真実
真那を見つけてからしばらく後。三人は黒川家の部屋に戻っていた。
真那は長時間外にいたせいか、泣き止むと同時に電池が切れたように眠ってしまっため、今は自室でスヤスヤと安らかな寝息を立てている。
結果、リビングにいるのは陽翔と真澄の二人のみ。現在はソファで少し距離を空けて座っている。
「――戸倉君、今日は本当にご迷惑をおかけしました。このお礼は後日、何らかの形でさせてください」
「さっきも言ったけど、迷惑かけたなんて思わなくていいぞ。普段は俺の方が世話になってるんだからさ」
ここで恩を着せるような真似をするほど、陽翔は恩知らずではない。それに真那探しを手伝ったのは、世話になっている云々関係なく、陽翔も純粋に真那が心配だったからだ。
「それにしても、真那は幸せ者だな。黒川みたいな自分のことを大事にしてくれる人がいるんだから」
「……本当にそうでしょうか」
普段の真澄からは考えられないほど、弱々しい声音。なぜだろう、今の真澄は些細なきっかけで霞の如く消えてしまいそうな危うさが感じられた。
つい先程までの、必死に真那を探していた時とは大違いだ。
「本当に大事なら、真那に辛い思いをさせたりしてません。私は……あの子の姉失格かもしれませんね」
「何言ってるんだよ、黒川が姉失格なわけないだろ」
真澄が、いつだって妹の真那を第一に考えていることは知っている。今日だって、我が身を省みることなく真那を探していた。そんな彼女が姉失格なんて、あるわけがない。
だが真澄は、弱々しく頭を振る。
「いいえ、私は姉失格ですよ。私がしっかりしていれば、あの子に寂しい想いをさせることはありませんでした。……あの子が両親に会いたいと言い出すこともなかったはずです」
「……もしかして、両親のことがケンカの原因だったのか?」
内容が内容だけに恐る恐る訊ねてみると、真澄は力なく頷いた。
「お父さんとお母さんに会いたいって、あの子は泣きながら言うんです……どれだけ訴えても無理なのに」
「無理ってことはないだろ。そりゃ向こうにも都合はあるだろうけど――」
「無理ですよ、絶対に。あの子は、もう二度と両親には会えません」
静かに、けれど一切の逡巡もなく真澄は答えた。
次いで、真澄の口元が弧を描く。ただ自嘲じみたそれは、見ていて痛々しさが感じられた。
「だって私たちの両親は一年も前に――亡くなりましたから」
「…………ッ!」
告げられた衝撃的な事実に息を呑むが、同時にどこか腑に落ちた自分がいることを陽翔は感じていた。
――思い返してみれば、真澄たちの両親がどうしているのか、そのことを直接真澄の口から聞いたことはなかった。
てっきり仕事の都合で長期間家を空けているのかと思ったが、それは陽翔がただそう思い込んでいただけ。
真澄も真那も、一度として出張だなんて口にしたことはない。
「そういえば両親のこと……戸倉君には、話したことがありませんでしたね。いきなりこんなことを話してしまって、ごめんなさい」
「聞いたのは俺だ、気にしなくていい。それよりも……真那は両親のこと、知らないのか?」
「はい、あの子は何も知りません。あの子は未だに、両親は仕事の都合で戻ってこないだけと信じています」
「どうして黙ってるんだよ。教えてやれば今回みたいなことには――」
「教えて、どうなるんですか? 教えたところで、両親は帰ってきません。事実を告げても、あの子を悲しませてしまうだけです」
それが彼女にとって苦渋の決断だったのであろうことは、真澄の顔を見れば想像に難くない。
「両親が死んだと聞いた時、私凄く悲しかったんです。辛くて辛くて、悪い夢であってほしいと、何度も思いました。……あんな想い、あの子にさせたくありません」
真澄は何かを堪えるように、キュっと唇を引き結ぶ。
なぜ真澄に両親の死を伝えないのか。今の彼女の発言で、それを訊ねたのが愚問だったと思い知らされる。
彼女のすることは、いつだって真那を想ってのことなのだ。そのためなら、例え最愛の妹を騙すことになろうと、心を鬼にして実行するだろう。
「だから決めたんです。両親の代わりに、私があの子を育てようって。両親ができなくなってしまったことを、私が全部してあげようって……あの子を幸せにしてあげようって」
