第28話 紅碧への餞

 紅碧べにみどりの水揚げの夜がやってきた。

 それに伴い稲葉諒は紅碧に対して今夜の水揚げをする男性に関する事を教えた。

 遊女の水揚げの夜が近づくと彼は遊女にはなむけとして1つの品物をくれるのだ。


「いよいよ今夜、君の水揚げだね。遊女として一本立ちするこれからの君に私から細やかなはなむけをさせてくれ」

「これは?」

「私からの餞は代々、かんざしとなっている。君に似合うのは何かと選ぶ時間は私も好きでね」


 紅碧に餞をする諒。

 彼女に手渡したのは、蝶の細工が施されたかんざしだった。所々には色硝子が使われた紅碧の名前に似た青緑色の硝子細工が蝶にされている。

 稲葉諒からの暗喩も込められた贈答品だった。蝶の簪は諒からは"蝶のように艶やかに生まれ変われ"という意味らしい。

 もう一つの言葉は"艶やかになって売れっ妓になり鳥籠から飛び立て"という意味もある。

 稲葉も冷酷非情な楼主ではあるが、何も年中非人情でもなく、むしろ普段から人情味を捨てた訳でもない。

 楼主は8つの徳を忘れた者、"忘八"と揶揄され世間体は厳しい現実が待つ。しかも生業が賤業で知られる女郎屋の親父。

 だが、稲葉諒は8つの徳を忘れもするが、どれか1つの徳だけは捨てないと常日頃から実践している。

 遊女への餞も彼なりの徳がさせている。

 そんな遊女達はたった1つだけ思うのは、できるなら水揚げはその稲葉にして欲しいと言うが、それは掟でも禁忌であった。

 その掟を楼主の自分が破っていい動機などない。できない相談だった。

 だが、紅碧も例外では無かった。


「旦那様。やっぱり私は……旦那様に初めての人に……」

「できないよ。それは駄目だと何度も言ってるだろう? 私にもできない事はあるんだよ? 君達の初めての男性にはどう足掻いても無理なんだよ……」

「だからせめて、この餞を贈る事にした。それが私ができる君個人に対する"想い"だ。その簪が君を護ってくれる事を願うよ」

「あの……今夜、私の相手となる方はどういう方でしょうか?」

「楽しみにしておきなさい。君にとって感慨深い相手かも知れない」


 珍しく水揚げの担当する人物をぼやかして表現した稲葉諒。

 紅碧の水揚げをする男性は、松の座敷にて襲われそうになった彼女を助けた、あの幇間だったからだ。


 そうしてその夜がやってきた。

 梅雨時だが珍しく雨はやみ月が姿を見せる静かな夜に、あの"彼"が客として揚がった。


「これはこれは、レムさん。また今夜も桜華楼に来て下さりありがとうございます」

「揚がっていいかな?」

「どうぞ、お揚がりください。草履はそこの若い衆にお預けになってください」


 勇太が草履を預かり、靴箱へ入れた。

 この少年、勇太は産まれも育ちも吉原の桜華楼出身の少年で、母親はここの遊女だった。その母親は性病に罹り既に死亡している。

 以来、稲葉諒と楓が実質的な父と母になり少年を育てたという。そこそこの美少年になった勇太は、桜華楼にて"福助"と呼ばれる伝言役として活躍している。

 優しい見た目が概ね好意的に受け入れられているので諒としても助かる人材である。

 

「今回の登廊もとても円滑だったね。楓さん」

「ええ。零無レムさんにも感謝しかありません。ここの所、伊勢谷さんは世界で起きている戦争に追われて忙殺されているので」

「戦争……か。嫌な響きだね……」


 零無の微かな記憶は、自分はこの時代ではない所で戦争に参加していたという事がしこりのように残っている。

 その記憶は彼の嫌な記憶なのだろう。想い出そうとすれば刃のようなもので斬り刻まれるような痛みを訴え、そして彼自身も徐々に忘れるように振る舞い出した。

 それに襲われると仕事にも支障をきたすので意識的に想い出さないようにしているのだ。

 

