ニンファルの羽ペン

示紫元陽

ニンファルの羽ペン

 夜宵やよいはクラスの中でも群を抜いて優秀な男子だった。さも当然かのようにほとんどの教科で高得点を並べ、文系理系を問わずおしなべて良い成績を保っていた。一方で身体能力にはやや難があり、どうも伸びが滞っている。そうは言っても別段運動音痴というわけでもなかったのだが、彼はその点において引け目を感じていた。

 彼の古い知り合いに、東雲しののめという男子がいた。東雲は夜宵とは対照的に、頭脳は些か劣っているものの、身体を動かすことにおいては軒並み高い能力を発揮していた。夜宵が消極的な性格である一方で東雲は明るく気さくな性格であることも、彼らの異なった印象を強固にしていたと言えるだろう。

さだめ、今日放課後暇? 今度の試験のためにまた勉強教えてくれよ」

「またか、あき。まぁいいけど、放課後お前んち行けばいい?」

「おぅ、問題ない! ありがとう!」

 彼らは高等学校に進学した今でも、二人で時を過ごすことがままあった。だがその内容としては夜宵が東雲に勉強を教えるというのが多かった。というのも、東雲は自分の弱みについてなんら気兼ねなく他人に頼める性質だったが、夜宵の方は自分で行わなければ気が済まないという陳腐なプライドがあったからである。夜宵は他人の力を易々と借りるには及び腰であった。

 放課後東雲との勉強会をしたその帰り、夜宵が線路脇をとぼとぼと歩いていたときである。自転車を押しながらふと視線を横に向けると、傍で座敷を広げている西洋的で古風な身なりをした女性と目が合った。大きなつばのついた帽子をかぶり、まるで魔女か何かのようである。彼は少し気味悪く感じたが、どうもすぐに視線を逸らすことが出来ず、その短い間に女性が口を開いた。

「君、欲しいものがあるんでしょ?」

「え?」

 声は透き通るようで、思いのほか若いのだろう。突然の問いに夜宵が返事に窮していると、女性は立ち上がってずいと彼の方へと歩み出た。なじみのない香水の匂いが夜宵の鼻をつく。

「『ニンファルの羽ペン』。これはね、自分のなりたい人“みたい”になれるんだ」

 返答を待たずにそう言った女性の華奢な右手には、羽ペンとインク瓶が掴まれていた。一見何の変哲もないペンである。彼女の言葉に夜宵の心が一瞬揺らいだには揺らいだが、やはり胡散臭い感じは拭えない。

「いやそう言われても、僕は別に……」

「まぁまぁ、お金はいらないから」

 夜宵が判然としないでいると、女性は有無を言わさずその『ニンファルの羽ペン』とやらを押し付けた。夜宵はそのまま使い方を無理やり教え込まれ、女性はそれで気が済んだのかさっさと片付けてそそくさとその場を去ってしまった。

 腑に落ちないながらも貰った羽ペンを持ち帰った夜宵は、食事と風呂を済ませた後自室で女性の言葉を思い出した。

『まずこのインクを使って自分の名前の下に四角形を描く。次になりたい人物を思い浮かべて、その四角形の中にその人の名前を書くだけ。紙は何でもいいよ。できるだけはっきり想像すれば、それだけ自分もそれに近くなるからね。もし満足したら、同じインクで塗りつぶせば元に戻るから覚えておいて。ただし、書いた紙は塗りつぶす前に燃やしちゃダメだよ。絶対にね』

 夜宵はベッドに仰向けになり、羽ペンとインク瓶を掲げてまじまじと見てみたが、やはり女性の言葉を鵜呑みにはできかねた。しかし、まぁ何も起こらないならそれで仕舞いだし、試しにやってみるかと鞄からノートを取り出して開いた。ビリビリと一頁破り取って、教えられたとおりにペンを走らせてみる。四角形の中の文字は、“東雲明”であった。

 すると次の一瞬、鉛のような何かが身体をねっとりと通り抜けるような感覚を夜宵は覚えた。少し胸やけも感じたかもしれない。だが、それ以上は何も起こらない。やはり遊ばれただけだったかと、夜宵は紙と羽ペンを机に放り投げて再びベッドに横になり、その日はぐっすりと眠った。