「黒川……」
きっと、陽翔などでは想像すらつかないほどの覚悟があったのだろう。陽翔よりもずっと華奢な身体で、どれほどのものを抱えてきたのか。陽翔には推し量ることすらできない。
「でも、上手くいかないものですね。私では両親の代わりにはなれないどころか、泣かせてしまいました」
真澄は才色兼備で完璧な少女だと、ずっと思っていた。ただ優秀なだけでなく、家事や妹の世話までこなすなんて簡単にできることではない。少なくとも、陽翔には真似できない。
だから特別な人間なのだと、心のどこかで思い込んでいた。けれど、目の前の弱りきった真澄を見て、それは誤りだと今思い知らされた。
真澄は特別なんかじゃない。ただ人より頑張り屋なだけの、陽翔と同じ年のか弱い女の子なのだ。
「結局、私ではあの子を幸せにすることができない。それが今回のことでよく分かりました」
「分かりましたって……真那をどうするつもりなんだよ?」
「実は、親戚の中にあの子を引き取りたいと申し出てくれた人がいるんです。とてもいい方ですから、そちらに預けた方があの子も幸せになれるはずです」
それは、真澄にとって苦悩の末の決断なんだろう。柔和な笑みを浮かべてこそいるが、陽翔の目にはそれが取り繕っただけのものに映った。
そんなに辛いのなら、無理をしなくていい。そう言葉をかけたいが、これは部外者の陽翔が口を出していいことではない。
(けど……)
口出ししてはいけないと思いつつも、一つだけどうしても訊ねたいことがあった。
「黒川は……それでいいのか? 真那と離れ離れになるんだぞ?」
「はい、構いません。きっと、この方が真那も幸せになれますから」
妹想いの真澄らしい答えだ。心の底から、真那の幸せを願っていることが伝わる。
――しかし陽翔は、それが気に食わなかった。
「違う、俺が訊きたいのはそういうことじゃない。俺が訊きたいのは、黒川がそれで幸せなのかってことだ」
「それは……」
俯きながら、口籠る。
真澄はいつだって真那の幸せを願っている。今だって、妹のために苦渋の決断をしようとしている。
けれどそこに、真澄の幸せはあるのだろうか? 真那の幸せを願うあまり、自分を蔑ろにしてないと言い切れるだろうか?
「黒川。正直、俺には黒川の選択が正しいのかは分からないし、口出しする権利なんてないってことは分かってるつもりだ」
陽翔は「けれど」と前置きしてから、まっすぐ真澄を見据えて続ける。
「黒川が幸せになれない選択なら……俺は嫌だな」
「…………ッ!」
これは陽翔のワガママだ。こんなことを言っても、真澄の決心を鈍らせ困らせてしまうだけだと分かっている。
ただそれでも、これまで最愛の妹のために身を粉にしてきた真澄の結末に彼女の幸せがないことが、どうしてか許せなかった。
「……でも、私じゃダメなんです。私一人では、あの子を幸せにできません。だから――」
「黒川、今俺が聞きたいのは、どうしたらいいかじゃない。お前自身はどうしたいかだ。お前の偽りのない本心を聞かせてくれ」
「私が、どうしたいか……」
囁くような、自分自身に問うような声音で呟く。
それから数秒してゆっくりと顔を上げた真澄の瞳には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「真那と、一緒にいたいです……離れ離れなんて嫌です。あの子の成長をこれからも、ずっと側で見守っていたい……!」
取り繕っていた時の面影など欠片もない、グシャグシャに歪んだ表情で、叫ぶようにして真澄は願いを口にした。
溢れる涙は、彼女がこれまで溜め込んできものを吐き出すようにして流れる。
これまで真澄は、妹のために姉としての仮面を被り続けてきたんだろう。本当は自分だって両親の死が辛かっただろうに、それらを押し殺して姉として振る舞っていた。
(辛かったんだな……)
真澄がどれほどの悲しみを抱えてきたのか、陽翔には想像することすらできない。かける言葉すら思い浮かばない。
ただそれでも、今もとめどなく流れる涙で、少しでも彼女の悲しみが晴れるのを願うことだけは許してほしい。
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