば、全ては私に向いていたのだと理解出来た。

 人の、全ての人の、眼球の奥が、胃の上に刺さる。その脳にある精神が、どんなものかもわからないのが、酷く不気味だった。

 ――――皆、怪異怪異と言うけれど……そんなものより、普通の人間の方が、よっぽどゴミ溜まりの、蟲の塊のようじゃないか。

 思考が過ぎる。悪態が顔に出ないよう、口元を手で覆った。私が顔を顰める度、無言で藤馬君が私の顔を覗き込んだ。


「大丈夫」


 私が目を細めて見せる度、彼は生まれたばかりの子犬のような顔をした。両手に力を入れれば死んでしまいそうな彼の顔が、何よりの安定剤だった。

 弱々しい立場の人間を、上から眺めるのが、こんなに心地良いとは思わなかった。泥のような己の精神に、奥歯を軋ませる。その表情が笑顔に見えたのか、藤馬君はパッと明るく、白い芋虫を吐き出しながら、笑っていた。

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