【KAC二刀流】2つの仮面

結月 花

LIFE or DEATH

 ──ずぶり。と肉に刃が沈む手応えがあった。


 冷たい刃が命を断つ瞬間。肉厚の豚を包丁で捌く時とはまた違った薄気味悪い、だが俺にとっては手に染み付いた感覚だ。念押しでもう一度グッと柄を押し込むと、刺された男は大きく痙攣する。震えが収まったと共に、俺はナイフを勢いよく引き抜いた。

 薄暗い闇の中に勢いよく水を溢したかのような音が響き渡る。俺の目の前にいる男は、一声もあげることなく仰向けに倒れた。ビシャン、と血溜まりの中に倒れた男はピクリとも動かない。全身に無駄な贅肉をまとった、よく肥えた男だ。高級なスーツの袖からはハムのような腕が見えており、三重顎の巨大な顔の中では光の失せた瞳が虚空を見つめている。身ぐるみを剥いでしまえば気持ちの悪い豚のような男だが、高利貸しで儲けた金で財を築いた大金持ちでもある。

 金糸をふんだんに使った趣味の悪いスーツを見て、このスーツもこんな男に着られたくなかっただろうにとどうでも良いことが頭に浮かんだ。たった今人を殺したばかりなのに、なぜ俺が呑気にスーツに同情しているかというと、それは俺が殺し屋だからだ。人殺しなど日常茶飯事、俺にとっては瑣末さまつ日常ルーティーンワークにすぎない。

 今回のターゲットはトマス・ワーカーという高利貸しの男だった。常識を逸脱した高金利で多くの人々を地獄へ追い込み、多大な恨みを買ったらしい。俺への依頼は「トマス・ワーカーという巨漢の豚を殺害し、彼の経営するシンドリック商会を潰してくれ」というものだった。依頼内容にも容姿について書かれるなんて、彼は随分と市中の嫌われ者のようだ。

 俺はいつものようにターゲットの死を確認しようとトマスの側に屈んだ。慎重に彼の体を検分する。呼吸と脈拍は無し。次に瞳孔の開きを確認しようと男に顔を近づけた瞬間、背後で扉をノックする音が聞こえた。


「旦那様?」


 若い男の声だ。まずい。この男の秘書か世話役の者だろうか。何にせよこの現場を見られるのは殺し屋生命にも関わる。俺は男から離れると、開け放たれた窓からヒラリと闇の世界へ身を投じた。



 それから俺は諸々の後処理を済ませた。証拠になりそうなものを始末し、何食わぬ顔で帰路につく。自室に戻った俺は、黒い衣服を脱ぎ捨て、着替えを済ませると白衣を羽織った。コーヒーメーカーで熱いコーヒーを淹れていると、ドアをノックする音がして、白いナース服を着た看護婦が現れた。


「あら先生、もうお戻りだったんですね」

「今日の患者はわりと早めに片付いてね」

「それは良うございました。夜勤お疲れ様です」

「ああ。ありがとう」


 短く返事をしてコーヒーをすする。そう、俺は殺し屋でありながら医者という、二足のわらじを履いている。いわゆる二刀流というやつだな。医者として人体の隅々まで知り尽くしている俺は、殺し屋としても一流の腕前を誇っていると自負している。

 自室でリラックスしていると、ふいにバタバタと外が騒がしくなった。複数が走る音と悲鳴のような泣き声。次の瞬間には先程の看護婦が部屋に飛び込んできた。


「先生、急患です!」

「わかった、今行く」


 俺は愛用のメスを手に取り立ち上がった。ナイフからメスに持ち替えた瞬間、俺は殺し屋から医者になる。まぁ今夜の患者もパパッと片付けてその後はのんびり読書でもするかと呑気に構えながら俺は患者と対面し、そして絶句した。


 運び込まれたのは、俺が先程殺したはずのターゲットだった。



──────


「先生、主人は助かるのでしょうか」


 トマスにすがりついて泣いているのは彼の奥方だろうか。醜い容姿をしたこの男には不釣り合いとも言える、艶やかな美人だった。


「やるだけやってみましょう」


 俺は言った。さも難しい手術ですと言わんばかりの顔で奥方に告げ、タンカーに乗った彼を手術室に運ぶよう看護婦に指示を出す。格好だけ手術オペの準備をしつつも、俺は内心焦燥感で混乱していた。


 ──クソっ。まさか仕留め損なっていたとは。


 その場でターゲットの死を確認するのは殺しの基本だ。あの時は邪魔が入ってしまったが、しっかりととどめをさしておくべきだった。人間、誰しも必ずミスはある。だがそのミスが運悪くこのような形で自分に降り掛かってくるとは思ってもみなかった。

