外聞:識

第39話

 叔父の煙草は、既に三本目が燃え尽きた後だった。喫茶店の内部は叔父と宗像さんが吐く煙で満たされていた。宗像さんの隣では、棗と久那が紅茶を啜りながら、大人達が乱雑に荒らす紙束を整理していた。


 花鍬さんの家を後にした僕達は、菖蒲さんを彼女の「実家」に送った後、そのまま商店街の喫茶店へと向かった。織部先輩や生成先輩も、車を回収した後、叔父の指示で僕達に付き合っていた。溝隠に至っては、菖蒲さんが居なくなった途端「面白そうだから」と、進んで僕と叔父に着いて歩いた。彼の好奇心を露出させた姿に、先輩達が酷く驚いていたのを、忘れられないでいた。

 そんな猫被りならぬ蝶被りの溝隠本人は、さも当たり前のように、僕の目の前でホイップたっぷりのココアをスプーンで舐めていた。彼は先輩達を叔父達の側に置いて、迷いの無い顔で僕の正面を陣取っていた。


「君、本当によくわからない奴だな」


 ポロと出た僕の言葉を、溝隠は鼻で笑っていた。彼の表情は、ハッキリとはわからないが、泣き黒子の動きで、何となく理解は出来た。


「わからない? 何に対する疑問だい、それは」

「色々だよ。まず、君の目的、ひいては行動原理がわからない」

「目的なんてあるものか。面白そうだから、だよ。僕が花鍬さんにちょっかいをかけてみたのも、君達に着いてきたのも」

「ちょっかいって……さては告白した以外に何かしでかしてるな?」


 正解。と、溝隠は口角を上げた。彼は何処か、僕との対話を楽しんでいるようで、軽快に舌を回していた。


「昼間、『蝶を通すと僕からはよく見える』というようなことを、話しただろう」


 そう言って、溝隠は人差し指で、蝶を一匹取り出して見せた。一瞬、彼の左目がハッキリと見えた。艶やかな睫毛と、穏やかそうな眉が印象的で、瞳は暗いが、ハッキリとした瑠璃色だった。その瞳の色と同じ蝶が、ふわりと僕に向かって飛んだ。溝隠の顔は再び、何処からか生まれた蝶で全て隠されてしまった。


「マジックミラーのようなもの、とも言ったかもしれない。だが、それは完全な説明ではないんだ。もっと素直に言えば、こいつらは僕の『瞳』なんだよ」


 青い蝶は、溝隠の言葉に合わせて、羽を開閉する。この鮮やかな蝶が瞳だとは、直感では思えなかった。


「要はね、僕はこいつらを通して、色々見えるのさ。これが案外便利なもんでね、遠くに居ても、その風景が頭の中に浮かぶ」


 溝隠はそう言いながら、自分の目を指差した。成程、それを瞳と言うのは理解出来た。


「つまり君はこれを使って、花鍬さんを見ていたと」

「今も見てるよ」

「……ストーカーって知ってるか?」

「それは私人間で行われる迷惑行為だろう、僕達は違う」

「ストーカーは皆そう言うんだよ」


 僕がそうして珈琲を啜ると、溝隠は心底不思議そうな顔をしていた。おふざけでストーカーを否定した訳ではないらしい。彼は頬を掻きながら、眉を顰める。

 それと同時に、喫茶店の扉が開く。春の夜の、冷たい風が、店内に入り込んだ。それらと共に顔を見せたのは、白い体と黒い服を合わせた、一人の女性だった。店にいる全員が、彼女に目を向ける。その背後には、昼間と変わらない姿の葦屋さんが立っていた。


「七竈、やっと来たな。葦屋も遅いぞ。待ちくたびれた。もう話が煮詰まり過ぎているんだ」


 白い女――七竈さんは、叔父の声に肩を竦めた。被っていたキャップを脱いで、彼女は先生達に向かって足を出した。


「オーナー、アイスコーヒーを、フロートで。アイスクリームは多めが良い」


 はい。と微笑むオーナーを横目に、七竈は白い髪を揺らした。背後で身を屈める葦屋さんと合わせて見れば、何処かのお嬢様とボディーガードのようにも見えた。そんな二人は、織部先輩や生成先輩の奇異の目すらも無視して、叔父の隣に陣取る。特に七竈さんは横柄な態度で、足を組んで見せた。


「花鍬樹と花鍬地楡に、会ってきましたよ」


 一言、それだけ置いて、彼女は煙草に火をつけた。煙を吐く彼女を見て、「どうだった」と声を上げたのは、宗像さんの方だった。


「端的に言えば、気色悪かったですね。ドロドロしていて、蛹の中身を見ているようでした」


 彼女の言葉が、何を差し示しているのか、僕にはよくわからなかった。ただ、叔父と宗像さんは何かをわかっているようで、二人は顔を見合わせて、答え合わせをしていた。


「ただ、附属病院に入院している妹の……地楡と呼べば良いですか。アイツは蟲を育てていたようですが、敵意も悪意も無いですね。シンプルに『蟲を育てるのに必要だったから死体を集めていた』ようですよ」

「何故蟲を育てていたのかは?」

「特に理由なんて無いでしょう。アクアリウムだの昆虫飼育だのが趣味の人間が、何か目的を持って繁殖させます? 自分の手で増えていくものを見ているのが、面白いからとか、そんなもんでしょう」

「そういうものかな」

「そういうものですよ。文系の宗像さんにはわからないかもですが」


 紫煙を揺らす七竈さんの隣で、葦屋さんが頷いていた。叔父から聞いた話ではあったが、この二人は元々、大学で水圏生物を学んでいたらしく、どちらかと言えば生物には詳しく、考え方も史学の僕達とは違っているらしい。そも、七竈さんに至っては、考え方が根本から異なる、異質な人物ではあった。二年程前に、叔父が奔走していた事件が、確か、彼女に纏わる大事件だったと記憶している。


「花鍬樹の方はどうだった」

「姉の方ですか。あっちは無自覚で、それでいて被害者面で……大分、質が悪い」


 叔父の問いに、七竈は苛立っているようだった。花鍬さんに対する印象は、最悪のようだった。ただ、彼女の言う花鍬さんの造形は、何処か、僕達とは異なっていた。


「あのどろっどろの溶けた顔に、よくぞ優しい言葉を吐けるもんですね、先生」

「あの手合いにはある程度慣れている。それに、あれは祖母の代から皆、あんな感じだったからな」

「じゃあ、一つ、お聞きしておきたいのですが」


 七竈は前置きを立てて、叔父を見た。問いを共有しているのか、葦屋さんもまた、彼女と同じ方向を見ていた。


「花鍬樹の顔は、『擬態』ですね?」


 淡々と、けれど少しの苛立ちを含んで、七竈は言った。それは問いというよりも、確信を得るための行為に見えた。

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