「今夜の私の相手は誰かな?」

「振袖新造の紅碧べにみどりです。今夜、晴れて零無さんによる水揚げでございます」

「そうそう。あれから紅葉もみじは飛ぶように売れておりまして。今、期待の振袖新造と噂されてますわ」

「あの娘はいい娘だよ。売れっ妓になってくれるなら俺も嬉しいね」


 桜の座敷に案内された零無は、あの時のように髪型を変えて、服装も準礼装で桜華楼に揚がっている。

 その姿は稲葉諒にそっくりなので、僅かな違いに気付かない人は、旦那様本人では? という人が大半である。

 零無の感覚にあの既視感が甦る。

 紅葉を抱いたあの夜と同じ感覚だ。

 桜の座敷の外からは賑やかな他の座敷に響く流行歌が聞こえた。池本さんの歌は零無に心地よい時間と安心感を与えた。

 すると若い衆の賢治が、御膳を持ち現れた。


「零無の旦那。お待たせしました。今夜の夕食をお持ちしましたよ。水揚げの前の腹ごしらえはしないとですね」

「今夜の面倒は賢治、君が見るのか?」

「はい。健太も喜兵衛も友吉も、今夜はちょっとばかし忙しいんです」

「忙しい?」

「実は、今夜は振袖新造の薄紅うすべにが花魁に格上げされまして。その花魁道中の為に出払っているんですよ」

「へぇ〜。そりゃあまた忙しい訳だな」

「こっちはこっちで紅碧の水揚げという大事な仕事ですからね。零無の旦那にはきちんと精をつけて貰わないと」

「頑張るよ」


 俺は自分の名前が入れられた箸入れから箸を取り出して、仕出し料理屋の夕飯を食べだす。

 白いご飯と穴子の蒲焼き。穴子はこの時期が旬な魚らしい。後はほうれん草のお浸しに、厚焼き玉子があった。味噌汁にはアサリが入っている。

 しばらくすると紅碧らしい女性の声が聞こえた。


「失礼しなんす。今夜の御相手致します紅碧でありんす。宜しくお願いしておくんなんし」


 彼女は桜の座敷に入ると正座をして俺に丁寧な御礼をして挨拶をしてくれた。

 彼女は顔を上げると、その瞳が当惑に輝いた。

 何処かで、見たことがある……。

 そんな言葉が聞こえてきそうな雰囲気だった。

 俺はとりあえず笑顔で挨拶する。


「やあ、初めまして。零無だ。今夜から二晩に跨いで君の相手をさせて貰うよ。宜しく頼むよ」

「は、はい。宜しくしておくんなんし」

「お酌、頼めるかな?」

「ようざんす。零無さん、どうぞ……」


 紅碧の衣装は、彼女の名前の通りの着物だった。青灰色せいかいしょくとも言われる青味を帯びた灰色という色の着物に装飾として牡丹の花があしらわれた着物だった。

 紅碧は俺に対してやはり、見たことがある……という感じの視線を送りつつ、俺にお酌していた。

 俺も同じ。この娘は俺があの横暴な客から守った、杜若かきつばたの名代として松の座敷にいた娘だ。

 奇妙な縁を感じた。

 その娘は今夜、俺に初めての男性として抱かれる。

 お酌して貰う間、話題は先程、賢治が教えた薄紅花魁の話になった。


「今夜、新しい花魁が誕生したそうだね」

「はい。薄紅花魁であらっしゃります」

「最近まで、振袖新造だったってね」

「主様が薄紅花魁を抜擢したようでありんす」

「君の前でこんな事を言うのもだけど、薄紅花魁の顔は拝みたいものだね」

「気がつまりんす」

「君の話を聞きたいね。何歳になったかな?」

「この夏で14歳になりんした」


 14歳。今までで一番若いじゃないか。

 ちょっと驚いたな。

 軽く驚く俺に彼女は気を遣う。


「大丈夫でありんすか?」

「驚いたね。14歳か。でもそれもいいね」

「どういう意味でありんすか?」

「そんな君の初めての夜の相手が俺だったのが嬉しいからだよ」

「薄紅花魁も14歳で水揚げされたとおっせえした。だからわっちもこの年齢としで水揚げされるのかなと思っておりんした」

「そんな薄紅花魁が生まれた夜に君が今夜、生まれるんだね」

「なら、早速、しようか?」

「はい。賢治さん。零無さんをかわやへ連れておくんなんし」

「旦那。では行きましょう。紅碧さん、お仕度です」


 そうして紅碧との初夜が始まろうとしていた。 

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