 俺は手術台の上に横たわる巨漢の男を見下ろした。俺が殺ったのだ。彼を蘇生することなど造作もない。だが、そうなると俺の殺し屋としての評判はがた落ちだ。そして、彼を見殺しにするとなるとこの町の名医としての俺の評判にも傷がつく。


 医者か。殺し屋か。

 二刀流と自負していた俺は、今まさにどちらかの刃を捨てなければならない選択を迫られている。俺に相応しいのはどちらの刃なのだろうか。


 俺はギリッと歯噛みし、手に持つメスをぐっと握った。

 そしてゆっくりと男の頭上にメスを振りかざした。








「奥様、お話があります」


 俺が声をかけると、手術室の前に備え付けられた長椅子で項垂れていた奥方がパッとこちらを向く。


「先生! 主人は……主人はどうなったのでしょうか!」

「その件についてあなたに話しておかねければならないことがあります」

「そんな……まさか……まさか手術が」

「いえ、手術は成功しました」


 彼女の言葉を遮るように、俺は淡々と告げた。奥方の顔が一瞬輝いたが、苦渋の表情をしている俺を訝しげに思ったのか眉をひそめた。

 

「手術は成功したのですよね? それで私に話があるというのは?」

「私から説明する前に、まずは彼の姿を見ていただきましょう」


 俺の言葉に、看護婦がガラガラとタンカーを引きずってくる。その上に乗る夫の顔を見た途端、奥方は息を呑んだ。


 目を閉じていてもくっきりと見える二重まぶたに高い鼻梁。顔周りの肉は全て取り除かれ、まるで彫刻のように整った端正な顔がそこにあった。顔だけではない、体の脂肪も全て取り除かれ、元からあった人体の正常な骨格ラインを保っている。鍛えられていないから筋肉が無いのはいたしかたないが、それでも服を着ればそこそこの男に見られるのは間違いないだろう。まるで見違えるような姿になった夫の姿を、奥方は呆然と眺めていた。


「あなた……」

「申し訳ありません、奥様。私にはこうすることしかできませんでした」


 俺はできる限り悔しそうな声を出す。


「奥様、よくお聞きください。彼の傷は心臓を一突きされていました。これは素人の手口ではありません。人体を知り尽くした殺し屋の手口です」

「殺し屋……!? そんな、まさか」

「いえ、奥様。残念ながら事実です。その証拠に、彼の体には他に外傷がありませんでした。これはよほど腕の立つ殺し屋に狙われたに違いありません。今回は彼の体を覆う脂肪のおかげで命を取り留めたようですが、もし彼が生きていることを知られれば、今度こそ間違いなくやつはご主人を殺しにくるでしょう」

「そんな……私達はどうすれば」

「ええ。ですから私は彼の姿を変えたのです。今の彼の顔ならば、以前のトマス・ワーカー氏と気付くものは誰もいないでしょう。このままあなた達は商会を畳み、国外へ逃げなさい」


 ここで俺は言葉を切った。さも悲痛な顔を貼り付け、ぐっと拳を握る。


「奥様、申し訳ありません……奥様の許可なく勝手なことをしてしまったこと、お許しください。ですが私にできることはこれが精一杯でした」

「いえ、いえ、結構ですわ。むしろ十二分な成果を出してくださいました。感謝いたします」

「勿体無いお言葉です」


 俺は恭しく頭を下げる。奥方は目の前の夫を見つめていたが、涙は既に引っ込んでいた。むしろどこか高揚したような恍惚とした表情を浮かべている。無理もない。彼女が愛ではなく金の為に彼と結婚したのは、事前の調査の時にリサーチ済みだ。最近ではたくさんの見目麗しい男と浮気を繰り返しているのも知っている。むしろ、無償で彼女好みのいい男に変えてやったのだから感謝されてもいいくらいだ。


 その後、奥方は俺になんべんも礼を言いながら去っていった。彼女が通常報酬より何倍も上乗せして報酬を支払ってくれたのは言うまでもない。



 その後、俺は殺しの依頼主にも完了ミッションコンプリートと報告した。嘘は言っていない。シンドリック商会は廃業し、「醜いデブのトマス・ワーカー」は文字通りこの世から消え去った。顔を変えた彼は、今頃名前も変えて国外で奥方と豪遊生活を送っているだろう。


 この一件で俺は人を言いくるめる才能があるかもしれないことに気付いた。そこで、最近では詐欺にも手を出そうと画策している。おっと、もちろん同時に弁護士の資格も取得中さ。相反する刃は常に持っておかないと落ち着かない主義でね。

 なんだって? それでは四刀流になってしまうじゃないかって? そんなことはない。俺が手に持つ刃はいつも二本さ。

 だが、その刃は何種類いくつも持っていたっていいだろう──?

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