 しかし、それからのことである。夜宵は身体が以前よりも軽く、意のままに己を制御できることを実感するようになった。

「定、最近調子いいな」

「そうでもないよ」

 夜宵はそう謙遜するも、心中では誇らしげな感情を抱いていた。これで自分も東雲と対等、いやそれ以上になれると。

「夜宵くんも東雲くんくらい運動できたんだね」

「くそう、天は二物を与えていたか」

 夜宵が文武両道の二刀流だと噂されるのに、そう時間はかからなかった。学業での成績はもちろん高水準を維持していたため、彼の活躍ぶりは、それはもう破竹の勢いといっても過言ではない。

 だが、彼の目標であった東雲といえば、夜宵のうなぎ登りに反して足踏みをするような状態が続いた。部活動のバスケでも不調が続き、試合でも良い成績とはかけ離れた成果である。とはいうものの、東雲は悔しがって落ち込むことはもちろんあったが、本人はさしてそれを不審に感じることはなかった。しかし、不思議な道具を使った後にこうも同時期に変化が起こっているのだから、夜宵が多少なりとも怪訝に感じることは自然なことだっただろう。夜宵が周囲に賞賛されることで快楽を覚えていたことは確かだが、友人が徐々に意気消沈していく姿を見ると、彼は幾分心が苦しくなった。

 数日経ったある日、夜宵は羽ペンを頂戴した女性に遭遇した線路沿いに再び赴いてみた。はたして彼女は示し合わせたようにそこに居座っており、夜宵を見ると感情の読めない微笑を浮かべた。夜宵が事情を説明すると、相変わらず帽子を目深にかぶった女性は快く話してくれた。

「あぁそれはね、その東雲くんの能力を君が借りているからだよ。あの羽ペンはね、書いた人物の力を自分に移し替えるんだ」

「借りている……」

 呟きを漏らす夜宵をよそに、女性は指を立てて講釈垂れるように続ける。

「考えても見なよ。何の代償もなしに、どこからともなく力がわんさか湧いて出ると思う? どこかで何かが増えれば、別のどこかで同じだけ減る、当たり前のことでしょ? 魔法は万能じゃない。理解できないから魔法ってだけ。人間には扱えないから、時に神の力なんて呼ばれるけど、所詮その程度のものなんだよ」

 すらすらと語る女性の説明に夜宵は愕然とした。それはもちろん、自分の行ったことがいわば泥棒と同じだったからである。取り返しのつかないことをしでかしてしまったとさえ思った。

「まぁ満足したなら、さっさと返してあげなよ。君も、いい気分ではないんでしょ?」

 言われなくてもそうさせてもらうと、夜宵は家に飛んで帰った。自室に駆け込み、机に放っておいた羽ペンとインク瓶、そして紙切れを探す。しかしどれだけ探しても、置いておいたはずの紙が見当たらない。夜宵は言いようのない不安と焦りを覚えた。階段を駆け下り、母にインクで名前の書かれた紙について尋ねてみたところ、嫌な予感は的中した。

「紙? あぁ、そういえば廊下に紙切れが落ちてたから、今朝他のゴミと一緒に捨てた気もするわね。あれ、もしかして大事なものだった? ってきりゴミを落としただけだと思って、ごめんね」

 数日後、夜宵はまるで抜け殻のような存在に成り果てていた。身体能力だけでなく成績もがた落ち、以前の自分の方がまだマシだったと思えたほどである。他方、東雲はと言えば、運動能力は元に戻り、それどころか勉学にも才を発揮するようになった。あたかも夜宵のすべてを吸い取ってしまったかのように。彼らはその後、もう元の姿に戻ることはなかった。

 ところで、羽ペンを夜宵に押し付けた例の女性がその様子を見て、後にこう言ったことは彼らが知る由もない。

「あーあ、燃えちゃったか。そりゃあ、自分を描きだしてそこに無理やり彼をねじ込んだんだから、そののまま消えると何もかも失っちゃうよね。あの羽ペンを作った妖精は彼のことをどう思うのかな」


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