第38話

 ふわふわと、脳味噌が浮いていた。いつの間にか、私は妹の病室から連れ出されていたらしい。夜風が、私の頭を撫でていた。職員出入り口の光は、もう一段階落とされていて、七竈の白さだけが目立っていた。


「それじゃ、霧子さん。請求した資料の方は直接先生と立花さんの方にお願いします」

「アンタは要らないの?」

「蟲の姉妹仲を探ったところで、僕には意味がありませんから」


 七竈と霧子の会話は、どうやら私と妹のことを指しているらしい。本来ならこれにプライバシーだのを求めなければならないのだろう。だが、今の私に、それらを求める権利は無いようだった。


「それで、そっちは顔色が悪い……のかしら? よくわからないけど、お大事にね」


 会話の途切れと共に、霧子が私を見てそう言った。彼女の訝しげな目は、疑義の中にある私の脳によく刺さった。暗がりでよくわからないのかもしれないが、多分、私の今の顔面は、酷いものなのだろう。脂汗と震える眼球、焦点の合わない瞳孔、開いたままの口。具合が悪いなどという軽い言葉で表せるものではない。私は、口に溜まった唾を飲み込んで、口角を上げて見せた。僅かでも、言葉を返そうとするが、私の言葉を聞く前に、霧子は私の顔から目を逸らした。


「私はそろそろ夜勤に戻るから。先生達によろしくね」


 霧子の言葉に、七竈は「はい」とだけ答えて、背を向けた。同時に、私の肩を掴むと、歩くように促す。機械的な動きが、思いやりの無さが、心地悪かった。喉につっかえた何かは、吐くことも、飲み込むことも出来ない。歩いているうちに、息が出来なくなっていく。それでも、掴まれた腕を軸に、体が引きずられる。このまま肉塊となって、体の半分が削れても、ずっと、地面に擦り付けられるのではないかとすら思えた。思わず、顔を上げて、口を開ける。何か、声が漏れてしまっていたのかもしれない。七竈と目があった。


「顔を見せるな。気色悪い」


 彼女はそう吐き捨てると、少しだけ歩速を落とした。何とかもつれた足を元に戻す。どうにか早歩きで七竈の足に合わせた。

 拒絶されるのは慣れている。特に女性から受けるそれは、物心ついてから、日常的なものだった。けれどそれらは、全て「羨望」を伴っていた。だが今、私を見る七竈ハラヤという女の目は、羨望ではなく、侮蔑と生理的嫌悪感を孕んでいた。光のない目は、その奥底の悪を私に突きつけている。

 まるで私のことを、本当に「蟲」だと思っているような――――私が、蟲を見ている時のような、そんな目線を、私に向けていた。


「これからお前が世話になる下宿は『鹿山下宿』という。出来るだけ静かに、誰にも姿を表さずに過ごせ。あそこに住んでいる奴らは皆、怪異が見える。ただでさえ精神をすり減らしているんだ。お前の姿なんか見ていたら、そのうち病院送りになるぞ」


 七竈はそう言って、歩速を更に緩めた。彼女の言葉には棘こそあったが、私自身、彼女の言っているように過ごすつもりだった。ただ、その理由が、私の「迷惑をかけたくない」というものか、そうではないかの違いだけだった。


「朝食と夕飯は出る。が、出来るだけ一人で食え。なんなら外で食ってきてしまう方が良い」

「あの……ご迷惑をおかけしないように、というのはわかりますが、私がそこまでしないといけない理由は、何でしょうか」

「お前を見ていると、食欲が失せる」


 私の目の前で、あれだけ食っておいて、何を今更。ふと、そんな矛盾が浮かんだが、私は口を閉じた。

 ふと、視界に仄かな街灯があった。気がつけば、私達は既に、人集りの多い駅前を抜けて、閑静な夜の商店街に足を踏み入れていた。大量の人間を掻き分けた覚えも、そこまで歩いた覚えもない。けれど、私は確かに、商店街の居酒屋から漂うアルコールと煙草の匂いを、鼻に感じていた。


「あの、私、もしかして眠ってました?」


 しどろもどろに、七竈に問いかける。すると彼女は立ち止まって、僅かに口角を上げた。


「眠っていた? あぁ、似たようなものだな」


 その怪しい表情は、何処か韮井先生を真似たもののように見えた。そうしてまた、彼女は口角と表情を地に落とす。ハッキリとした黒い瞳だけが、脳裏に焼き付いた。


 そこから数十メートル歩いたところで、また七竈が立ち止まった。彼女の動きを真似て、右手にあった建物を見上げる。そこにあったのは、不可思議だが、妙な温もりのある、二階建て住宅だった。現代日本の都市ではまず出会わない、煉瓦造り。赤い煉瓦は街灯を反射して、冷たくも穏やかさを醸し出していた。扉にはアンティーク調の呼び出しベルがあった。昼間は何か店でもやっているのか、「closed」と書かれた札がかけられていた。


「鹿山さん。僕です。七竈です」


 そう言って、七竈は二回、扉をノックした。この可愛らしい家屋こそが、鹿山下宿というらしい。数秒の後、小さな軋みを伴って、扉が開いた。同時に現れたのは、細身の女だった。癖の強い長髪をシンプルにまとめて、僅かに漏れた前髪だけが揺れていた。化粧っ気の無い平たい印象の顔は、七竈を見ると、朗らかに笑った。


「ハラヤ君、お疲れ様。先生から聞いてるよ。お待ちしてました」

「鹿山さんもお疲れ様です。面倒をかけます」


 オーナーと目される女――鹿山と七竈は、そう言葉を交わすと、ひっそりと声を落として、何か言葉を交換していた。鹿山が七竈の耳に息をかけ終わると、今度は七竈が香山の耳に音を入れる。儀式めいたそれは、どうやら私のことを伝言しているらしかった。


「あぁ、そう、君が」


 全てを把握した後、鹿山はゆっくりと瞬きをした。その直後、彼女は私を見て、笑顔を作り直した。


「ようこそ、鹿山下宿へ。疲れたでしょう。今日はゆっくりお休み。挨拶は明日の朝、改めて」


 急くように、何かを隠すように、焦りを含んだ頬で、鹿山は私の手を取った。導かれるまま玄関を跨ぐ。足を建物の中に入れた途端、急に、体の重みを感じた。重力が増えたような四肢の痺れ。恐らくは、世間一般で疲労感と呼ぶもの。鹿山の言葉に従って、彼女の案内する部屋に向かおうと、足が勝手に動いた。僅かに残った反抗の意思が、背後へと目線を送った。

 扉は既に閉められて、七竈の気配も、もう、そこにはなかった。

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