第11話 若者たちの選択

 森原沙希の一言は、俺の心を「かき乱した」。彼女の発した一言が頭の中に残っていた。


―じゃあ、辞めちゃえばいいじゃん―


 もちろん、今まで仕事を「辞める」ことを考えなかったわけではない。毎日毎日、地獄のような通勤電車に乗るのも疲れていたし、IT業界特有の、「細かすぎる」作業にも嫌気が差していた。


 だが、俺の中では、なかなか決心がつかなかった。仕事を辞めた途端に、もちろん収入は一切なくなるし、そうなるとバイクを手放さなければならないかもしれない。


 かと言って、転職しても状況が良くなるとは限らない。


 結局、その後、俺と彼女は山を降りて、上田市に入り、昼食は信州名物のそばを食べて、上信越道、関越道、圏央道を通って、それぞれ帰宅への道に着いたのだが。


 道中は、あまりよく覚えていなかった。

 というのは、ずっと考えていたからだ。


 バイクというのは、たとえ2人以上でつるんで走ったとしても、インカムでもない限り、結局乗っている間は、1人だ。


 つまり、「考える」時間がいくらでもある。つい、色々と考えてしまうのだ。

 そのため、少し上の空になっていた俺は、彼女には申し訳ないことをしたとも思うのだが。


 

 帰ってからも考え続け、悩み続け、自宅では転職サイトを覗いたりしながらも、過ごした。


 1週間後。

 俺は、本社の営業担当に電話連絡していた。


 話がある、ということを伝え、会った瞬間、「辞表」を提出していた。


 こうなるともう後戻りはできない。

 幸い、3年間働いて、少しは貯金があったのと、ボーナスを残してあったので、数十万円は蓄えがある。


 それにわずかだが、退職金も出ることを知っていた。

 もちろん、営業担当には、「止められた」が、一度決心したことだ。俺には「後戻り」する気はなかった。


 なお、辞めてからどうするかは、まだ考えてもいなかったが、漠然と「旅に出たい」とは思っていた。森原の言葉がきっかけになって、俺の人生は変わろうとしていた。


 翌日。

 辞表の話は、営業担当を通して、現場リーダーの溝坂にも伝えられていた。ところが、IT業界というのは、「汚い」ところで、現場には、派遣や出向で来る社員の上に、「お客様」と呼ばれる、さらに上の人間がいる。


