第16話「トイレで考える」の巻

 祭林は、喫煙室に向かいながら煙草を一本取り出しくわえた。胸ポケットのライターをまさぐりながら喫煙室のドアを開け、左手でドアを閉めるのと同時に右手で着火した。「効率的な動きだ」と思いながら満足そうに最初の煙を吐き出した。

先客があった。祭林は冷やかすように言った。

「これはこれは、社員の健康のために、社内禁煙の貼り紙を貼りまくった庶務課長様。自らの戒めを破られるとは」

「面目ない。禁煙は体に悪い」

「あら、あっさりと敗北を認めるんだな。お前らしくない。拍子抜けだな」

「じゃあ、俺らしく言わせてもらうが、お前さっき、煙草をくわえながらこの部屋に入ってきただろう」

「それがどうした。無駄のない動きだっただろ。我ながら『段取りの美学』と感心していたところだ」

「ケッ。ほかに省く無駄がいっぱいあるだろうに」

「だから、煙草をくわえながら喫煙室に入って何が悪い。煙は外に漏らしていない」

「それを言い換えるとだな。『イチモツを出しながらトイレに入って何が悪い。小便は外に漏らしていない』となるわけだ」

「バカが。俺がそんなことするわけないだろう」

「やってるんだよ」

「俺が?」

「そうだ」

「ほんとに?」

「みんな知ってるよ」

「バカな。やってないよ」

「今度見たら、思い切り指摘してやるよ」

 庶務課長は先に喫煙室を出て行った。祭林は煙草を吸いながら、自分がそんなことをしているかどうか考えていた。そして、喫煙室を出た足でトイレに向かった。

 トイレの入り口の手前で自然にファスナーに手がかかっていることに気付いた。確かにワンタイミング早い。もしトイレがいっぱいだったら、開けたまま待機することになる。成り行きに任せていると、便器の一歩手前でパンツから取り出し、定位置に付くと同時に放水が始まった。「逆算の美学」とまたもや感心している自分に気付いた。

 陶器の便器の上面に「こぼすな。一歩前へ」とテプラで打って貼ってある。貼りモノ好きな庶務課長が最近貼ったものだ。「一歩では片足が前に出て半身になり、小便は一層こぼれてしまうではないか。庶務課長め。思慮の足らぬやつだ」とつぶやいた。

 その言葉をじっと見つめていると「一歩」が「二歩」と書いてあるように見えた。乱視のせいかと思って目を凝らすと、それは毛であった。髪の毛か。否。この扁平な断面を持つ波打った形状。これは陰毛である。そういえば、小便器の上面にはときどきこの毛が乗っている。なぜ、ここに毛が付くのだろう。「ときどき」というより「しばしば」。見苦しい。誰のものとも知れぬ、しかし、間違いなく男のもの。自分が相当変態だったとしても見たくはない。「吹き飛ばしてしまえ」とばかりに吹いてみたが、毛根の何かの成分で陶器にくっついているらしく、飛び去ることはない。向きが変わって「十歩前へ」になった。

 気が付くと小便は終わっていた。とうに終わっていたのかもしれない。ということは、自分は意味もなくモノを出したままにしていたのかもしれない。我ながら無駄なことをしてしまった。水を流すボタンを押そうとすると、手に陰毛が付いていた。「こうして、ここに落ちて付着するのか」。謎は解けたが、その毛が白いことに驚いた。

 驚いたせいか、便意を催した。小が大に変わることは誰にでもあることである。背後の個室に入らなければならないが、ズボンのファスナーを上げるべきかどうか悩んでしまった。ここで上げても、個室に入ると一番に下ろさなければならない。不合理だ。祭林はファスナーを上げないどころかパンツに納めることもせずに、個室に入った。

 個室の便器は洋式でお尻洗浄付きである。痔持ちの祭林が庶務課長に頼んで、最近導入された。それまでは和式だった。そういえば、和式にはお尻洗浄は付いていない。どうしてだろうか。尻の位置が定まらないよな。前寄りにしゃがむ者はカッターシャツの尻尾にかかる。後ろ寄りだとタマ裏か棒を直撃だ。

 パンツを下ろし、便座に腰を下ろす。出たのは深呼吸のように長く静かな屁だった。何度か「ふむっ」と力んでみたが、屁ばかりで身が出る気配はない。そのうちに便意はどこかへ行ってしまった。「はあ、出るのは屁とため息ばかりなりか。余はものすごく不本意である。これではただの座りっ屁ではないか」。なぜか、残っていたごく少量の小便が出た。「うーむ。座り小便など男のすることではない。このままではすまされぬ」。

 そのとき、祭林はひらめいた。「そうだ。水で出口を刺激すればいいんだ」。さっとボタンを押した。「ワオ!」思わず声を上げた。タマ裏に来た。間違って「ビデ」を押していた。舌打ちをしながら、ボタンを押しなおした。今度はジャスト!

 そして効果てき面、堰を切ったように排便された。イメージ的には四十センチもの大物。しかし、確認するようなことはしない。たいてい裏切られる。十センチ未満の細い物であることが多い。「ペンシル便」と名づけていた。

 祭林は強さを調整しながら、尻がきれいになるイメージを浮かべた。放水が終わると、ポタポタと液が落ちた。祭林にはその液を透明な水道水としてイメージすることができなかった。「うんこ溶液」という言葉が浮かんだ。

 もう一度、ボタンを押した。位置、温度、強さともジャスト! 肛門が刺激されたせいか、再び便意を催した。そしてまた、ペンシル便らしきものがでた。水流が便をこそぎ落としていった。トイレットペーパーで拭き、目視で紙に付着する色を確認する。

「血だ! 今日も赤うんこか。たまには黒々としたやつをひり出してみたいものだ。イカ墨スパゲティでも食うか。そういえば、人間ドックでバリウムを飲んだら白蛇のようなものが出るよな。イカ墨とバリウムを交互に食ったら白黒縞の海蛇が出るかな。しかし、バリウムは金属だ。イカ墨など腹の中でさっさと追い越して下りていくよな」。

 つまらぬことを考えながら、もう一度ボタンを押す。またもや便意。出る。また押す。またしたくなる。出す。

「俺はいったい何をやっとるんだ!」

 祭林はようやく輪廻から解脱し、個室を出た。

 何ともいえぬ虚無感に襲われた。手洗い場のシャボンを手に取り、泡を起こし、流水で流した。

 ふと、鏡に自分の顔を見た。年老いて見えた。

 現役引退まであと数ヶ月となっていることを思った。

 祭林は深呼吸し、勢いよく顔を洗った。再び鏡に映し、両手でパンと頬を叩き、気合いを入れた。

「よし、もうひとがんばり!」と言いながら、自分の席に向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る