水族館その一

 義母である葵の来訪からしばらくして、世間はゴールデンウィーク期間に突入した。


 ゴールデンウィークともなれば、大半の者が何かしらの予定を立てているだろう。友人や家族、はたまた恋人などとゴールデンウィークだからこそできることを考えているはずだ。


 陽翔の場合、例年なら特にやることもなくダラダラと過ごすだけだが今年は違う。


「――お姉ちゃん、陽翔お兄ちゃん! 早く来てよ、置いて行っちゃうよ?」


「真那、あまり急ぐと転びますよ? そんなに走らなくても水族館は逃げたりしませんから、少しは落ち着きなさい」


 先を行く真那に、真澄は呆れ混じりに言った。


「えー、でもお……」


「いいから少しは落ち着きなさい。どうせあなた一人では水族館には入れないのですから」


「はあい……」


 姉に窘められて、真那はガックリと肩を落としながら二人の元に戻ってきた


「随分とハシャいでるな、真那。そんなに水族館が楽しみだったのか?」


「うん、前からずっと行きたいと思ってたんだ。それに今日はお姉ちゃんだけじゃなくて陽翔お兄ちゃんも一緒だから、凄く嬉しい!」


 そう、今日三人は以前から約束していた水族館に遊びに来ているのだ。


 場所はマンション最寄りの駅から電車で三十分ほどのところ。ゴールデンウィーク真っ只中ということもあり、駅の周囲にはそれなりの数の人が見受けられる。


「ははは、嬉しいことを言ってくれるな」


 丁度いい高さの頭を撫でれば、真那は心地良さそうに目を細めて笑った。


「どこから回るのかは、もう決めてあるのか?」


「うん! あのねあのね、まずは――」


 余程楽しみにしていたのだろう。真那は水族館内をどう回るのか、声を弾ませて語った。


 真那と水族館での予定を話しながら、三人は目的の水族館前に到着する。


「うわあ、人がいっぱいいるね」


「まあ、ゴールデンウィークだからな」


 水族館内はゴールデンウィークということもあり、人でごった返していた。特に入場ゲート横のチケットの販売所は、長蛇の列を作っている。


 今から並ぼうものなら、入場ゲートを抜けられるのはかなり先のことだろう。


「今からあの列に並ぶの? 水族館、全部見て回れるかな……」


「安心しろ、真那。わざわざ並ばないで済むように、事前にネットでチケットは買っておいたから」


「本当? じゃあすぐに入れるね!」


 不安に表情を曇らせた真那だが、陽翔の言葉ですぐさま輝きを取り戻した。この反応を見ただけで、混雑を想定した準備をしていて良かったと思える。


 それから入場ゲートでスマホで購入した三人分のチケットを見せて、三人は水族館内に足を踏み入れた。


 水族館に入ってまず最初に三人の目に飛び込んできたのは、一目では全貌を見渡せないほどの巨大な水槽。そしてその中を泳ぐ数多の魚たち。


 薄暗い水族館内で光源にもなっている巨大な水槽は、嫌でも人々の視線を惹きつけた。


「わあ! 見て見て、お姉ちゃん、陽翔お兄ちゃん! お魚さんがいっぱい泳いでるよ! 凄い凄い!」


 入場ゲートを抜けた先に広がる光景に、大興奮の真那。興奮のあまりピョンピョンとその場を何度も跳ねているが、それも仕方のないことだろう。


 陽翔も日常ではお目にかかれない光景に目を奪われてしまっている。


「……真那の言う通り凄いですね。こんなに綺麗なものを見られるとは、思いもしませんでした」


「本当だな。水族館の中ってこんな風になってるんだな。正直ちょっと見くびってたわ」


 水族館なんて真那ぐらいの年齢の子供が楽しむためのものと思っていたが、これは認識を改める必要がありそうだ。


(まあ、俺はそもそも水族館に来るの自体が初めてなんだけどな)


 幼い頃は周りに連れて行ってくれるような大人がいなかったし、一人で行けるような年齢になってからはあまり興味を持たなくなっていたので、行ったことがないのは仕方がないのだが。


「陽翔お兄ちゃん、お姉ちゃん! 早く次行こう!」


 どうやら、真那はもうこの光景に飽きてしまったらしい。陽翔と真澄の手を引いて、次へ行こうと急かしてくる。


「真那、あまり急かさないでください。私たちはもっとゆっくり楽しみたいんです」


「でもあんまりゆっくりしてたら、全部見て回れないよ!」


 とっくに分かっていたことだが、今日の真那は水族館内の展示を全て見て回るつもりのようだ。


 今日の真那はいつにも増して元気いっぱいだ。今はまだ真澄の言うことを聞いているが、それもいつまで保つことか。


 真澄も同じ危惧を抱いたのか、「全く、この子は……」と呆れている。


「真那、水族館を楽しみたい気持ちは分かるけど、少しは落ち着け。そんな調子だと、そのうちはぐれちまうぞ。こんなところで一人ぼっちは嫌だろ?」


「ううう。だけど……」


 食い下がる真那。陽翔の言っていることを理解はしているが、納得はできていないといったところか。


「それにこんな人の多い場所で迷子になったら大変だぞ? 合流するのにも時間を食うから、水族館の展示物を全部見て回る余裕もなくなる。それでもいいのか?」


「嫌だ!」


「じゃあちゃんと真澄の言うことを聞け。俺も真澄も、真那と同じで水族館を楽しみたいんだからさ」


「はあい……」


 不承不承といった感じではあるが、一応陽翔の言い分に納得してくれたようで落ち着きを取り戻してくれた。


 それから三人は、ゆっくりと水族館内の展示を見て回る。


 先を行く真那を視界に収めながら、真澄はゆっくりと口を開いた。


「ありがとうございます、陽翔君。あの子、最近は私の言うことは素直に聞かなくなってきてしまいましたから助かりました」


「どういたしまして。けど、真那は真澄の言うことも基本的に聞いてくれてると思うけどな。今日は少し言うことを聞いてないみたいだけど、それは水族館に来てるからだろうし」


「それは陽翔君の前だからですよ。あの子、陽翔君にはいい子だと思われたいみたいですから」


「俺に?」


 真那は時折真澄を困らせることもあるが、基本的には元気いっぱいのいい子だ。人に咎められるようなことをする悪い子ではない。そのことは、陽翔もよく知っている。


 だから、わざわざ陽翔のことを意識していい子ぶる必要はないように思える。


「どうして真那がそんなことをするのか、分からないって顔をしていますね?」


「……何で分かるんだよ?」


「陽翔君は分かりやすいですから」


 クスクスと口元に手を当てて笑う真澄。何だか、バカにされてるような気がしないでもない。


「別に難しく考える必要はありませんよ。ただあの子も、小さくても女の子だったというだけです」


「…………?」


 真澄は陽翔の疑問に答えたつもりなのだろうが、残念ながら陽翔は首を傾げることしかできなかった。


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