 俺たちのような立場の弱い人間には、その「お客様」に直接「辞める」ことを伝える権利がなかった。


 早い話が、ギリギリまで辞めることを伝えずに、その間に「替わり」の人間を探したりするのだが、「臭い物には蓋をする」感じのこの風習は、俺は嫌いだった。


 結果的には、このプロジェクトが終わる7月中旬が都合がいいらしく、それに後任への「引継ぎ期間」をプラスして、7月末日が退社日になるらしいとわかった。


 だが、隠してはいても、同じ会社の人間である林田には、すぐに伝わってしまった。


 いつものように、昼休みに喫煙所でタバコを吸っていると、彼女が俺の元にやって来た。


「聞きましたよ、先輩。会社辞めるって本当ですか?」

 彼女の瞳はいつになく真剣だったから、俺は嘘をつく気にはなれずに、首肯していた。


「ああ。辞める」

 すると、彼女は、俺が思いもしない行動に出たのだ。


「だったら、私も辞めます」

 さすがにこれはない、と俺は慌てて止めに入る。


「バカか、お前は」

「バカとは何ですか?」


「だってそうだろ? 俺は一応、3年は働いたんだ。お前はまだ新卒で入ってから、たったの2か月だぞ。俺と同じ時期に辞めたとしても3か月だ。履歴書の経歴に傷がつくぞ」

 こう言ったのは、もちろん、あまりにも「短い」期間で、退職をすることで、彼女の人生が不利になるからだ。


 海外では、逆に転職を繰り返しても不利にはならないが、ここ日本では頻繁に転職をしていれば、「また辞めるかもしれない」と思われ、転職が不利になる。

 ましてや、林田は新卒すぐだから、なおさら、人生に悪影響を及ぼす。

 いくら付き合いが浅いとはいっても、一応同じ会社に所属しているし、「同僚」として、林田のこれからの人生を思えば、とても推奨など出来ない。


 しかし、彼女は、笑いもせずに、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。

「そんなの関係ありません」

「関係なくはないだろ」


「いいんです。元々、私はITにはそれほど興味がなかったですから」

「だったら、何でウチの会社に入った?」


「いや、それは……」

 珍しく、言い淀んでおり、というより何か言いづらいことを言おうとしているように見えたが、結局、彼女は答えをはぐらかしていた。


「とにかく、私も先輩と同じタイミングで辞めますから」

 どこか怒ったように、一方的に言い放ち、彼女は俺を喫煙所に残したまま、足早に自席に戻ってしまうのだった。


「何だ、あいつ」

 いつものハキハキした彼女らしくない、と思った。



 残り期間は1か月と少し。その間はあっという間に思えるはずなのだが、これが意外とそうでもない。


 何しろ、辞めるまでの間、プロジェクトを絶対に成功に導かないといけないし、後任への引継ぎも、しっかりやらなくてはいけない。

 もし、「抜け」があったら、それだけで何を言われるかわかったものじゃない。


 俺は、こういう変に「細かい」日本社会が苦手だった。


 最終的には、何とかリリースまで漕ぎ着けることが出来、後任への引き継ぎも終わっていた。


 7月31日。

「お世話になりました」

 俺と林田が、2人揃って、現場リーダーの溝坂に告げると、奴はどこか苦々しげな表情を浮かべていた。まあ、どうせあいつのことだ。


(勝手に辞めやがって)

 くらいにしか思っていないのかもしれないが。だが、俺は内心、こいつと二度と接点がなくなることに喜びを感じていた。


「僕も残念だけど、頑張ってね、2人とも」

 良心的な川谷先輩は、俺と林田の門出を祝ってくれた。


 同様に、本社の人間にも挨拶をしに行く。

 同じタイミングで帰社するという林田と共に会社に行き、営業担当、事務担当、さらに大きな会社ではないので、社長にも直接挨拶に行く。


 本社の人間は、現場と違って、まだ良心的だったから、「頑張ってね」とか「残念だな」とか、一応は励ましと惜別の言葉をかけてくれた。


 そして、一通りの挨拶が終わった後。


 本社を出てすぐに、林田に声をかけられた。

「先輩。これからどうするつもりです? まだ転職先も決まってないんでしょう?」

「それはお前も同じだろ?」


 喫煙所で、何かとタイミングが合って、一緒に過ごすことが多い林田。彼女の口からも、まだ転職先が決まっていないことは聞いていた。


「そうですけど。私は先輩に聞いてるんです」

 何故か怒ったように口を尖らせてきた。


「そうだな。しばらくは働きたくないから、旅にでも出ようかな、と思ってる」

 俺は、何の気なしに、彼女にそう告げたのだが、実はこれがマズかった。


「マジですか! じゃあ、私も一緒に行きます」

 喜び勇んで、目を輝かせていたが。さすがに俺は制止に入る。


「いやいや。お前はマズいだろ。大体、3か月しか働いてないのに、金はあるのかよ?」

「ありますよ。実はこっそり副業してましたから」

 溜め息が漏れた。そもそも、ウチの会社は「副業禁止」だったはずだが。もっとも、1年も働いていない彼女は、年末調整で、会社にバレる前に辞めてしまうから、関係ないのかもしれないが。


 これが、もし在籍したまま年末を迎えれば、年末調整の段階で、別に収入があることが本社にバレる。


「どこに行くんですか?」

「お前には教えない」


「そんないじわる言わないで、教えて下さいよー」

「嫌だ」


 しつこく聞いてくる彼女を、何とかかわして、その日は帰宅したのだった。


 旅はもうすぐ始まろうとしていた。行き先は「北」と決めていた。

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